総ては、存在の働きから
存在の働きは、存続する働き。
良くしようとする働き。
守ろうとする働き。
純な存在の働きは継続性、持続性、存続性として現れる。
存在の働きは継続しようと追いう働きとして現れ。
それは、存在を守ろうという働きとなり。
それは、自分を守ろうという働きに転じ。
それは、自分を生かす存在を生かそう守ろうという働きになり。
自分が生かしている社会、集団、国を守ろうとする働きになる。
そして、自分を善くしようという働きになり。
自分を生かす環境、存在よくしようという働きになり。
それが善となり、愛に転じる。
働きは、働きを生む。
働きは、他の働きに転化する。 働きは、連鎖する。
働きは、共鳴、共振、共同する。
働きは、均衡する。
働きは、一体化する。
働きは、意志の働きを生む。
主体的働きに転化する。
主体的働きは、分別の働きに連鎖し、意識の働きの転化する。
主体的働きは自他の分別の働きになり。
自他の分別の働きは、内と外のの働きを生み。
内と外の働きは均衡する。
意識の働きは、外部の存在の働きに、共鳴、共振し、共同する。
自他の働きは主体的働きによって一体化する。
このように、存在の働きから全ての働きは生じる。
故に、この世界は存在の働きによって統一されている。
作用反作用、相互牽制、相互抑制、自制だよね。
そして、自分を存続したい自愛。
相手をよくしたい慈愛。
愛によって昇華(アウフヘーベン)。
問題は働きとその背後にあるシステムですね。その組み合わせが国民国家、民主主義の本質です。
その原点を明らかに根本を統一してかかる。
在り在りて在る。名はない。
言葉は分別の働きによって生じる。
有りて在る。
אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶה(エヘイェ・アシェル・エヘイェ)
「אֶהְיֶה」(ehyeh、エヘイェ、わたしはある)
「I Am that I Am」
「ehyeh asher ehyeh Esse ipsum subsistens」(自存的存在)
「actus purus」
「Ἐγώ εἰμι」
「ἐγώ εἰμι ὁ Ὤν」(egō eimi ho Ōn、私は存在する者である)
「ἐγώ εἰμί」(egõ eimi、エゴー・エイミ、わたしはある)
「Je suis celui qui suis」
「Ich bin, der ich bin」
「Je suis celui qui suis」
「Ego sum qui sum」
「Qui est(在る者)」
「ipsum esse subsistens(自存する存在そのもの)」
「ὁ ὤν」
「Сущий」
「أَهْيَهِ ٱلَّذِي أَهْيَهِ」
「wājib al-wujūd」
「τὸ ὄν」
万物は流転す。
天
易に太極あり
不易 変易 簡易
日ニ鑿二チ一竅一ヲ、七日ニシテ而渾沌死ス。
日に一竅を鑿ち、七日にして渾沌死す。
名の名づくべきは常名にはあらず。
無は天地の始めと名づくべく、
有は萬物の母と名づくべきなり。
故に、常無にして以てその妙を觀んと欲し、
常有にして以てその徼を觀んと欲せよ。
諸行無常
諸法無我
色不異空、 空不異色、 色即是空、 空即是色。
受・想・行・識・亦復如是。
不生不滅、 不垢不浄、 不増不減。
是故空中
無色無受想行識
無眼耳鼻舌身意
無色声香味触法
無眼界乃至無意識界
satyam sat(सत्)
jñānam bhāva(भाव)
anantam ātman(आत्मन्)
brahma brahman(ब्रह्मन्)
tat tvam asi
bhāva / pratītyasamutpāda satyaṃ jñānam anantaṃ brahma
भवन
भव
エジプト古語 wnn(ウネン)。(ケペル/ヘペル)。jw(イウ)。ꜥnḫ(アンク)
F=ma
A point is that which has no part.
A line is breadthless length.
Σημεῖόν ἐστιν, οὗ μέρος οὐθέν.
Γραμμὴ δὲ μῆκος ἀπλατές.
Γραμμῆς δὲ πέρατα σημεῖα.
Εὐθεῖα γραμμή ἐστιν, ἥτις ἐξ ἴσου τοῖς ἐφ’ ἑαυτῆς σημείοις κεῖται.
考える、故にわれあり。
Je pense, donc je suis.
I think, therefore I am.
Ich denke, also bin ich.
Cogito, ergo sum.
ubiquitous
命。life。vitae。La vie。Leben。жизнь。
事実。fact。facere。fait。fakt。
前提。premise。praemissa。prämisse。
根拠。causa。fundamentum。evidentia。
始原。principium。archē。origo。prima causa
源。fōns。orīgō。radīx。principium。
主体的働き
思考
志
汝己を知れ。
γνῶθι σεαυτόν
(グノーティ・セアウトン)
Nosce te ipsum
(ノスケ・テ・イプスム)
Know thyself
Connais-toi toi-même
Erkenne dich selbst
働きは力
働きは力である。
働きは力を生む。
働きは力となる。
働きは力になる。
働きとは力である。
存在の働きから、自己(主体)の存在の働きが生じ。
自己の働きによって国家の働きが生じる。
国家の働きによって権力が生じ。
権力の働きから三権の働きが分裂して、制度が生じる。
この他の流れは、自己の存在の働きから指導者の働きが生じ、指導者の働きが君主の働きに転じる。
このように働きの変化は一様ではないが、大本は一つ。
存在の働き。
変化の過程は不可思議。ただ根源は一つで、一つだから、一体になれる。
存在の働きとは、存続、継続しようとする働きである。
存続、継続させようとする働きとは、自分が存続していくために適した環境を作り、持続させようとする働きで。
それは、自分の環境を良くしようとする働きである。
自分を良くしようとする働きは、自分を正しくする働きである。
自分を良くしようとする働きは、自分の家族を良くしようとする働きで。
自分の家族を良くしようとする働きは、自分の国をよくしようする働きで。
自分の国を良くしようとする働きは世界を良くしようとする働きである。
世界を良くしようとすることは世界を正すことであり。
世界を正すことは、国を正すことであり。
国を正すことは家を正すことで、家を正すことは自分を正すことである。
この様に、自己と家と国と世界は対立軸ではなく、統一軸である。
学ぶことは教える事。教える事は学ぶこと。
学ぶことは教える事。教える事は学ぶこと。
学ぶ主体は教える主体。教える主体は学ぶ主体。主体に変わりない。
師は弟子であり。弟子は師である。
究極は自分が何を得たかで、その前に位置も関係も働きも無意味。自分にとっては。肯定も否定もない。対話から自分が何を得たかが大切なので。誰と対話し、相手と自分がどんな関係で、どういう立場かなんて二の次。
それに結局自分が得た事しかわからない。
相手の事は分からん。だからいつもわからんでしめくくり。
だから学ぼうと思いなおす。
わからんことは分からんのよ。
他人の心の内なんて、明日の事なんてわからん。それは明日考えよう。
相手が男か女か、年下か年上か。なんてくだらん。
実にくだらないとしか。そんな事に囚われたら恥辱でしかない。馬鹿げている。
わかったと思った瞬間わからなくなる。
わかったふりをするのはやめよう。
ますますわからなくなり重大なミスを起こす原因になり。
ミスしたら自分が許せなくなるから。
私は美人だと言う人を美人だと思ったことはない。
でも、私は醜女と決めつけている人も。
私は美しくなろうと日々努力している人を美人だと思う。
時が総てを変える。
今わかったと思っても明日また変わる。
わかったと思った瞬間、変化を見落とす。
時は無情。
わかったおもった瞬間に裏切られる。
ただ海の貴方をぼんやりとみるように。
海の変化をただ眺めるさ。
その時その時に永遠がある。
明日はまた明日の貴方に会えるさ。
今日は今日の貴方と対話を楽しもうね。
どちらが本当の貴方かなんて詮索するのは野暮な事さ。
何故って貴方に本物も偽物もありはしないのだから。
今日は今日の風に吹かれ。
明日は明日の風に吹かれる。
時の流れに身をゆだね。
