私は、今の改憲論に。
いずれにしても、虚しいのですね。
いつも思うのですがね。
改憲とか、改憲反対というだけで。
憲法について論じていないと言うか。

日本人っていつもそうじゃないですか。
上っ面の事に囚われて。
大本を忘れている。
実際、GHQが作ったかどうかとか、アメリカの真意とかですね。

正直、僕にはどうでもよくて。
それよりもこの国の成り立ちとか。
神話や伝説。
心の底から、腹の底から湧き上がってくるような日本人の魂、志が大切なので。
そこからくる建国の理念。それこそが、憲法の本源。
天皇制がどうとかではなくて。
日本の原風景ですかね。

その意味では、下手な憲法論議より。
手塚治虫の「火の鳥」の方が。

憲法九条が問題なのではないんですね。
憲法は言葉でできていて。
だから、憲法を構成する一言ひとことですね。
憲法論議は、そう言う事だと。
この国は、自分たちが守るに値するかはですね。
憲法なんですね。憲法で決まる。
だけど、憲法九条がどうたらこうたらという議論に囚われたら、この国の本当の姿。

言霊なんて気にしてる割に。
一言ひとことに頓着しないで。

私には、古事記、日本書紀、平価物語、万葉の「防人の歌」ですかね。
憲法は、国造りの礎(いしづえ)。

やっぱり憲法はこの国の原点に帰らないと。
でも、今の憲法論議は終戦時からの事に拘泥していて。
何か、日本人のルーツをですね。
なぜ、何から、国民を守るのか。
そこがすっぽり抜け落ちている気がするのです。

私は、今の日本人は、根本的な問題をですね。
避けている気がしてですね。
改憲というと右翼で、進歩主義的な人は護憲と短絡的に分けてですよ。
少しでも、愛国心などというと、バリバリの民族主義者みたいに。
それより真剣に、この国をどうしたいのか。

戦後この国に生まれたら、何も考えなくたって、自由主義者で、民主主義者。
国民国家の成り立ちなんかも考えず。
右か左か。
正統か、異端かにすぎず。
何の根拠もなく。

アメリカが正しという事を正しいとし。
それ以外は、異端。

ただ憲法に書かれている事を、鵜吞みのして、疑いもせず。
自由とか、平等とか、意味も解らず。
考えようともせず。
他国の言うなりに自由と言い、平等とする。
その癖、他の国の人間は、自由や人権がわかっていないと謗(そし)る。
自由、平等、人道主義といえば何でも許されると思っている。

逆に、国を愛する事の意義を問う事なく。
愛国心というと短絡的に軍国主義と喚き散らす。

少しは自分の頭を使おうよ。

俺は、俺だってね言いたいんですよ。
別に国を愛してると言ったからと言って民族主義者ではないし。
レッテルを張って、勝手に決めつけないでほしい。
言論の自由なんて天然自然の法則でもない。
自由主義者は、ガンジーのような、非暴力、無抵抗主義でもなく。
同様にキリスト教だって無条件な平和主義でもない。

自分たちが言論を弾圧している癖に、言論の自由を守ろうなんてよく言えたものだ。
自由に言葉がつかえなければ、言論の自由なんて絵空事ですよ。
だってそれって検閲と変わらない。
否、もっと質が悪い事じゃないですか。

男言葉、女言葉のあった時代の文化が消滅してしまう。
差別を正す事と文化を否定する事は、同じではない。
大体、言葉の意味は、絶対的の事ではなく、相対的で、時代や環境によって変わる。
正しく時代背景を理解する事の方が優先されるべき事。

憲法は、やはり、国民の声。
それも、国家の始源から発する魂であって。

だから、国民は、命を張って守るのだし。
自分達の国を命がけで作り上げていくのに。

何が、憲法に欠けているかですって。

それは、国民としての当事者意識ですね。
日本人の根源に問いかけるわけでもなく。
自由や人権が守られていると言っても、ただ、日本人として生まれたからに過ぎないので。
現実に銃口の前で命がけで言論の自由を守ろうとしている人もいるというのに。
何でも言いたいことが言えるのがあたりまえだと。
自由を自分たちで守ろうともせずに。
自由の尊さ、何たるかを知ろうともせずに。

それでは日本人の為の、日本人による憲法なんて夢のまた夢。

今の日本の憲法に欠けているのは、建国の理念。
今の日本人には、建国の情熱も熱意も感じられない。

改憲か、否かを問う前に。
日本人とはと、問うべきなのです。
そう問うこと自体を恐れずに。
右であろうと、左であろうと。

人としてどう生きるべきか。
どうあるべきかを問うべきなのです。
それが、憲法の源。

現憲法は、日本人が聖書聖典とあがめるような書でしょうか。
日本人は、現憲法は、いいけどね。でも、第九条がねと。
でも、第九条に、囚われれば、囚われる程、憲法の本質が、見えなくなる。

改められるかどうかは、別にしても、考えるだけでもいいのです。
結果、一部が改憲できたとしても。
それは、それでいいのです。
でも、何も考えもせず、ただ、、一部の、言葉や、言い回しだけを変えて、辻褄を合わせるような事をしていても、日本人の魂には響かない。
戦後の姑息さから、脱却はできない。

先の大戦でこの国のために逝った多くの将兵、民衆が何を守ろうとしたのか、何を伝えようとしたのか。
また、何を我々に託していこうとしたのか。
そして、改めて、自由とは何か。平等とは何か。国民国家とはなにか。
天皇制とは何かを、国民に問うべきなのです。
怖れずに。

戦後の日本人は、日本に生まれただけで根っからの自由主義者で。
現憲法を、自然法則、真理の様に受け止め。
挙句、自由とは何か。平等とは何か。独立とは、主権とは何かを、考えようともせずに、民主主義国でなければ遅れていると、周辺国を侮っている。
自分達は、最初から、自由や平等を望んでいたのだと。
本当の事を言いましょうよ。
負けたからと言って卑屈になる必要はない。
それでは、周辺国の敬意は得られない。
先の大戦で逝った一兵卒の声は届かないのです。

敗者には、義はない。
ただ勝者の憐憫すがるだけ。
それが現実だとしても、矜持までも、誇りまでも失ったら、人としての道を踏み外してしまう。
我々には、護らなければならない意地がある、
日本人としての尊厳まで失ったら、ただ、勝者に隷属するしかない。

憲法は、国民の総意に基づく、契約、誓約、国民の合意を本としている。
どんなに美辞麗句を並べても借り物の思想では、建国の理念にはなりえない。
日本人は、言霊に縛られると言われるのに。
自分の言葉で自分の国の憲法が語れない限り。
この国の独立なんて守れはしない。
日本人の魂が憲法に籠らないのである。