何事にも終わりがある。

あれほど繁栄したローマ帝国にも、江戸幕府にも終わりがあったし。
聖人君主であろうと、英雄豪傑であろうと、人生に終わりはある。
自分の人生にも、終わりがある。

自分も死ぬのだと思った時。

ただ、夜の闇の中で膝を抱いて蹲っていると。
いいしれぬ寂寥感に囚われはするけど。
ただ、失われた時の記憶だけが、自分の存在を際立たせてくれる。
そんな気がします。

僕にとって、死という一点に帰結するなら、人類の滅亡も、国家の興亡も、聖人や偉人の死なんかも、自分の死と変わりはない。
つまり人は、死の前に平等。
その上で、いかに生きるべきかと問い。
そして、いかに死すべきかと問う。
おのれの生きる意義、意味は、自分に向かって問うしかなくなる。
僕にとってそれが神なのです。

おのれの生に正直になるしか救いはない。
正しいとか間違っているかではなく。
何を信じ、いかに生きるか。
僕は、一人になると、それを神に問うのです。
何故と問うても答えは得られない。
でも問わずにはいられない。
だから、神に向かってなぜと、私は問うのです。

ハムレットで父王が何の心の準備もしない内に彼岸に追いやられというところがるではないですか。
クリスマスキャロルも、ロミオとジュリエットも、ファウストも、キリスト教徒にとって死と救済は永遠のテーマですね。
僕は、正直、常に神を意識するんですね。
神は救いですよ。
それは日本人にはわからないけれど。
神は、救いです。
ただ、自分にとって真実の神でなければいけないと思うのですけれどね。

神と自分とは一対一。
直に、神を感じ、対峙する。
それが、私の信仰なのです。

何もかもかなぐり捨ててただひたすら信じる事が出来たら。
神を必要とするのは、私たちです。
そう思いませんか。
自分の為に神を信じるのです。
僕の信じる神は、それをお許しなる。

一神教徒にとって、死は、同時に神の問題です。
僕も一神教徒ですけど。
僕の。
キリスト教徒でも、ユダヤ教徒でも、イスラム教徒でもないですけれど。
死を考えるのなら、神を考える事だと思います。

最近、コロナ騒ぎで、すっかり、医療技術の限界が見えて。
科学の発達が、病を克服したなんて、人間は、思いあがってきたけれど、その化けの皮がはがれて。
狼狽えている。
結局、人間は府市にはなれない。

病もですが、ある意味で、老いの方がずっと残酷な気がしますね。
最近は。
衰えは、四十から始まる。
じわじわとですね、壊れていく。
身体は衰えても気持ちが追い付かない。
四苦とはよく言ったものです。
こいつは、プーチンだって、習近平だって、トランプだって逃れる事はできない。
時は、残酷ですね。

どうしようもない。宿命ですね。
受け止めるしかない。受け入れるしかない。

年寄りのね、引き籠り。
孤独死ですね。
それがじわじわと広がっているそうです。
引き籠りなんて我々の世代が始まりですね。

ただ、生きているだけの人生になって。

鬱になったと言う人にね、聞いたんですよ。
そんなに早く帰って何してるんだと。
缶酎ハイ飲んでいますと。
テレビは見ないのかと。
テレビはつけるけど、見ていないと。
最近誰かと酒でも飲みにいった。
誰とも。
ビアホールは、コロナ以後行ってない。

生きているのかどうか。
少なくとも動物的でない。
足元に水を撒いてやろうかと。

若い頃は、生きると言う事の切なさや、死に対する恐れも抱いていなかったのに。
怖いもの知らずだったのに。
老いて今、なぜに、何を、それほど恐れるのか。

何故でしょうね。
死と向き合うと、猛烈に生きたいと思うくせに、生と向き合うと死にたいと思う時ある。
所詮、行き着くところは同じなのに。
死刑囚は、潔くなると言うのに、無期徒刑囚は汚くなる。
余命を宣言されると、ドラマになるのに、ただ生きてることは話にもならない。
何が違うと言うのでしょう。
遅かれ早かれというのに。

思いっきり俺は生きているんだと叫びたくなる。
俺だって生きているんだと。

親父は、いい時は短いものだと言いていっていました。
祖母は、苦娑婆だよ、苦娑婆だよと口癖のように言ていたそうです。

僕は、哀しいのです。
誰にこの国を引き継ぎ、この国を引き継がせればいいのか。

この国の歴史も、親父たちの人生も、泡と消えるのかと思うと。
恩もなく、人情もない。

人間が滅んだとしても、この地上の生き物は、したたかに生きていくだろうと。

だとしたら、生も死もどれほどの意味があるのでしょうね。

何なのだろうと思いますね。
感傷的にもなりますが。
諸行無常とか、人生の儚さとか。
今の時代より、古典的、否、戦時中だって、ずっと強く感じたのでしょうし。
生や死についって考えさせられたんだと思うのです。
それが小説となり、芸術生み出した。
でも、現代人は、唯物的で、命について感度が鈍く。
切なさや哀しさも、どこか空々しい。
父たちは、死を身近に感じていたし。
そんな親父たちを我々は、どこかで見下してきた気がします。
科学、科学と、でもどんなに科学が発展しても生病老死の四苦から解放はされない。
その事に今更ながら気がつかされて。