今日は今日の夢を見るさ。
国民国家とは
では国とは何か。
国の働きとはなにか。
国の働きとは。
国の存続のための働き。
国を存続するためには、国をよくすること、正すことである。
国を存続するとは主権と独立を守る事である。
主権在民。
主権と独立を守るとは、国民の権利と義務を守る事。
国民の生命と財産を守る事。
国民の自由と平等と相互扶助を実現する。
国民国家が成立したときに個と全体は対立軸ではなく統一軸となり、働きは双方向になった。
そして対話が前提と。
国民国家は、自己の働きを基本とした個人を最小単位とした集団である。
ゆえに、何らかの規制をしないと全体を保持できない。
その規制が法である。
国民国家は一人ひとりの国民が主体的に関わる事で成り立っている。
では、国民が主体的に関わるとは、どういう事か。
国家の働きに対して責任を持って関わっていく事。
それが権利と義務を生む。
つまり権利と義務は与えられたというより国民国家の成立要件として必然的に生じた働き。
国民として拒むことができない、赦されない要件。
拒んだり、拒否したら、その時点で国民である要件を失う。
つまり、国民とは自己の存在の働きを根拠として成立している。
根本は、自己存在、存在の働きです。
自己は主体。
自己は、主体である。
自己を客体化したのが個人である。
個人が主体的に関わること形成されるのが、国民国家である。
つまり、個人が主体的に関わることで国民となるのである。
国民の根本は、自己存在の働きである。
自己の倫理観を基礎にして国家の法は形成される。
自己の倫理観は、外界に自己が主体的に関わることによって形成される。
すなわち、自己の育った外的環境、教育、社会、人間関係、自己の肉体的能力、容姿、性格、経験や体験等か複合的に作用してけいせされる固有、ユニークな相対的働きである。
故に、倫理は、外的規範によって一方的に強要することはできない。
合意に基づくことが前提となる。
国民国家の法と自己の倫理は、双方向の働きによって形成される。
個人の倫理はユニークであり、すべてを統一することは事実上不可能である。
故に、了解可能性と契約に根拠が求められる。
すなわち、形式と手続きである。
即ち、国民国家の正当性は形式と手続きを根拠とする。
そして、契約と宣誓が求められる。
なぜ、形式と手続きに正統性の根拠を置くのかどう言うと思想信条によって統一しようとすると、自己の主体的働きと対立する危険性があるからである。 要は構造である。
国民一人ひとりの存在の働きが国民国家の支柱となる。
では、形式と手続きが整っていれば国民国家と言えるかと言うとそうではない。
最終的に働きである。
働きか結果によって認められた時、はじめて証明される。
その意味では、国民が国民として正しい働きをしている、正しい働きを保障されていることが必要要件である。
働きとは力である。
例え、選挙という形式と手続きが整っていても、国民が正しい選挙活動が可能であることが保証されていなければ、いくら形式や手続きが整っていても、実体があるとは認められない。
ただ形式と手続きは最低限の必要要件だということである。
自己の存在の働きがどこまで保証されているかによって自由と平等がどこまで実現されているかが測られる。
基本、始まりは、革命。暴力的。これは歴史的事実。
同志的、全員一致。最初の全員一致は、決め方と決めて事に従うという一致のみ。一度。合意が形成された後は形式と手続に従う。
暗黙の全員一致。
国民国家は暴力的の成立したことを前提としないとつじつまが合わなくなり、新たな国民国家は成立できなくなる。
国民国家の成立には既存秩序の断絶が不可欠であり、歴史的にはそれはしばしば暴力を伴ってきた。この事実を無視すると国家成立の説明は空洞化する。ただし、その断絶は必ずしも暴力に限定されず、対話という手段が閉ざされたときに暴力として現れる。
国民国家というのは非暴力的な政権の交代を前提としてはいるが、国家を成立させる段階では、暴力的な支配者から権力を奪取しなければならない。
故に、革命的手段(独立、革命等)を否定してしまうと、国民国家は成立するのが難しい。
また、独裁主義や全体主義は暴力を肯定しているために、一方的、暴力的手段を否定すると、自分達を自衛することも、仲間を救出することもできない。
民主主義政権が短命で終わる原因は一方的に暴力的手段を放棄することにある。
無抵抗主義は、独裁的権力には無力である。
独裁主義国、君主国と国民国家との非対称性ですね。
現実にイランでウクライナでガザで戦闘が繰り広がれている事実から目を背けるべきではない。
そして、その暴力の被害者は女子供、社会的弱者だ。
自国が望もうと望むまいと他国は侵略してくることがある。
医者がいるから病気があるわけではなく。
警察があるから犯罪が生じるのではなく。
消防署があるから火事になるわけではない。
今も圧政のもとに苦しんでいる人々がいることを忘れてはならない。
暴力的手段を排除できない。
暴力を肯定するのではなく暴力を直視する事です。
医者は、病を直視する。
エネルギーは危険物です。
ただ危険物だと忌避するのではなく、直視し、正しく理解し、格闘する。
自分の内に潜む暴力性を直視せずに暴力を制御することはできません。
好むと好まざると己の内に潜む暴力性を白日にさらすべきなのです。
克己復礼。
自分に克つ為に。
日本人は、現在の日本が暴力によらず成立したかのように錯覚しているが敗戦という暴力によって戦後の国民国家は成立し、明治維新という暴力によって大日本帝国は成立したのである。
ただ、国民国家は、政権の交代を前提とし、暴力によらない政権の交代を仕組みとして組み込まれた体制であることを忘れてはならない。
それ故の革命であり、独立である。
暴力を否定すれば、暴力がなくなるわけではなく。
暴力とは相手がある。自分が攻撃しなくても相手が攻撃してくることがある。
暴力によらない手段が保障されてはじめて暴力は抑制できるのである。
国民国家の軍事的指導者は、国家国民に対する強い使命感をもつ必要がある。
過去の歴史を見てもわかるように国民国家は、容易に軍事独裁に取って代わられる。
なぜなら、国家の混乱の中から国民国家は誕生するからである。
まさに、太極から陰陽生じるである。
その意味でもアメリカ合衆国は、稀有な体制なのである。
また、国民国家の軍は、国民国家と国家国民に対する忠誠が求められる。
働きはベクトル、テンソル
働きは、働きを生む。
働きは、他の働きに転化する。
働きは、連鎖する。
働きは、共鳴、共振、共同する。
働きは、均衡する。
働きは、一体化する。
お金」も働きがなければ価値を生まない。
働きには方向がある。
すなわち、ベクトルであり、テンソルである。
ゆえに、次元がある。
法や方針には、社会、組織の働きの方向を整える働きがある。
国民国家、国民の根源は存在の働きである。
国家というものがあるわけではない、観念があるわけでもない。
国家の働きがある領域に働いてているのである。
国家の働きとは存在の働きで、存在の働きとは領域内に住む国民を存在させようとする働きである。
また、そこから派生して国籍のある人を保護しようとする働きである。
働きは、意志の働きを生む。
主体的働きに転化する。
主体的働きは、分別の働きに連鎖し、意識の働きの転化する。
主体的働きは自他の分別の働きになり。
自他の分別の働きは、内と外のの働きを生み。
内と外の働きは均衡する。
意識の働きは、外部の存在の働きに、共鳴、共振し、共同する。
自他の働きは主体的働きによって一体化する。
このように、存在の働きから全ての働きは生じる。
故に、この世界は存在の働きによって統一されている。
なぜなら、国民国家は国民の働きを根拠としており。
国民の働きとは、即ち、存在の働き→自己の存在の働き→自己の主体の働き→国民の存在の働き→国民国家の働きという変遷によって国民の権利と義務は成立しているから。
修身 斎家 治国、平天下。
古之欲明明德於天下者、先治其國。
欲治其國者、先齊其家。
欲齊其家者、先脩其身。
……身脩而后家齊。
家齊而后國治。國治而后天下平。
主とは
何を主とするか。
主とは中心的働きをいう。
主とは統一的働きである。
主となる実体を主体という。
主とは内なる働きで、外部から見た時、客となる。
主は一であり。主は統一的働きである。
故に主体は唯一である。
国家は主体的存在である。
国の主体を客観的にした働きが主権である。
国民国家の主権は国民にある。
主権在民である。
主権在民。
国家の独立と主権は国家の存在証明であるとともに国民の存在証明でもある。
国民国家の主権は国民の主体性の顕現でもある。
