何かが足りない。

なぜ、今の仕事がいいの。どうして、その学校を選んだの。なぜ、あの人が好きなの、そう聞かれた時、グッと言葉に詰まる。

どう、答えたらいいのか。「お金」の為と言えば軽蔑されそうだし、最初から、それほど「お金」をもらえるわけではないし。何がなんでもというような動機があるわけでもないし。夢があるわけでもない。生活の為なんて言ったら白々しい。

なんとなくとか、皆が働いっているから。取り合えず、親や皆の手前どこかに、就職しないと格好がつかない。

でもそれだけでは、一生、同じ仕事を続ける自信は持てない。

何かが足りない。何かが、欠けている。

戦争に負けてから、物事の本質を考えたり、考えさせることを、日本人は、避けてきた気がする。

なぜと問うこと自体虚しく、意味のない事。そう思い込んできた。そう思い込まされてきた。思想だの哲学だのと言ったって虚しい。空疎な、きれいごと。現実は、人間は汚くて、醜い。所詮、「金」、「金」、「金」。

それでも、なぜと問わずにはいられない。それが、人間。なぜ、俺は生きているのか。どこに義があるのか。

己(おのれ)とは何か。俺は、何のために生まれ、誰の為に生きているのか。生きる目的とは何か。たとえ、知りえない事と解っていても考えずにいられない。

自分なりの答えが見つからなければ、自分がこれまでしてきた事、生き様、これから挑もうとしている事が虚しくなってしまう。嘘でもいい、明らかにしたい。それが、切ない望み。

自分が仕事をするのは、金儲けの為なのか。人を愛するのは、欲望の為なのか。成功は、地位を得たいからなのか。有名になりたいのは、他人認められたいからなのか。ただ、人は、我利我利、私利私欲のために生きているだけなのか。

でも、友に、なぜと、問われた時。仕方ないから。金の為さとしか、気恥ずかしく言うしかないなんって悲しすぎる。

若い時は、意味もない事に悩む。些細な事で考え込む。どうでもいい事で思い詰める。一見ね。でも、他人から見たら、つまらない、些細なでどうでもいい事に見えたとしても当人にとっては深刻。だったら、思いっきり仲間にぶつければいい。そして、話して、話して、話し合えばいい。答えは、見つからないかもしれないが、芯はできる。仲間もできる。

俺はなぜ生きているのかとか。なぜ、俺はここにいるのかとか。愛とは何かとか。世のため人のために役に立ちたいとか。何が正しくて、何が間違いなのかとか。そんな、気恥ずかしくなるような、雲をつかむような、得体のしれない、訳の分からない、疑問、問い掛けから思想も哲学も、科学も生まれたのだから。躊躇せずに周囲にぶちまけていけばいい。何を信じ、何をしたらいいのかと…。俺はこのままでいいのかと。それが若さ。周囲の無理解さなんて、なんのその。かまうことはない。臆病になるな。

ある時を境に、若者たちの熱気が一気に冷めてしまった。私にはわかる。なぜなら、自分たちの世代が端境期だったから。

先輩は、反逆、反抗、闘争世代。反権力、反体制、反権威、反戦。後輩は、三無主義。無気力、無関心、無責任。その間に挟まれた我々は、熱くもなく、醒め切っているわけでもない。諦めと若干の後ろめたさ。のめりこめば泥沼、何もしなければ、何も変わらない。

どっちにしたとところで芯がない。

芯がなければ、歳とともに我を失っていく。自分が失われていく。

退職し、家族がバラバラになり、唯一人、部屋に取り残されたら。自分のしてきたことは、なんだったのかと考えざるをえない。しかし、それは、虚しい。

我々は、いつの頃か。国益だとか。国防なんて口に出す事さえ許されない。憚れるようになってしまった。

愛国心なんていたら、それこそ、国賊扱い。変人か、単純に右翼だ、軍国主義者と決めつけられた。

しかし、愛国心とは、親が子を慈しむ様に、子が親を慕うように、夫が妻を労り、妻が夫を愛おし思うような自然の情である。理屈や思想で国を思うわけではない。愛国心によって戦争を煽る者もいれば、戦争に反対する者もいる。

平和は、理想。戦争は、現実である。現実を直視するから、理想(平和)は、遂げられる。理想ばかり語っても平和は維持できないし、現実ばかり見ていたら、現実に呑み込まれてしまう。向かうべき方向を見失う。

右であろうと、左だろうと国を思わぬ者に思想を語る資格はない。誰も守ろうとしない国は守り切れるものではない。

今の日本には軍人がいない。軍人というのは、武人である。日本の知識人は、自分が攻めなければ、相手は攻めてこないと決めてかかっているが、ならばなぜ、あれ程、多くの植民地があったのか。軍人、武人のいない国はないのである。自分の力でまめれない国の主権は認められないのである。軍人がいなければ軍人の考えは理解できない。

なぜ、何のために、なんて問う事、自体無意味であるように、思いこまされてきた。

しかし、芯がなければ、自分がなければ、何をやっても虚しく。どんなに、成功しても得るものはない。欲に際限はなく、底なし沼に引きずり込む。満ちたりる事を知らづ、心は常に貧しい。

確かに、人は、欲得で動く。欲が悪いとは言わない。しかし、志がなくなれば、人は欲得だけで生きる存在でしかなくなる。欲得でしか自分の生き様を語れないのは、さもしい。それは、美しくない。志があるからこそ、人は、己の醜さを乗り越える事が出来るのだ。欲得だでしか人生が語れないなんて惨めすぎるし、耐えられない。余命を宣言されるとドラマ、悲劇が生まれる。しかし、余命を宣言されようとされまいと、人は、いつか死ぬのだ。余命を宣言されずとも、納得のいく人生を送らなければ…。

あと少しか生きられないと解ってから一念発起しても遅すぎる。