ハッキリ言って決められない奴が増えている。
要は、決断力がないのである。
決められない理由なんかない。
あるとしたら、臆病、小心、度胸のなさである。
悪い事に、決められない奴は、きめられない事を隠そうとする。
だから、皆が困る。

親父たちによく言われた。
決められないと言う事はない。
決められないという言い訳はできない。
不確かだから、決める。
確かな事なら決める必要はない。
だから、不確かとか、わからないと言う事は言い訳にならない。
今できないから決めるので。
全てが、わかっていて、できるのなら、決断する必要はない。
わからない、できない事があるから、決断する。

決断は、一つに決める事。
決められる事は、一つ。
言い変えると、一つにできないから、決められない。
決められないのは、迷い。未練。
この人しかいないと思うから、決断する。
だから、決断は瞬時でする。

一つひとつ片付けていかないと。

本当に、何も決められない人間が増えた。
増えたと言うより。
増やされたと言うのが正解かもしれない。
戦争に敗けたのと、占領政策、教育の成果と言ってもいいかもしれない。
要は、日本人は、政策的に決断力を奪われたのである。

決めると言うのは、自分の意志。
誇りをもって決める。
決められないと言うのは、自分のなさ。
誇りがない。

人生は、成るのではない。
するのである。
自分の意志のないところに、自分が責任を持てる人生なんてない。
自分が責任を持てない人生なんて生きるに値しない。
力のあるないではない。
力がなくとも決める事はできる。
決断は、自分に与えられた最後の権利である。

決める事が出来なくなった時、人生は終わる。
自分で決める事が出来ないから、人は狂うのである。

だから、決められない奴は、いつも、成り行き任せ。
いい訳ばかり考えて生きるしかない。
誰に向かって言い訳してるの。
自分にさ。自分にいい訳するしかないからさ。
自分以外の人間は、決めな言い訳は聞かない。
ただ、小心者と蔑むだけ。
ただ、組織で決められない者がいると組織は、崩壊する。

決められない人間は、善良さを装う。
自分意目が向けられないようにするために。
自分だって。
決められないのは自分の性ではないと、自分に言い聞かせて逃げる。

自分で決められない人間は、他人に、相手に決めさせようとする。
それで、駄目なら、癇癪を起こす。
要は、耐えられなくなって逃げ出そうとしているだけ。

言い逃れしようとする。
卑怯である。

あの人はいい人だけど、何も、決められないよのね。
これは、憐憫にはならに、累がその人にも及ぶから。
蔑みにしかならない。

昔は、男は決断しないと子はなぜない。
だから、子を作るのには、男は覚悟がいる。
子供ができたら、責任を取らなければ、男らしくない。
覚悟もなく、子を作るのは、自分が欲情に負けた。
自分に自制心がない証だと謗られた。

要するに、決断力のない者は、無責任である。
無責任になる。
自分で決められないのだから、責任なんて持ちようがない。

何も決めなければ、責任なんてないと思っているのだから。
決めなければ責任を免れると言う事ではない。
決断しようとしまいと結果は出る。
決断しなければ結果によって責任はとらされる。

だから、そういう人間が、育児に責任なんて持てるはずがない。
勝手に生まれたのだから。
それで、癇癪を起こして虐待をする。
覚悟もなく子を作った人間にとって、子は、自分の不行跡の証で、それで責任を取らされたたまったものではない。

「男らしくない。」と言うのは、使っては駄目だと言うが。
男らしいとは、決めた事に責任を持てと言う事で。
決断しなければ、男は子をなせないと言う事である。
だから、男は、自分で決めて、結果には、責任を持てと。

言ったとか、話したなんて、言い訳は、責任者は言えない。
自主性とか、自発性も。
決めて、指示したとしか。
会議だって、常に全一致が成立するわけではない。
多数決だって、誰かが、最初に、多数決にすると決めるから、成り立つので。

決めると言うのは潔さでもある。
一度決めたら、ウジウジと迷わない。

決めなければならない事は、一つではない。
一つ決めれば、新たに決める事が生まれる。
一つひとつ順番に決めていく。
一回決めれば済む事ではない。
決めなければならない事は、無尽蔵に湧いて出る。
一瞬たりとも決められなくなったら時は失う。
決める事には、決め時がある。
決め時を逸したら決められなくなる。

歴史的決断なんて聞くと、たった一回の決断を、指しているように思えるけれど。
決定的な決断に至るまでに、無数の細かい決断がある事を、見落としてはいけない。
一つひとつの細かい決断の積み重ねの上に成り立っている。
キューバ危機におけるケネディー大統領の決断も、無数の無数の小さな決断、中には、名もまき人の決断もあって、はじめて、成り立っている事を忘れてはならない。
決められないでは済まされないのである。

決められない奴にかぎって、批判的で、言い訳をする。
人を誑かしたり、誤魔化したり。
決められなければ、始まらない。
はじまらなければ出来ない。
なぜできないのかの原因を考えたら、決めるべき人間の誰かが、決められずにいる事が多い。
しかし、多くの場合、決められない者は、決められない事を隠す。
そのために他の者はわけがわからず、互いに責める。
それが、組織全体の崩壊に結び付く。

考えたら、決められない。
だから、決定権者は、考えるのは腹心に任せ、決める事に徹する。
それを、今の教育は、考えてから決めなさいと躾ける。
だから決められなくなる。
決定権者は決めて、覚悟をする。
決めると言う事は、覚悟を決める事でもある。
決める事と考える事は同時にはできない。
決定権者が考える事は迷う事である。

決断は、感情でする。
直観でする。
決断は、飛躍である。気の爆発である。
決断しなければならない時は、考える時間など与えてはくれない。
だから平常心。
感情を制御する事が求められる。
克己心である。

決めない人間は、決めなければ間違いを犯さないと思っている。
それが最大に間違い。
決めなければ、最後につけを払わされることになる。
不決断は、最大の誤判断。
何も決めなければ、許されると言うわけではない。

それでいいんだなと聞かれ。
ハイと答えたら。
自分で決めろと言われた。
決断は他人任せにするなと。
それが江戸っ子だとも。

グズグズ言うと決めろと怒鳴られた。

日本人は、自分達では何も決められないのかと。
そう他国の人間に思い込まれたら。
その時こそ、本当に、国家の主権が問われ、独立が失われる。
覚醒しなければ。目覚めなければ。
いつまでも、寝ぼけた事は言ってられない。