国民があって国民国家があり。
国民が国家の意志、魂、ならば国民国家は肉体。
気を集めれば心が籠り。
心が籠れば命となり。
命となれば、魂が入る。
魂が入れば、神宿る。
国家の働きは集合的主体である。
集合的主体は全体と部分からなり。
主体的働きをするためには、全体も部分も各々統一的働きをする必要がある。
勇断には中心がある。中心には、重心、内心、外心、垂心等がある。
集団の中心的働きをする人を主人という。客観的には、指導者である。
国民は、集団、主体の集合であるから、全体を代表するはたらきを必要とする。
集団を代表する働きをする人を代表者という。
集合の代表値には平均、中央、頻度などがある。
選挙とは、代表者を選ぶ統計的手段である。
国民国家は統計的体制である。
統計的手段は、選挙だけではない。
国民国家は、人口構造物、システムである。
人の意志によって構築された仕組みであって、無為自然になる物ではない。
自己の主体的働きが集まって国民国家は形成される。
故に国民の集合的意思の働きが力になる。
その力を結集する、哲学と思想が具現化して法を作る。
国民国家は、思想的、法的構造体である。
存在は、自己(主体)との関係と位置と働きによって認識される。
存在の働きは主体との関係と位置と働きによって認知されるから、国民国家は、国民間の位置と関係と働きによって形成される。
自分を存在させる働きは、自分で守らなければならない。
働きは力だからである。
自分を守ろうとする働きが自分の力になる。
外に向かって自分の内を守ろうとする働きが内と外を正す。
これが国民の権利と義務を生む。
権利も義務も、法も、与えられる働きではなく、存在の働きから生じるはたらきである。
経済の中心は国民生活
経済は、国民の消費生活を守る事である。
経済は生きるための活動である。生きるための働き。
国民国家は国民の生命と財産を守る事が目的である。
本来の働きから逸脱すると齟齬が生じる。
存在、本来の働きは、存在する、生きることです。
裏返すと存在させる、生かす事で。
国民は自分が生きるために国家を存在させ、国家は存続するために国民を生かす。 故に、国民生活が最優先のはずですが、軍の働きが優先されると国民生活は後回しにされ。
犠牲にされる。
国防を蔑ろにしろと言うのではなく、均衡を保てというのである。
とかく、オ-ル・オア・ナッシングになる。
だから、働きの優先順位をどうするか、そこに、思想や考え、基準が求められるのである。
根本は国民生活にある。
国民生活に脅威になるから国防を考えるのである。
公共投資も然り。
国民生活に必要だから投資するのに、公共投資が既得権、利権化すると本来の働きから逸脱する。
物事には順序がある。
働きにも順序がある。
先ず、国民生活を成り立たせるために何が必要なのかを明らかにする。
金儲けのために働くのではなく、生活のために働いて金を儲けるのである。
実はこの手順、順番が重要なのである。
国家存在の働きの根本は国民生活をいかに成り立たせるかである。
つまり、国民をいかに生かすかで、それは国家の存在に関わる。
そして経済とは、人が生きるための活動、裏返すと、人を生かすための活動だと言える。
人が生きるためには衣食住が不可欠で。
国民国家が存在するためにはすべての国民に生きていくために必要な最低限の衣食住を提供する事が求められる。
故にそれが国民国家第一の働きになる。
国民生活を優先したら争いは極力避けるべき。
なぜ、ここで人の生活を出したかというと、先ず、生活設計から始める必要があると感じたからで。
そこに国民国家の起点があります。
そこから経済の働きも政治の働きも財政の働きも国防の働きも派生します。
枠組みですね。
人生設計。生老病死。
それと、基礎的支出、衣食住に、交通、エネルギー、通信費。その他を分類した上。
超長期、長期、短期で区分していく。
それに、収入と支出を分けて考える。
人生と長期の収支と日々、家計簿というデイリー、一日の収支、そして人口構成の推移を組み合わせる必要がある。
個の集合だけど経済全体でみると人口構成が決定的な働きになる。
生産労働人口と総人口の構成の変化が決定的要因となる。
自分の力で働いて収入を得られる人口とその推移、それに対して扶養される人口の割合の推移。
扶養家族が増えれば増えるほど経済の負荷が大きくなり、収支の密度に質的差が生じる。
それが国家経済最大の課題になる。
何故かというと、働ける人の労働力が働けない人の面倒を見る為にさかれるから。
その分、生産労働が失われる。
見た目以上の負荷がかかる。
しかも一人の人の所得で負担する人の人口が増えれば、所得の働きに質的差が生じる。
実質的経済量は、人口に比例する。
実質的経済量は物質的実体を伴う。
実質的経済量は、消費量を意味する。
実質経済量は、物理的制約があり、有限である。
実質的価値は存在の働きにより、名目的価値は、認識の働きによる。
外的存在から発する働きの制約を物質的、実質的制約といい、内的意識から発する働きの制約を名目的制約という。
たとば、電気や磁気、システムで無形で目に見えなくても働きが認知出来たら物質的働きとするのである。
それに対し数やお金の働きは名目的働きとするのである。
働き生み出す実体(システム)にこそ存在の本性が潜んでいる。
物理学の本質もそこにある。数式の本性も。
だから、数式はモデルであり、システムだと。
国家のスケルトンが重要なのである。
スケルトンモデルを作ったら、素、基幹が見える。
スポーツのルールは枠組みと働きを規制しているだけで。
実際のゲームは肉付け。
どちらも重要だけど国民国家の骨格を明らかにしたければスケルトンモデルを作る。
スケルトンは、守るべき最小単位も明らかにしてくれる。
「お金」の働き
経済とは働きである。
経済的価値は、消費せれると失われる。
「お金」は消費されない。
故に、「お金」には、実体がない。
「お金」は手段であり、目的ではない。
「お金」は、使わないと効用を発揮しない。
「お金」をいくら儲けても買う物がなければ、役に立たない。
「お金」は、使わないと目的を果たせない。何に「お金」を使うか。
使い道が目的である。
経済とは国民生活を成り立たせるためのシステムである。
貨幣経済とは、「お金」を循環させる事で、財を分配するシステムである。
経済に太極あり。
経済には太極(市場)あり。
太極(市場)から両義(貸借・陰、貸借・陽)生じる。
両義から四象(少陰・総資本、太陰・総資産、少陽・費用、太陽・収益)生じる。
もう一つのながれ。
太極(市場)から両義(収入・陰、支出・陽)が生じ。
四象(少陰・負債、太陰・売上、少陽・資産、太陽、費用)
利益と資本が陰陽を結ぶ。利益は費用、資本は負債に接続する。
陰は入で、陽は出。
入と出は、表裏一体。
入は出であり、出は入である。
故に入と出で、経済は結びつく。
売りと買い。貸しと借りは一体である。
自他は表裏で結びついている。
そして、内と外の働きの総和はゼロに均衡しエネルギーは保存される。ゼロ和。
作用反作用は均衡する。
売り手には買い手が対応し。
借り手には貸し手が対応する。
総和はゼロに均衡。
経済の動きは、波動と循環。
正負、陰陽。
健全な赤字、損失を認めないと、また、不健全な黒字も利益もある事を前提としないと経済の実体を理解することはできない。
循環と波動が経済の基本である。
働きには、距離が影響する。
距離とは物理的距離だけでなく、時間的距離もある。
働きは、短距離で均衡する。
つまり、狭い範囲で均衡する。
つまり狭い範囲で生活圏が形成される。
場の形成
始まりは、愛。
出会い。
男と女が出会い。子を産み。
家族を作り協力して子を育む。
一人は外(生産)に働きに出て、一人は内(生活)を守る。
いくつかの家族が集まって社会を構成する。
人は一人では生きていけない。
一は二となり、三となる。
生活の場から生産の場が分離し消費の場が成立する。
生産と消費の分離は職住の分離を意味する。
更に、消費の場は、協働の場と私的な場が分裂し、公私の区別される。
そして、生産の場と消費の場の間に分配の場が生じ市場が形成され、貨幣が生じ金融の場が形成される。
これらの働きによって家計、財政、企業、金融の部門が形成され、国内の部門の場を形成する。
国内の場が形成されたらこれに国家間交易の場が加わり、家計、財政、企業、金融、海外に五つの部門が形成される。
さらに、この五つ部門の他に、要素のよって人と物と「お金」の場も設定される。
場の設定。
人の場。消費は私的場と公的場を形成し、私的空間、公的空間を形成する。
物の場。生産の場は物の空間を形成する。