虚しいし、空疎だし。
仮想空間だの、インターネットだのが発達すればするほど。
生身の人間の世界が希薄になり。
生きていると言う現実すら絵空事に。

でも、あんたが、昔、好きだった人がいると言うのなら、好きだったと言うのは、現実だし。
確かなはず。
これからの時代は、その記憶を頼りに、自分の体をまさぐり、或いは、痛みで自分が生きている証を得るしかないのかもしれませんね。
心の微かな疼きでさえ。
自分が生きていると言う実感を与えてくれるのだから。

僕が、神を感じたのはそんな時ですね。
科学を学びながら、その対極にある非科学的な世界ですね。
人間は、何もかも、解明したつもり、わかったつもりでいるけど何もわかっていない。
そこに、文学があり、宗教があるのに。
宗教や文学は、科学と光と影の関係に。

でも、十分、理屈っぽいですよね。

恋は恋。
一夜の夢。
泡沫の夢。
快楽主義であろうと、禁欲主義であろうと、刹那主義であろうと。
一瞬の時に永遠を感じるのに変わりはないのかも。

昨日、十四年、かわいがっていた、オカメインコが亡くなりました。
命という事ですね。
他人からみれば、他愛ない話ですよ。
でも家内の胸元で最後は息を引き取ったという事で、家内は、今まで当然だと思ていたことが、当然でなくなる。
顔を寄せる様に這い上がってきて、最後に何っか語りかけて、かくと首を垂れて逝ったそうです。
今の人は、死という物を身近に感じていないから、今という時間を生きられない。
たかが、小鳥と言いますが、その小鳥の死を悼む事が出来ないものが、なぜ人の死を重んじられるのだろうと。

自分の無力さを、思いっきり思い知らされましたよ。
どんなに偉そうなこと言いても、小鳥の命一つ救えない。
それこそが神の意志。

考えてみれば、神は、小鳥や動物と人間のどちらを愛でているのだろう。
人間は、自分で万物の霊長などと思いあがっているけど、少なくとも動物は、神に挑んだりしないし、自然の掟を破ったりしない。
戯れに命を弄んだり、必要以上に資源を浪費したりもしない。
小鳥や猫、犬の方が純粋に人を癒してくれることもあり、失った時の痛手が大きい時もある。
だから、人の方が動物より神に愛でられているとは言いきれない。
人間は傲慢になる一方だ。

火が、人間に文明をもたらしたとし手も、その火、原子力が、人類を滅亡させる原因になりかねない。
ならば、文明の功罪はいかほどか。
神の力を得たところで神を超えられはしない。
大事なのは神の意志だ。
神の心を持たずに、神をの力を手に入れる事は、自らを滅ぼす原因になる。

猫に小判、豚に真珠というけれど。
猫は、小判のために同類を殺してたりはしない。
豚は、真珠の為に仲間をだましたりはしない。

金は、人を変えてしまう。
普段、金の為に、働いているわけではないとか、金なんてと金を蔑視する者でも。
金に困れば、人は、親を裏切る事も、子を売る事も、友を欺く事もする。
人は、おのれの浅ましさを直視しないと。
人は、所詮、神を超えられない。

人は、もっと生きる事に真摯にならなければ。

今の人は生きるといい事の意味を本当に軽く感じている。
親父たちは、戦場で、或いは、結核と言った病で死を身近に感じていたからこそ。
今日一日を生きると言う事の難しさを感じて生きていたのだと。

医療ビジネスに携わる人は、常に、人の生死にかかわっている。
だから、一日いちにちを真剣に取り組んでいるから、使命感をもって仕事ができる。

自分も、今日が最後の日だと思いながら全力で生きていきたいと、家内は吐露して泣きました。

刻一刻、死は近づいてくる。
逃れる事はできない。だれも。

最近、晩節を汚すなという言葉が死語のようになってしまたとしか思えてなりません。

人は生きる事の意味を、今、問われている気がします。
だのに、本当の文学は枯れてしまったように思えます。

山頭火だって、芥川だって、太宰だって、宮沢賢治だって、芭蕉だって、ドストエフスキーだって、カフカだって、みんな、死と対峙したから、文が書けた。
自分の終わりに気がついたから、文が書ける。
そう思うしかないではないですか。
本当は人は誰でも死と隣り合わせなんですよ。

人の一生は、一日一日の積み重ねの上に成り立っている。
一日怠れば一日遅れる。
一年怠れば、三百六十五日、十年怠れば、三千六百五十日遅れる。
気がついた時には、取り返しのつかない程、遅れてしまう。
いつまでも、若いと思っていたら、すぐに、老い衰えてしまう。
若いうちにしかできない事はたくさんある。
一日一日を大切に、全力で生きる事だと思うので。

