忠とか、孝とか、義とかを古臭い、時代遅れのごとく思い込ませようとする勢力がある。
しかし、正否善悪真偽に新旧老若男女の別はないのである。

日本人にとっては忠は美学である。

人は、自分の限界に挑み、超えていかない限り、成長しない。
自分と向かい合わないと。
自分と対峙しないと自分を超えられない。
自分の嫌な所、できない事、醜さと対決しなければ。
自分の弱さ、醜さ、脆さを受け止められないから苦しいんだよね。

人は、一人では、自分の限界を超えられない。
なぜなら、自分の限界を超える事は、並大抵な努力ではできないからである。
おのれと死に物狂いで戦わなければならない。

自分の限界に挑むためには、動機、口実が必要である。
だから、人は、自分の限界を超えていく為には、自分以外の何物かを必要としている。
その根本は、愛か、信か、忠か、孝である。

志や夢がなければというけれど、夢や志は諦めればお終い。
もういいと思えば、終わってしまう。

でもその点、忠や孝、愛情、信仰は、自分の存在に関わる事だから、
自分が心変わりしない限り維持される。
中でも、日本人は忠が好きだ。
それが日本人の強さの源でもある。

日本人が、強く結束されたら困る勢力がある。
その勢力は、忠とか、孝とかいう心情を徹底的に否定した。
日本で否定する替りに自国では奨励した。

忠義、信義が悪いとされるから苦しいんだ。
辛いし、苦しい。
だから悩み、苦しみ、悶える。
所詮、金よ、地位よ、欲よと言われても。
美しくない。
日本男児は美学に生きる。

正しいとされてきたことをいきなり力づくで悪いとされた。
かといって、おいそれと、それまでと違う価値観は受け入れられない。

何が正しくて、何が間違っているか。
勧善懲悪みたいにシンプルな方が生きやすいんだよ。
単純に徹する事ができるから。
ああだこうだと理屈をこねられるとわからなくなる。
迷う。挙句、何も決められなくなる。
いいか悪いかはっきりさせてくれれば、命だってかけられる。
決断は、ただ一途にしたい。
やると決めたら、どこまでもやるさ。

日本人は、名君より、忠臣になりたがっている。
君主より、忠臣の方が自分に徹する事ができる。忠実でいられる。
教祖より、信者の方が信仰をまっとうできる。
愛されるより、愛する事が、能動的。
自分の為に何かをするより、惚れた人、信じた事のために、尽くしたほうが、自分を実現できる。
自分の為にと言われるとどうも居心地が悪い。
それより、愛する人に為にとか。
国の為とか。
信じる事のためとか。
夢の為とか。
親のため、子の為、兄弟の為とか
神のため。
友や、仲間の為とか。

ただ、自分の為とか、金のため、地位の為、名誉のためと言われると居心地が悪い。

勘違いしてはならないのは、忠義や信仰によって自分を失うのではなく。
忠義や信仰こそ、自己実現の最高の手段なのである。

間違ってはいけない。
忠義も、信仰も、強要できない。
忠は隷属ではない。
誇り高き服従である。
忠は、無条件な絶対的服従を意味するのではない。
忠の心根は、自分だから、自分の志だから。
忠たらんとして忠なのだ。
忠の究極的の美学は、諌死であるくらいだ。
君主を命に代えてまで諫めるそれも忠である。
無条件で従うわけではなく。
志を持て従うのである。
不義、不正を糺すのも忠。
それが士道である。

それは、民主主義であろうと、自由主義であろうと変わらない。
忠が向けられる対象が違うだけ。

己の為に己を超えるのではない。
永遠不滅の大義の為に、己を滅するのである。

その大義を象徴するものに対して忠なのである。
故に、忠の対象は、人とは限らない。
国家、国民、郷土、思想、神、天、永遠不滅なるものである。
忠に憧れる心根が日本人にはある。

日本人の忠誠心を脅威と感じた勢力がある。
だからこそ、日本人の忠誠を削ぐように働きかけた。
そして長い時間をかけて、日本人の忠義や、愛国心をそぎ落としてきてのである。

それでも日本人は忠や信が好きだ。
それは日本人の情誼でもある。