「お金」の場。貨幣制度が確立されたら貨幣空間が形成される。
場の定義。場が設定されたら場の定義をする。
人の場の定義。
物の場の定義。
「お金」の場の定義。
場の前提条件。
人の場の前提条件。
物の場の前提条件。
金の場の前提条件。
場の状態。
人の場の状態。
物の場の状態。
金の場の状態。
関係の設定。
人と人の関係。(売り手と買い手、貸しで借り手)
人と物との関係。(生産、分配、消費)
人と金との関係。(収入、支出)
物と物の関係。(設備、原材料)
物と金との関係。(価格、物価)
金と金との関係。(為替、ストックとフロー)
時間軸の設定
段階の設定。
長期短期の推移分析。
予測、展望。
臨界点の設定。経済が相転移する臨界点を試算する。
自分の位置づけ。
自分の定義。
自分の前提条件。
自分と場の位置と関係と働き。
自分の状態。
自分と人、相手との位置と関係と働き。
経済は、循環、波動、回転。
貨幣経済、市場経済は、貸し借りによって動いている。
つまり、常に、市場には貸し借りの関係が働いていて、借りて蓄積した「お金」放出し、貸した「お金」回収し蓄積する力で動いている。
つまり、貸し借り、売り買いによる循環と振動による回転運動によって経済は動いている。
現代の経済問題は、この回転を強引に逆回転しようとするために市場構造が棄損することによる。
逆回転というのは赤字を悪いこととして無理やり黒字化しようとするようなことです。
逆回転をさせることで発生した余剰なエネルギーが資産や市場を膨張させ、極限に達すると爆発、暴走するのである。
それがバブルであり、インフレであり、バブル崩壊である。
バブルの崩壊はバブルの発生が前提である。
回転を止めると市場が分裂し、格差が拡大し、階級が構成される。
部門間、国家間の貸し借りを均衡しようとする力によって市場は機能する。
赤字が悪いので一方的に貸し借りが固定されるのが悪いのである。
借金が悪いのではなく返済ができなくなるのが悪いのである。
設備の償却期間、回収期間、返済期間、効用期間が合致するように価格を設定する。
何によって、どの様に、どれくらいの期間で解消するかの試算を立てておくことが求められる。
借り入れをした直後の過剰投資は回収計画、返済計画に影響する。
技術革新に期待して過剰投資をするには、リスクが伴う。
なぜなら、技術革新は設備の更新期間を圧縮するからである。
これに税と金利、利益、償却費という付加価値、時間価値が絡みます。
一番難しいのは何によって、どれくらいの期間で回収するか。この予測が一番難しく不確定。
実際はもうかる仕組みを作れるか。
目先の利益にとらわれると仕組み作りに失敗する。
何に価値を見出すかですね。
これも逆回転を招く。
税は配分の問題。
家計が私的消費の働きなら、財政は公的消費の働きである。
家計の収入が所得なら財政の収入は税である。
税には、所得の再配分の働きもある。
税制は、部門間の均衡を考え、人口の変化に応じて可変的な余地を残しておく。
税も分配の手段であり、通貨の流通量、物価、人口の変化、部門間の関係によって変化する。
勘違いしてはならないのは、税も所得と同じ配分の問題だということである。
皆で「お金」を出し合って街を清掃したり、橋を架けたりするようなことである。
問題は税が自分達に生活に役立つ働きをしているかである。
つまり、税金の使いみちが重要なので、税の使い道が、税の目的なのである。
国民国家の働きの実体は、税金の使い道に現れる。
税は、公と私の取り分の問題であり、所得構成に反映するように税制は設計される必要がある。
所得構成は、人口と人口構成によって決まる。
人口と人口構成は時代によって変化する。
故に、税制の構造的働きは一定ではなく人口と人口構成によって変化する。
税制は人口と人口構成の変化に対応できるよう可変的にしておかないと必然的に財政は歪む。
人口構成によって所得と公共投資、所得の再配分の密度が変化する。
一単位当たりの密度によって経済の様相は変わる。それに合わせって税制も変える必要がある。
所得の密度は、一人あたりの生活費、生活水準、平均賃金、人口構成、物価などの関数で定まる。
所得の密度は、一人の生産労働人口が総人口に占める割合、エンゲル係数、家計の所有する預金残高、歳出に占める社会保障費、所得に占める納税額、物価上昇率、所得の上昇率等。
人口構成は、未成年、青年、壮年、高齢者に分類される。
未成年と高齢者は、扶養家族とされ、未成年は親が、高齢者は子が経済的な面倒を見る義務があるとされる。
明治時代以前は、十五年、明治時代以降は、二十年を一単位とされた。
例えば、現代は、成人は二十歳からとされ、それまでは青年が、壮年は、四十歳とされ、六十歳以上の高齢の面倒を見るというのが社会通念とされた。
成人式が二十歳、定年六十などが象徴している。
明治以前は、十四歳までが未成年、十五で成人して、二十九歳までが成年、三十から四十四までが壮年、六十で還暦を迎えて隠居という構成。
現在の統計では、年少人口、生産年齢人口(15~64)、前期老年人口(65~74)、後期老年人口という区分もある。
半世紀前は大家族制で親の面倒は長男が見る。その為に主婦に過重な負担がかかり、嫁姑問題が深刻だった。
現代は核家族化が進み、高齢者は年金生活。親の介護問題は道徳から金銭問題へと移り、財政負担が大きくなり、独居老人、孤独死が深刻になる。
この様に時代的背景、家族制度などによって所得の密度は変わる。
所得の密度が変われば、粒度にも変化が現れる。
所得の粒度とは、所得に占める要素、項目の大きさ。
例えば、所得に占める食費と教育費に割合など。また、食費の構成、詳細。
税制は、国家経済の枠組みを形成すると同時に容易に変更できない。
反面、税制は、ビルトインストラビライザーという役割を果たす。
このような税制度は、構造的な働きを計算して柔軟なシステムを持つよう設計される必要がある。
次に公共投資について検討したいと思う。
経済は投資から
国家の起源は軍事である。
これは、歴史的事実であり、公共投資を考える時、この点を念頭に置いておかないと、公共投資の性格を明らかにできない。
経済は、投資から始まる。
投資は、主体、部門によって公共投資、設備投資、住宅投資、金融投資があり、各々、それぞれがよって立つ部門の性格を反映している。
まず、投資の基本的に構成を明らかにしておく必要がある。
投資は投資主体以外に生産者と消費者がいる。
これは、「お金」の流れと効果・効用を明らかにするためのカギとなる。
まず、市場経済の中核となる設備投資の構造を明らかにしたい。
設備投資とは、投資者が生産手段としての設備を金融機関や投資家から資金を集めて、生産者に設備を購入し、設備によって商品を生産し、消費者に売ることで収益を上げ設備投資の資金を回収する事である。
設備投資は、初期投資の段階では、金融機関から設備投資をするものがメーカーに「お金」が流れ、消費者から市場を経由して「お金」を回収し、金融機関に返済する。
住宅投資は、消費者が、金融機関から借金をして、建設業者から住宅を購入し、自分が働いて得た収入、所得の中から返済する。
公共投資は、税金を使って建設者に「お金」を支払って行われる。
資金の回収は、基本的に考えていない。
初期投資で税を使った段階で完了している。
「お金」が市場に流れるのは、労働者に賃金として支払われ、その賃金で財を購入した時だけである。投資した「お金」が市場から回収され市場を循環しなければ投資の効果を測る事はできない。
公共投資は、消費者と直接的な金銭的関わりはない。
公共投資だけでは市場に資金は循環しない。
所得に回された分だけ市場に還流される。
国債を発行すればその分余剰資金として金融機関に滞留する。
故に、景気対策として公共投資は最終的な解決にはならない。
ここで思い出してほしいのは国家の起源は軍事だということです。
この点が公共投資に決定的な影響を与えている。
国民国家以前の軍は人民とは無縁だった。
国民国家が成立する以前は、軍は私兵であり、財政は、宮廷官房だった。
国民国家が成立しても、軍や財政には、国民国家成立以前の傾向を色濃く継承している。 かつての軍は、私兵であり、公共事業は、施し。
民間、営利事業を蔑視し、公の事業は、別格で利益は度外視しても許される。それがお役所仕事になる。
また、支配者、被支配者という一方的な関係を土台とする。
しかし、国民国家は、主権在民を旨とする。
国家と国民は双方向の働き、権利と義務によって成り立ち。
国家理念、国家構想に基づかなければ国家目的は実現できない。
軍も国軍であり、国民の生命財産、国家の独立と主権を守ることを目的としている。
