宗教は、精神を蝕む麻薬のように言われているが、本来は、魂の救済が目的なのである。

なぜ、宗教は、その本来の姿を失ってしまったのであろうか。それは、神に対する人間の思いこみが招いたことである。

神を見いだすのは、人である。人を神が見いだすのではない。

人は、まず自らの神を見いださなければならない。自己の内なる神を見いださなければならない。そこから、個人主義も自由主義も始まる。それ以前は、利己主義であり、快楽主義・刹那主義である。

神を否定すれば、個人主義も自由主義も民主主義も成り立たない。それは、自己を確立することができないからだ。自分が学ぶ事ができないからだ。

教育の本質は教えである。宗教の本質も教えである。人間、いかに生きるべきかを取得させるのが教えである。それは、知識重視の教育の在り方とは、違う。教えは、自らが学ぶ姿勢がなければ、効果がない。なぜ、人は、学ぶことができないのか。この世の闇の奥深くに、自分の思いが、隠されている。

この世の闇を、吹き払うのは、神の力だ。それは、心の闇に、神が、光を灯すからだ。

根本的な問題は生きることである。そして、生かされていることである。本質的問題は、存在である。存在していることである。そして、それらは、モラルに集約される。人は、どうして生きているのか。なぜ、存在しているのか。そして、どのように生きるべきか。どうあるべきか。そこに、現代の闇を解く、鍵が、隠されている。

宗教とは、人の思いが創り出すもの、実体を求めても意味がない。神の実体は、その人の祈りなのだ。祈りに姿形などない。

神に見返りを求めること自体間違っている。我々は、生かされているのだ。生きていること自体に感謝すれば満ち足りるのだ。

祈り。祈るしかないのだ。自分達の思いを。

法に、違反していないから、正しいのではない。内なる神に、誓って正しいと言えるかだ。内なる神の声は、良心だ。

自分の思いが相手に伝わるとは、限らない。自分の願いが、実現するとも限らない。

だから、祈るしかないのだ。そして、その祈りの根本に希望の光がある。

その祈りが、自由と民主主義を生み出す。

人間が、この深い現代社会の闇を振り払うためには、人間の心、神の愛を取り戻す以外にない。神への祈りは、英知への祈り。良識への願い。未来への希望。人類への信頼。

だから、現代社会の深い闇を取り払うためには、神の復活以外にないのだ。

ああ、神よ、よみがえれ。