人間の価値など、生きた長さは測れわしない。
何故なら、人の一生は、一瞬一瞬の今という時間の積み上げだから。
一瞬の気のゆるみで人生を台無しにしてしまう事さえある。
長く生きれば偉いと言うのではない。
今という時間に永遠のきらめきが隠されている。

島木健作の赤蛙とか、井伏鱒二の山椒魚とか、芥川の蛙とか、とるに足らない命と人が見下すような存在でさえ。
精一杯、生きているのだと。
その事の重さがわからぬ者が、平和だの、革命だの、文学だのと叫んだところで、なんになる。
そう思いませんか。
一生懸命、生きるしかないのです。
一日一日、たとえ限られた人生でも。

僕はね。
その感性の背後に神を感じるので。
その感性を大切にすれば、神が見えてくると。
透明な感性。
生きる事も、死ぬことも超越するような。

何かの宗教に囚われる事になく。
天国とか地獄とか、死後の世界とかではなく。

直に、神を感じる。

何事にも終わりがあるとしたら。
僕にとって人生は、死への道程に過ぎない。
人生は修行だと。

人生そのものが奇跡なのです。

神は、問いかけているのだと。
何故と。

僕の言う神は、自分にとっての神ですね。
いわゆる、自分を超越した存在としての神。
そしていつも神に問うのです。
応えは、求めませんが、これでいいのだろうかと。
僕に言う神は、僕の問いに耳を傾けてくれる神なのです。

自分なりの答えを得る為に。

我々は、従前の神に囚われている気がするのです。
僕の言う神は、何ものにもとらわれるあるがままに自分が感じる神ですね。
ただ、自己を超越した存在です。

無条件に信じられる存在です。

僕は、二十代の時、考えたのです。
我々は、何かとんでもない間違いをしてきたのではないのかと。
神でない存在を神と。
直接神と対峙しな限り神は我々の前に出現しないとそう思ったのです。

もう七十になりましてね。

この歳になると、自分と向き合わなければならいと、思うようになりました。
だから、僕は神を必要としたのです。
いいところも悪いところも。
過去に犯した罪も、赤裸々にし。
あるがままに、さらけ出し、純ある魂に戻らないと。
いつお迎えが来ても困らないように。
そうなると、自分をさらけ出せる相手、存在が必要となったのです。
自問自答しても、自分を超えられない。
自分の心の闇に、奈落の底に沈んでいくしかない。
救いようがないです。
だから、なぜと問う相手が必要なのです。
きわめて、身勝手な動機で、僕は、神を信じてる。
でも、宗教なんて本来そんんなものでしょ。
神を必要としているのは人で。
神は、人間なんて必要としていない。
なぜなら、神は、人間によって存在するわけではなく。
神は神として超越的に存在している。
それに対して人は、神を超えられない。
その先は、神の慈悲だと。
だから、僕は、神を、自分に都合よく解釈している。
統一教会だって、オームだって、け局、信者たちは、自分の都合のいいように紙を大義して神を信じている。
実際は、信者には神を信じなければいられない理由があるのです。
それを理解しなければ、統一教会やオームの事なんて理解できないのです。
でもその辺がわかれば、神の本質が見えてくるのです。
神を必要とするのは、死後の事を恐れというより。
自分の魂の浄化と救済だと。
だから、僕のとって神は、自分が常に一対一に対峙する対象であり。
自分越えた何者かなのです。
不可知で、不可思議な存在。
だから、ただ感じるしかないのです。

自己と神との間に何ものも介在させてはならない。

何事にも終わりはある。
人生の終わりには、ただ一人、裸になって神と対峙するしかない。
それが、私の信じる神。

自分の人生と世界の歴史。
ひき比べようもないですが。
でも、自分の人生の延長線上で世界で起こりつたる事を見ないと、どこか歪んでしまう気がするのです。
あなたの指摘した陰謀論の空疎さも。
それは、結局、自分とかかわりのないところで起きている妄想に過ぎないからじゃないでしょうか。
あなたの生き様。今自身の上に起きている様々な出来事は、自己の生き様という一点において凝縮され。
世界に向けて発散される。
生きるとは何か、自己とは何か。
永遠とは、そして、真理とはという問いに結び付いていく。
自己とはこの世界の存在前提であり。
この世界がどうあろうと、おのれが純粋に守らなければならない道義に結実する。
それは、交わるはずのない自己と世界とが、収束する瞬間。
神と自己とが出会い、融合する。
その時。人は、超越者と一体になる。
自己の魂の救済とこの世の救済が成就する。
これは、まだ、僕の空想ですけれど。

善もなく。悪もなく。
あらゆる囚われから解放され。
純なる魂をひたすら追い求めた時。
死もなく、生ものなく。
過去、現在、未来の別もなくなり。
普遍の時に、身をゆだね。
この一瞬のきらめきの中に、永遠を直観する。
その時、魂の救済は成就する。
なぜ、人は、神を必要とするのか。
それは、魂の浄化と救済のため。

神はこう呟かれている気がするのです。
生きなさい。
生きて幸せになりなさいと。