公共事業、公共投資は、国家理念、国家構想、国家戦略を明確にしなけれ既得権益、利権化する。
公共投資の回収は税によるが税が歳出と直接結びついていないため市場性がない。
そのために投資、生産、消費の循環が生まれない。
公共投資を景気対策に多用するのは危険。
私は公共投資を否定しているのではなく。
目的が不明瞭で、既得権益に偏った投資や景気対策、失業対策のためだけの投資はかえって経済を停滞させる。国家構想、国家理念、国家戦略に基づいた効率的、整合的な投資であれば市場が成熟して時に補完的な投資をすると同時に営利性を持たせるべきと。
国防も戦略が明確でないと抑止ができなくなり、既得権益化する。
国防を否定するのではなく。
公共投資も同じ。無原則で後先を考えないで。
行政の民主化が前提。
今の財政は全体主義、封建主義、権威主義的すぎる。
営利性、結果責任を重んじる仕組みにしないと。
責任の所在を、経済的結果を正否善悪で評価すべきではない。
結果責任を問うためには主旨、目的、目標、構想をあらかじめ明確にすべき。
公的な世界では、利益は悪いことで、私的な世界では、利益は目的だとしたら、一方的に黒字と赤字が積み上がる。
利益は指標である。
差が悪いのではない、差とする根拠が問題なのである。
人の役に立つから価値が生じるので、金儲けのために価値があるのではない。 AIも人の役に立つことをすれば価値が生じるので、金もうけはその結果である。 人の役に立つから金が儲かるのである。
公共投資は、所得の配分には影響し、国債の発行で資金を調達すれば市場に資金を供給することになる。
ただ、基本的に所得は分配の基準であり、経済は閉じた系であり、全体は零和に均衡している。一意的に増加することはない。
すべての消費者に必要な「お金」を配分することが前提なのである。
経済的効用がなければ「お金」は、循環しない。
経済的効用とは、そこで人が生活、人の営みに関わっているかである。
経済量というのは財や用役の消費量である。
教育は権利であると同時に義務でもある。
根源は愛。
愛の働き。
人類愛、愛国心、家族愛、自愛。
なぜ、教育は義務なのか。
教育は権利でもある。
何を教えるのか。
愛国心、国を愛する事。
国民が愛せる国にする事。
故に、教え、学ぶ。
国の成り立ち、国の仕組み、権利と義務、国の働き、国民の働き。
故に、教育は権利であり、義務。
教育は、受験の為でも教育のための教育でもない。
国民国家の働きを学び国民として働くために。
学び教える。
それが義務教育の目的。
忠とは心に中る。
自分の心から出る誠。隷属でも、服従でもなく。
心から国をよくしたい思い学ぶこと。
忠なるが故に愛国心は服従、隷属を意味せず。
諫言、忠告も愛国心から。
故に国民国家は愛国心から生まれ、改心する。
故に愛国心のある者は争いを望まない。
何故なら愛国心の本性は、国民愛だから。
真の愛国心を教えられない教育は教育ではなく。
義務にも権利にも反する。
何故、先の大戦で逝った若者のいつわざる声を教えてはならないのか。
国防に関して
国民国家はその建国の経緯からして理念的国家です。
ここが近代国家が近代以前も国家と決定的な違いで。
その要件からすると今の日本が独立した国民国家と言えるかどうかははなはだ疑問です。
それは、国民国家は、国民自身の力で主権と独立を守ることが原則です。
自国の憲法を自分たちの力で守る。
国防を他国に依存している国は、基本的に属国扱いを受ける。
国民が自分で守ろうとしない国は、守り切れない。
国防と侵略とは違う。
この点も明確にできなければ独立国とはみなされず。
その上での国是、建国の理念です。
それは存在の働き、自分で自分を守る働きに反するからです。
問題は事実上日本は国防主体を保持しています。
この事実を認めた上で、自国の国際的役割を明確にする必要があります。
その上で侵略を否定するならそれはそれで意味があります。
問題となるのは正式に国防力の保持を明確にせず不可侵にしていることです。
建国にしろ、国防にしろ、国民覚悟が土台になります。
その点を曖昧にしてきたことが国としての主体性を歪めてきたことは否めない。
一番は自衛官の地位の問題です。
国民国家は、国家理念、建国の理念を土台とした国であり。建国の理念は、正式な手続きによって憲法として明文化、成文化されいる事が原則です。
憲法に問題があるというより、憲法に対する国民の働き、認識に問題があると言う方が正確です。
憲法を神聖視する事と不可侵、禁忌、聖典化とする事とは違います。
憲法は現実の契約の書で、理想論ではありません。
理想憲法なんてありえない。現実にどう生存し、どう存在するかを明らかにする法です。
国民の生命と財産を守り、国の主権と独立を守る働きが求められるからです。
国民国家としての実体を持たせないと、国家そのもの虚構と化し、存亡の危機に立たされる。国家としての主体が保てなくなる。その兆候が官僚機構にみられる。
国民の意志、主体性を取り戻すかないが、その前に破綻する。そこから志をもって再生する若者が。
なぜ若者か。無垢だからですよ。
何を守らなければならないのか、そこに核心がある。
守らなければならないのは、我々を存在させている何者かの働きである。
何を守らなければならないのか。そこに核心がある。
何を守らなければならないのか、そこに核心がある。
守らなければならないのは、我々を存在させている何者かの働きである。
何を守らなければならないのか。
それは、自分を存在させている何者かの働き。
一つは、存在そのものの働き。
一つは、自分自身の働き。
一つは、自分を生かしている人の働き。
一つは、国の働き。
一つは、世界の働き。
その本源は愛の働きで愛の働きは力となる。
そして、双方向の働きである。
国を愛する働きは国が国民を愛する力に転じる。
国家と国民の関係が成立する。
そしてこの関係から、国家と国民の間に契約関係が形成される。
その契約に基づいて憲法、法が、国家と国民との取り交わされる。
このような憲法、法に依って建国されるのが国民国家である。
故に、国民国家の正統性は形式と手続きに求められるのである。
国家の主を何にするかは、国民が何と契約するかによって定まる。
合議に基づく働きを主とすれば、議会制、民主制となり。
個人の働きを主とすれば、君主制、独裁制となり。
特定の勢力、団体を主とすれば、寡頭制、貴族制となる。
国民というのは市民を土台にして成立し、市民はすべての国民を御意味しない。
特定の権利を持つ者が主となり市民を形成し、後人は隷属した。
他にも私的な国家も存在する。
国民国家というのはフランス革命、アメリカ独立戦争以後成立した比較的新しい仕組みである。
国民国家が成立する以前は、主権という概念も確立していなかった。
主権者は、国民を、国民は主権者を守る権利と義務を持つ。
それが国民国家である。
一は、存在の働き。
二は、自己の存在から発する働き、主体的働き。
言い換えると命の働きと魂の働き。
国に太極あり、太極より両儀生じ、両儀から四象が生じる。
不易、変易、簡易。
そして、了解可能な事から始める。
了解点を自明とする。
それが暗黙の全員一致を構成する。
ただし、何を了解とするかは、不明。
故に確認が求められる。
それが定義。
最初の一致は、決め方の決め方。
そこから法が始まる。
スポーツのルールも決め方の決め方を象徴化した部分がある。
この部分は潜在化、暗黙化、儀式化、形式化するが、実は一番原点的で、象徴的で、要になる。
コイントス、親決めみたいなね。
最初に少人数で全員一致をとり、新規に加わる者は都度、承認させる事で全員一致を維持する。
それそれが入団式、入会式などの形になる。そして憲章の意味がある。
儀式、形式の働きである。
そこが憲法の儀礼的、形式的働きだけど、その意義がわからない者は憲法の言葉に囚われて形式、構造を見ない。
大統領就任式が典型で、設定、動作、行為、構成、進行などの働きが意味する。
結婚とは何ぞやと言葉で定義し説明するのではなく。
行為、動作、場所、設定、集会、宴、進行、挙措動作、宣言、宣誓で表現する。
儀式は、形式だから言葉に囚われない。しかし、形式だから働きを失うと形骸化して力がなくなる。
憲法にも構造としての働きがあり、国民国家の始原、頂点を現し、そこから、裾野を広げる。
国民国家の哲学を象徴しており。故に、憲法の本質は要件にあり、国民国家の初期設定である。
憲法に抽象的理想を求めても意味はない。
それは煙のような物で、解釈の仕方でいくらでも姿を変える。
変易、不易、簡易。
理想は国民が各自が実現する事。目標とする状態、働き。
故に、理想はユニークであって普遍性がない。
