威風堂々

我々は、子供の頃から、反権力、反権威、反体制という環境の中で育った。
60年代は反安保。
70年代反戦、反米。
そして、80年代は、学園紛争と…。
だから、権力は、悪いものだという考え方が、骨の髄まで染み透っている。
頭から権力は悪いと決めつけてしまう傾向がある。
これも一種の洗脳だと思っていい。
その為に、我々の先輩たちは、権力者の側に立っても反権力を押し通そうとする。
それが、この国を危うくしているのである。

権力が悪いわけではない。
権力者が、権力者であることを自覚せずに、権力者として自制し、あるべき姿を追い求めようとしないのが、悪いのである。

無自覚、非公式な権力者は、僭主、即ち、独裁者となる。
無権力状態は、言い換えれば、無法、無政府、無秩序な状態である。
つまりは、国家が国家として成立しておらず、私的暴力に支配された状態を言う。
要するにやくざな世界である。

だから、我々が育ったころは、やたらと、アウトロー、やくざ、ピカレスク、叛逆、反乱、
抵抗が流行った。その延長線上に学園闘争もあった。

反抗する事が悪いとは言わない。
反抗も成長の一過程だとすれば、許容もできる。
しかし、反抗そのものを目的とされれば話は別だ。
確かに、圧政と戦う必要はある。
権力者の横暴は、命をかけても正さなければならない。
その覚悟も必要だ。
しかし、権力そのものを否定するのは間違いである。

確かに、皇帝や国王、君主、領主は権力者だ。
しかし、大統領だって、首相だって権力者。
組合の委員長も権力者だし
反体制のリーダーも権力者。
共産主義は、一党独裁、全体主義だから、当たり前に絶対権力者。
反米、反体制で、共産主義者と無政府主義者と共闘したからややこしいが、共産主義者は、本質的に権力主義者。
やくざの親分も権力者だし、
ギャング、山賊、夜盗、海賊の親分も権力者。
宗教団体の頭首,総裁も権力者。
社会、組織があるところに権力は生れるし、強制のない社会は、存続できない。
人が三人集まれば、権力は生じる。
夫婦、家族の間にも権力関係はある。
誰が権力者なのかの決まりはない。
夫が権力を握っている事もあれば、妻が握っている事もあるし、
子供が権力者になっている場合もある。
問題なのは、無自覚に権力をふるう事で、それは、乱暴である。

法も、権利も、権限も、権力から派生したものであり、義務も、責任も権力によって保証されるものである。
権力がなければ、法も、権利も、権限も発揮する事はできず。義務も、責任も守られない。

権力が悪いわけではない。権力者の振る舞い、権力の在り様が悪いのである。
権力者には、自制心と責任感、高潔な志、強い意志と倫理観が求められる。
それが、守れなくなると権力者は暴君となり、悪となる。
だからこそ、権力者に求められるのは、自覚と威厳なのである。

かつて、反権力、反体制を気取っていたものも、時と処が変われば権力者になる。
自分が権力者の側に立っているのに、無自覚に権力をふるうから、世の中は乱れるのである。
俺は、かつて、学園紛争の闘士たちに言った。
あなた方は、旧い秩序を壊すだけ壊したけれど、
何一つ新しい事を創造しようとしてこなかったではないかと。
それでは、あなた方が倒そうとした相手と何の変りもないと。
お陰で、自分は大学にいられなくなった。
あれからずっと自分は、一人。
今でも、異端者である。

権力というのは、集団を統率、統制、制御する為の強制力を言う。
組織は、権力によって保たれ、維持されている。
組織、社会は権力と不離不可分の関係にある。
権力と組織は一体である。
組織には、統一性を保とうとする力が働いている。
その力が、権力の源泉である。
法や権利、義務は、権力に拠って成立し、維持される。
権限と責任は、権力から派生する。
権力は、集団の力である。

統一国家において法と正義は唯一でなければならない。
法と正義が分裂する事は、国家が分裂する事を意味するからである。
正義は、国民の倫理の根源である。
法と正義の始源は、国家権力に所在に求められる。
国民国家においては、国家権力の所在は、国民の意志に求められる。
それが主権在民である。
国民の意志を具現するのは、国の制度と手続きである。
故に、国民国家の正当性は、立法手続きによって保証され、検証される。