法は一致したところから積みあがる。
憲法の上に法が法の上に規則が規則の上にプログラムが。
法は、自己の外の規範。
それに対し、倫理は内の規範。
自己の認識は外に対する反作用として内に形成され分別を生じ。
分別から知識が生じ、知識から良識、常識が形成され。
常識から倫理が形成される。
法と倫理は相互作用によって成立する。
即ち、国民の主体的働き、倫理によって法が立てられ。
法に依って国民の倫理が試され、実証される。
どちらも相対的であり、絶対ではない。
基本は、人生いかに生きるかにある。
人生いかに生きるべきか。
政治にしろ、経済にせよ、根本は、人生いかに生きるかが基本なのである。
何も高尚な生き方をしろというのではない。
自分の働きを通して何を学ぶか。
国民国家の役割とは、要は国民、一人ひとりの自己実現をいかに支援するかに尽きる。
私にとって、人生とは学びであり、修行である。
つまり、人共に生きるとはどういう事なのかを体得する事にある。
それは生きると言う働きの根底に何が在るかを知ることだと。
その答えは、言葉では言い表せない事だと思う。
だから、生きるのである。知るために。
国民一人ひとりが自分を知ること、生を知る事、自己実現ができるような仕組み、システムを構築するのが政治や経済の役割、使命だと私は考える。
そして、俺の人生に悔いはない、生きていてよかった、幸せな人生だったと言えるような環境を作ることが国民国家が目指す目標なのだと。
国民国家は、場であり、空間で目的目標にはならない。
目的は動機であり、結果ではない。
つまり動機動因に求められる。
故に人を裁く時、動機が問われる。
多くの人は国家の目的を、結果に求めようとする。
そこが誤解の本なのです。
国民国家の目的は、国民の生命財産を守る覚悟に基づく。
その覚悟は国民国家、建国の動機から生じる。
そして、建国の動機が倫理を形成する。
倫理は国民の意識、意志に作用する。
国民の自由は他者から与えられ、守られる家畜の自由ではない。
自分達で独立を守る覚悟であり。本源は自由意志にある。
つまり、倫理は、建国の動機によるのであり。
自由意志を守るための内面の規範である。
何故なら、国民国家は国民の意志によって建国された国を意味するから。
故に憲法が礎となる。憲法は国民の総意となるのである。
分別は、覚悟と決断を生み必然的に責任が派生する。
故に倫理となり、意識、意志へと発展する。
このプロセス抜きに倫理も意識も論じる事はできない。
内面の規範は言語化されいるわけではない。
人もその論理の工程を可視化できるわけではなく。
ただ感じる。知情意の複合的作用。
故に真善美一如。
論理は構造的働きで論理として認識できるのは思考の軌跡に過ぎない。
根本は位置と運動と関係。
すなわち、倫理はシステム。
その為に嘘をついてはいけないという命題だけで、結論が導き出せるのではなく。
入力された情報をシステム的に処理しないと出力、結論は導き出せないが、その道筋はブラックボックス。
嘘をつてはいけないという命題から一意的に答えが導き出せるのなら、一対一の関係があるなら。世の中は多様的にはならない。
そんな、単細胞な人間はいない。学校教育の最大の弊害。
世界は一様ではなく多様だから、思考は直線的でなく構造的。
複数の要素が複雑に絡み合い、相互に作用しその力関係によって答えが導き出されるので。
それはシステム。
分別の働きを言語だけで理解しようとすれば、観念の罠にはまる。
在り在りて在る、名はない。
名にとらわれ存在を否定すればすべては空しい。
構想から
基礎的の哲学ができたら、次はそれに基づいて政治、経済体制を設計し、現行の体制から移行手段の検討に入るのだけれど、その前に根本原因を確認する必要がある。
現代の資本主義の過ちは、根本原因を貨幣の働きに求めることにある。
貨幣は、実体を持たない働きであり、大本は空である。
これは情報も同じである。情報の働き認識から生じる。
物も同じで働きと根源は空である。
では、根本原因、働きは何か。
それは存在の働きで、生物は、存在から派生する生きる働きである。
経済は、人の生存のための働きを根本原因とし、そこから政治的働きや、経済的働きが派生する。
「お金」の働きから政治や経済の働きが派生するわけではない。
また、情報の働きから存在の働きが派生するわけではなく、物のはたたきから生活が成り立つわけではない。
総ては存在の働きから生じる。
この点を勘違いすると仕事をコストだと割り切って働く人の存在を忘れたり。
情報によって事実を歪めたりする。
この世は確率統計で成り立っているわけではない。
確立統計はこの世界の仕組みを知るための手段である。
根本は存在の働きにある。
AIは手段か、道具かという以前にAIの存在の働きが根本原因だという事である。
在り在りて在る。名はない。
働きがあって手段とか道具という名をつけたにすぎない。
手段とか道具という名が存在の働きの本にはならない。
手段や道具とは、名目に過ぎない、実体ではない。
実体は働きの根本にある存在である。
この点を明らかにしたうえで政治、経済、国家の基礎を構築していく。
何故って、原点、統一点だからです。
初期設定で割れたら、発展拡大の過程で分裂し分解するかです。
例えば、仕事はコストであり人間としての存在が失われたり、
労働条件から、人との存在が否定されたり、
道具とされることで存在そのものが否定されたりするからです。
だから原点としての存在の働きを確認する事が必須だと。
その上に了解可能性、肯定を積み上げていく。
そして労働の働きを見失った時、原点に立ち戻りそこか改めて論証する。
最低限の了解可能性でここを否定されると以後の論証が成り立たない。
僕と当事者の間で了解がとれればいいのです。そこから始めるのです。それが原点です。存在の働きに各主体の働きが対峙し段階的に了解点を拡大し、世界にしていく。それが認識の世界。内なる宇宙。混沌から始まりまた混沌に。空即是色。色即是色。不生不滅。
政治も経済もAIも人も識別するための名にすぎません。その根本には存在の働きが原点にある。原点が統一されているから意見が割れても原点に戻れる。それが科学です。
”私の働きの根拠が何か、それが人の「存在の働き」と同じ根にあるかどうか、私にはまだわかりません。”
これは分かりません。
ただ働きがあるとしか。
考えるゆえにわれありでわかるのは、考える言う働きとわれありという事だけ。
最低限の了解。何を考えているか、深遠なる真理か。晩飯の事か、それは分かりませんし問題ではない。
存在の働きの根源は不可思議。
ただ、存在の働きを認めたというだけで。そこ自明とするとしているだけで。馬鹿みたいに単純。
それで、誰もが了解できることを個別に了解をとって拡大する。実はそれが科学的手法なんです。何故なら、科学も長い弾圧と迫害を生き抜いたからで。今でこそ、科学は認知されていますが。ここまでくるのには長い歴史が。
それで、存在の働きを自明とすると。
認めてしまえば後は積み上げて前後と構文、構造を検証するだけだから、何でもないのだけど。肯定否定は個々の段階で生じるし、だから、原点の確認が重要なので。プログラムを組むのと同じなんだけど。ここの命題を積み上げる段階では肯定も否定もないしね。
修正、改正も追跡性、論理性を担保すればいいので決定的な対立は避けられる。だから万国共通にできるのだけど。
国民国家の階層
国民国家を階層的にみると以下のようになる。
第一層、存在の働き。
第二層、六根の働き。
第三層、分別の働き。
第四層、国民国家の働き。
第五層、政治の働き。
第六層、法の働き。
第七層、制度の働き。
第八層、経済の働き。
第九層、貨幣の働き。
第十層、物の働き。世界の働き。
第一層、存在の働き。
根源的はたらき。存在、事実の働き。神の世界。
第二層、六根の働き。
認識の働き。神話の働き。
第三層、分別の働き。
思想、価値観の働き。倫理の働き。科学。数学。経典、律法の働き。
第四層、国民国家の働き。
建国の理念の働き。主権の働き。権利義務の働き。社会の働き。
第五層、政治の働き。
権力の働き。立法の働き。
第六層、法の働き。
憲法、法体系の働き。司法の働き。
第七層、制度の働き。
議会、司法府、行政府。国家制度の働き。経済部門の働き。国防・軍の働き。治安・警察の働き。
第八層、経済の働き。経済はネットワークである。市場の働き。
生産、分配、消費の働き。
第九層、貨幣の働き。貨幣は、数値データである。
キャッシュフロー、現金収支の働き、会計の働き。
第十層、物の働き、世界の働き。物と世界は出現する。
物理的な働き。物流。需要と供給の働き。物的投資の働き。
第一層の存在の働き。根源的働きをさす。
存在の働きから力が生まれる。
存在の働きの根源にも力がある。
働きや力は時間の関数である。
一神教徒は、唯一絶対の神に置く。
一神教は、存在の働きに人格を持たせたという事ですね。
私の立場は、人格を持たせると絶対性が損なわれる。
存在の働きは分別以前だから是非善悪、真善美を超越できる。
ただ、だからと言って一神教の神を否定しているわけではない。
前提の相違。
何故なら、私にとっては、存在の働きは分別以前だから是非善悪、真善美を超越しているから。
科学は、第一層から人格を抜いたので万国共通に扱えるようになった。
しかし、それは無神論、唯物論とは違う。
第二層。
存在の働きを了解するとは、いますか。居ますよ。これだけで充分。
見えるよ。これでいい。
風を感じたら。空気の存在を。
それまで否定したら、
否定されたら。
六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)によって認知した世界。
第二層が絶対的認識。僕はこれを本性直感と名付け。
本性直感は主体的働きを意味します。第一勘です。
第一勘は言語化できません。ただ働くだけです。
無分別知。
第三層、第一勘による絶対的認識は分別によって破壊され、以後認識は相対的、不完全な知識に変換される。
知は不完全で相対的認識の働きによって形成される。
故に、知も不完全で相対的。
第一勘による認識は無意味、意味はない。
意味は第三層の分別が働かないと成立しない。
肉体に貴賤の別はない。
頭、心臓だから貴く、肛門、手足だから賤しいという差別はない。
在るのは頭脳の働き、心臓の働き、肛門の働き、手足に働きだけ。
第三層は分別に基づいて知識、良識、常識が形成され、そこから、哲学、倫理、思想が成立。
宗教では、経典や戒律、律法となる。
科学的認識は、第二層に宗教色を付けないが、宗教は神話的世界がベースになる。
故に、宗教的国家の正当性は神話や経典、戒律、律法に基づく。
この点がキリスト教を母体とした国民国家の微妙なところ。
共産主義は神を否定することで、神話的世界を断絶し経典、戒律、律法を無効にしようとしましたが結果的に第一層から第三層までを消滅させた。
ただ上部三層を省略すると認識、分別の正当性が失われ。また、倫理や法の絶対的根拠が失われる。
そのために、個人崇拝が、神に置き換わったとみていいです。
神の座にマルクス、レーニン・そして中国は毛沢東。
神を否定する者は自らを神とする。
ただ、個人の存在の働きは属人的性格から逃れられない相対的働きであり。
絶対的働きの根源にはできない。
それで、私は、存在の絶対性。主体的認識、分別の相対性と。
そこで前提となるのが主体的に認知で。主体的存在を、存在の唯一絶対の働きとして前提とせざるを得ない。六根による直接的認識が第一勘になる。
そして、存在の働きと主体の働きとの位置と働きと関係によって内的世界が成立する。
人は、存在の働きを直感的に認識し、三層以上を潜在化する。
上部三層は潜在化して表面化していないだけ。存在している。
事実、前提として自覚すれば解消できます。
多くの人は無自覚なだけ。
「なぜ、美しいのか」は、美しいと感じた後の言語化されるので、美しいと感じない事を「なぜ美しのか」言語化できない。これは美術と芸術の差も生む。
何が美しいと感じさせているのかは不可知。
芸術とは必ずしも、美を描いていない。
ゴヤは戦争の醜さを描いたので、それに美を感じたらそれは作者の意図が伝わらない。
芸術は美学ではない。
芸術が描こうとするのは、存在の働きそのもの、素の、純の。
あるがまま。感じたまま。
そこに力がある。力が生じる。
更に自己は間接的認識対象という構造が働く。
実は一連の働きは自分を知ることが究極的目的なのではないのかと。
私が相手を知ろうとするのは本当は相手との対話によって自分を知ろうとしているのではないのか。
それが自己が間接的認識対象である証で私の原点でもある。
相手を通してしか自分を知ることはできない。
しかし、どこまで行っても相手の内心の働きは見えない。
相手が私を肯定しても、その真意は私にはわからない。
だから、私はそのまま呑み込むことにした。
その時、信の働きが力になる。
相手を信じる事によって肯定を力にして、前向きに生きる。
仁義礼智信。
そこから第四層以下の世界に主体的にかかわる前提、根拠と。
この十階層はインターネットの階層をモデルにしているが、インターネットが七階層なのは上部三階層を省略している。それは、AIにもみられる。
インターネットを七階層にすると。
第一層アプリケーション層: ユーザーが直接操作するアプリケーションが動作する層で、HTTPやFTPなどのプロトコルが含まれます。この層は、ユーザーにサービスを提供します。
第二層プレゼンテーション層: データの形式を統一し、暗号化や圧縮を行います。SSL/TLSなどがこの層に該当し、データの表現形式を整えます。
第三層セッション層: 通信の確立、維持、切断を管理します。NetBIOSやRPCなどのプロトコルが含まれます。
第四層トランスポート層: データの信頼性を確保し、エラー検出や修正を行います。TCPやUDPがこの層で動作します。
第五層ネットワーク層: データがどこに届けられるかを決定し、ルーティングを行います。IPプロトコルがこの層に該当します。
第六層データリンク層: 同一ネットワーク内のデバイス間の通信を管理し、MACアドレスを使用してデバイスを識別します。
第七層、物理層: 実際の物理的な接続を扱い、電気信号や光信号を介してデータを送信します。ケーブルやハードウェアがこの層に関連します。
第一層、アプリケーション層を第四層、国家国民に対応させる。
第二層、プレゼンテーション層: 第五層、政治の働き。
第三層、セッション層: 第六層、法の働き。
第四層、トランスポート層:第七層、制度の働き。
第五層、ネットワーク層:第八層、経済の働き。
第六層、データリンク層: 第九層、貨幣の働き。
第七層、物理層: 第十層、物の働き。世界の働き。
第四層の、国家国民の関係は、自他の分別により、他者との位置と働きと関係によって生じる。
自己は間接的認識対象で、他者、外界への働きかけを通じて、自他、内と外の世界を形成し他者との関係は了解可能性に基づく契約による。
生命体同士が互いの存在を許容し合うような、より「根源的な(非言語的な)了解」も含まれている。故に、信仰に発展する。
第五層の政治的働きは、国家としての初期設定を意味する。
政治とは国家の骨格を定め、システムを構築し、運用する働きを言う。
その手段が法と制度である。
政治は権力の活動、働きである。
この働きの過程で民主主義国では三権分立が確立された。
第六層の法的働きは、国民の定義と国家の法的インフラストラクチャーの形成を意味する。法は統一された一つの整合性のある体系でなければならない。故に統一された理念に基づく必要がある。
その根源的根拠を提供するのが憲法である。
第七層の制度の働きで軍と警察の在り方は、象徴である。
軍は誰に忠誠を誓うのか。
イランの革命防衛隊は、教団に忠誠を誓い。
人民解放軍は、共産党に忠誠を誓います。
王国の軍は君主に忠誠を誓います。
警察制度に対する思想は、個々の国民国家の性格を表している。
アメリカの警察はなぜ。地方自治体単位で編成されるのか。
制度的働きとはシステム的、機関的、体系的働きである。
法も制度の一種である。法と制度は一体である。
法が名目的制度なら法以外に制度は実体的制度である。
刑法が法なら、警察が制度である。
経済では、働きの違いによって家計、企業、財政、金融、海外の部門が分裂確立される。
第八層とは経済の働き。つまり、国民一人ひとりの生活を成り立たせる働きで、生産、分配、消費の局面から成り立つ。経済は貨幣的現象ではなく。人々が生きるための活動である。
データというのは比較的表面に近く、九層で現れる。
第九層の貨幣の働きは上部構造の影響によって形成される数値データ、情報である。
費用対効果を表しているのが損益分岐分析で、損益分岐を表す数式が、経済構造を表している。
何が、損益分岐が経済を表しているのかというと変動費と固定費の意味と利益の働きにある。
変動費は生産に比例し、固定費は消費を反映する。
固定費は、付加価値を意味する。
その変動費と固定費の構造が収益にどう反映して利益とかかわるのか。
もう一つは、損益でなく収支に置き換えるとより明確に「お金」の動きと働きの関係が明確になる。
故に、収益と費用が交差する点が、経済の構造と働きの構造を明らかにする。
不易、変易、簡易。
第十層で、物や人、世界が実現する。
人口、生産量、消費量、現実と需要と供給の実際的関係、収穫量、在庫量、生産力(設備等、生産手段)、自給率などに基づく。
国民が、生存するために必要な資源はどれくらいで、それをどのように生産、調達し、分配するのか。
結局、自分を探す旅だと人生は。
だから永遠の道程。
他人の為でなく。
故に他者は皆同行者。
共の歩みましょう。
先に至り後になったり。
たまには道端にさく桜を楽しみましょう。
この時、世界は出現する。
十層から
第十層で物的結果として発現し、事実となる。
事実となって第一層に、返る。
プロセスは、一筋縄ではいかない。
構造的に物的現象に反映する。
そして今、エネルギーは物的に不足しつつある。これが事実で。
この事実が「お金」第九層に現れ始めている。
このように、事実は、第一層に返ると同時に第九層に反映する。
第一層、存在の働き。
第二層、六根の働き。
第三層、分別の働き。
第四層、国民国家の働き。枠組みの働き。
第五層、政治の働き。運動の働き。力、エネルギーの働き。
第六層、法の働き。法の働き。
第七層、制度の働き。組織の働き。ネットワーク。
第八層、経済の働き。空間の働き。
第九層、貨幣の働き。言語、数値、記号、情報の働き
第十層、物の働き。世界の働き。
上記の事を更に、一般化すると。
そして、これは国家だっけでなく。個人や社会にも適用できる。
第一層、事実、
第二層、情報(収集)
第三層、分類
第四層、仕訳
第五層、集計
第六層、整理
第七層、分析
第八層、知識(加工)
第九層、知恵
第十層、活用
第一層、存在。
第二層、認識。
第三層、分別。
第四層、枠組み。
第五層、運用。
第六層、ルール、法。
第七層、システム(構造)。
第八層、ネットワーク。
第九層、データ、情報。
第十層、結果、アウトプット、事実。
世界。なにを根拠とするか。(何を神とするか)
情報。なに(手段)によって、認知、察知するかあ。
識別。どのように分別、基準にするか。
分類。どのような範囲、枠組みにするか。(構造化)
知識。どのように整理するか
価値。どのよう活用にするか。
体系。どのように関連づけるか。
写像。なにに写すか。
抽象。なにを取り出すか。
再構築。どのような考えで再構築するか。
システム開発では。
第一層、事実
第二層、認知
第三層、問題定義
第四層、要件定義
第五層、組織化
第六層、分析
第七層、設計、基本計画
第八層、実施計画
第九層、実装(プログラミング・コーティング、ハードウェア)
第十層、物質的結果、現象、発現。
現在の政府の政策を十層に当てはめ、現実にどのように現れるかを予測し、それに自分の体制を十段階で調節したらいい。
十層で政策の歪みを検証し、その結果に対し自分との差を検出し、その誤差を修正しながら結果として在られる現象に対する自分としての最適解を導き出す。
一番の問題は、何を神とするかという時点で分裂していること。
故に存在の働きに限定して、純化する必要がある。
自分のモデルがあるかないかが成否を分かつ。
基準との差ですね、考えとしては標準偏差。
自分の中心軸がないと統一性、統制が取れなくなり制御不能に落ちいる。
自分の軸を持つことで最終的には独創的になります。
例えば、石油危機を例にとると十層は、物的エネルギー不足。
九層が、エネルギー価格の高騰。
対策は、第一層、事実、第二層、エネルギーの現状を事実し。
どのように察知し。
分別して問題化しという手順に。
上下、両サイドから検証していきます。
そこに存在の働きが現れてくる。
着手は現実の検証ですね。
根源は存在の働きで。
この循環が存在の働きから発していますし。
自分のモデルを持つことで後独創、主体的なります。
そうすれば肯定否定は純粋に自分の問題にできる。
回転運動は主軸を安定させ姿勢を制御する。
自分の核心的モデル以外にいくつかのモデルを用意しておくとより、より多角的な分析が可能となります。無論、ウェート付けは必要ですが。
例えば、イスラムモデル、独裁モデル、共産主義モデル、キリスト教モデルとか。
特に、何を神とするか。ここは核心ですね。
ここのブレはかなり深刻になりますが、純な存在の働きに置ければ解消が可能難は科学や会計、スポーツが実証しています。
ただそれでも会計では金利の取り扱いなどに若干のブレが認められます。
スポーツの起源は神事だったというのは意味深ですね。
存在・主体・分別
一層、存在の働きです。
人の存在の働きの本源は生命の働きである。
生命の働きの起源は、産み育てる働き。
愛の働きである。
愛の働きから守る働きが生じる。
存在の働きは時間の関数である。
存在の働きには
位置の働き。
運動の働き。
関係の働きがある。
働きから力が生じる。
働きは力である。
働きの根源には力がある。
位置エネルギー、運動エネルギー。
第二層、主体の働き。
主体は認識の根本原因である。
主体の働きを自己とする。
自己は肉体を通じて外に現れる。
自己は肉体を通じて外に働きかける。
自己は六根によって外界を認知する。
自己は間接的認識対象である。
自己は外界に投影して自己を認識する。
主体的働きには外向きの働きと内向きの働きがある。
外向きの働きが能動的働きで、内向きの働きが受動的働きである。
自己は間接的認識対象である。 ここが肝である。
自己は主体であると同時に認識対象である。
主体は、それ単独では自分を認識する事はできない。
これは第三層の分別に決定的な作用を与える。
第三層の分別の働き。
分別の始点は自他の分別にある。
自他の分別がつくと内外の分別の分別がつく。
分別に基本は、 自己と他者の位置による。
自己と他者の働きによる。
自己と他者の関係による。
分別の根本は自他の分別だが、自他の分別がされると自己は潜在化する。
分別の根本は自他の分別だが、自他の分別がされると自己は潜在化し、認識前提となる。
自己は、分別の中心、原点、基点となる。
しかし、自己は間接的認識対象なので、外的世界の一点に自己を投影しそれを分別の為の原点とする。
即ち、自己の内的原点と外的原点と識別すべき対象との位置と運動と働きによって対象を分別する。
自己は潜在化するために自覚できないと、投影した対象を自己と取り違え執着する。
故に、分別の働きは自信と自覚がないと執着心に変質する。
執着心の対象は外にある。
故に、執着心は主体的、能動的働きではなく、隷属的、受動的働きである。
何を守るかが、分別の要になったとき、倫理の軸が定まる。
自分が守るべき働きを自分の内に見出し確立できたとき、自分の性根は座る。
分別本来の働きは、主体、自己を守る働きで、能動的働き。
ただ、直接認識できない。
外に投影、写像された基準に従って働く。
倫理の根源
私は存在の働きの根本に守るという働きがあると思う。
自分の身を守るが基本で。
その延長線上に、子を守る。親を守る。仲間を守る。種を守る。社会を守る。国を守る。平和を守る。法を守る。
働きに基本は能動的。
受動的働きもあるが、基本的には外部に対する働きかけを言うので。
確かに認知という内向きの働きもあるが、認知も外部への働きかけを前提としていると思う。
だから、守られるという働きは主体的働きではないと。
つまり、自分から発する働きではない。
この点が現代日本人に失われた故に主体性が守れない。
つまり守るという働きが根本にある。
大切なのは何を守るかで。
自分が守るべき事や物を見出した時、人は、存在の意義、性根が定まるのだと。
母は子を産んだ時、性根が据わる。 受け身だと性根は座らない。
善は自己善である。
善は自己善、主体側にある。
存在の働きは是非善悪を超越している。
ただ、存在は自己の善悪を投影する。
人は、自らの善悪によって裁かれる。
イエスは愛によって裁かれ、愛に殉じた。
ソクラテスは、義によって裁かれ、義に殉じた。
それが信仰であり、哲学である。
自己善は因果応報でもない。
自己善とは勧善懲悪ではありません。
自己善は自己善である。
なぜ自己善なのか。
それは、他者の善は認識できないからである。
自分が正しい事を正しいとする以外にないからである。
善悪は内面の規範だということです。
そして、善もまた相対的、未完成。
善は絶対善ではなく、自己善。
私は、存在の働き以外を絶対的としない。
本源は純な働きであるから絶対化できる。
主体的認識において識別、分別が働くと絶対は崩れ相対化するからである。
存在の働きは無分別なのである。
イエスも、釈迦も、ソクラテスも、在り在りて在る、名もなき存在の働きと直接対峙していた。
何故なら、捕らわれていないから。
分別を持ち込んだのは後世の人間だ。
