答えは自分で出さなければならないし。
自分でしか出せない。
だから答えだけ教えても意味がない。
知りたいには答えでなくて、答えの出し方。

学校ではね。
答えは予め決められていて。
答えがあっているかどうかだけが、問題にされるけど。
その方が異常なんだよ。
現実の世の中には、予め答えが決まっているなんて事は、めったにないし。
答えも、一つではなくて、人それぞれ違った答えを出すのが普通。
だから、学校を出ると、途端に錯乱する。
それで答えを出せなくなる。

僕らは、親父たちから、答えは、教えられない。
大体、これだという答えはない。
強いていうなら、お前が出した結論がお前の答えだと。

誰を好きになって。
何が食べたくて。
どんな所に住みたいかなんてね。
自分で決めるしかないでしょ。

それは、大学で物理を習い始めた時に教授から、同じことを言われた。
物理学には、答えなんてないんだよ。
逆も真なりと言ってね。今、定説とされている事の逆説を間げる事だよ。
物理学なんて金鉱堀のようなもので、金脈にぶち当たれば

筋道を間違えたら、間違った答えしか出てこない。
例え、結果は同じでも。
正しい前提に基づいっていなければ正しい答えなんて出しようがない。
結論さえ合えばいいと言うのではない。

学校では、食事の内容も決まっていて、全員、同じ時間に、一斉に食べる事になっている。
いつの間にか、自分がおなかがすいているか、どうかも、自分ではわからなくなる。
何が食べたいと聞くと同じのでいいですと言う。
かと思えば、寿司屋に行って、カレーが食べたいという始末。
先ず、賛成か、反対か。やる気があるのかないのか。説得する必要があるのか、ないのか、最初にはっきりさせておく。
自分がおなかすいているのも、何が食べたいのかもはっきりしないのもを、連れて行ってもつまらない。
自分とって当たり前な事でも、相手にとって当たり前だとは限らない。
神を信じる者にとって、神の存在は当たり前な事でも、神を信じない者にとって神を信じている事さえ信じられない。
前提が違えば、一見、同じに思える結論でも、本質が違う。

腹がすいたかどうかも自分で判断できない。
何を食べたいかも決められなければ、仕事の話なんて何も決められるはずがない。

問題は、「何を、するか」ではなく。「誰が、するか」だと言う事の場合もある。
自分を責めて済むならいいが、多くの場合は、自分を責めてるだけでは解決できない。

監督を無視して、コーチが勝手に投手を交代させてはならない。
審判の許しなくて、投手を交代できない。
審判が、迷っているからと言って、キャチャーや観客がストライク、アウトの判定をしてはならない。
当たり前と言えば当たり前だが、組織の規律が乱れると、当たり前な事も当たり前でなくなる。

相手の欠点に気がつくという事は、自分にも同じ欠点があるという事だ。
だから厭なのさ。
子供の悪いところに気がつくのも。自分に似ているから。
自分の欠点を見せつけられている。

答えというのは、本当にわからない。
筋道を立って、順を追て、事実を一つひとつ積み立ててきたつもりでも。
予想もつかない答えを出される事もある。
どう考えても、やるという結論しかないと思うのに、辞めたって決断されたりね。
スイッチを入れればいいと思うのに、いつまでたっても、スイッチを入れなかったり。
ハイと言うしかないだろうと思うけど、いいえと言ったりね。
兎に角、土壇場で裏切られること多いけど。
決断力のない人は、肝心のところいつもぼやかして、決めたくない、決めたくないとするんだよ。

とにちんっかんな答えを出されると。
そこか、その筋できたかなんて唖然とすることあるからね。
兎に角ユニークな答えを出されることあるけど。
場所の話をしてるのに、日の話になったり。人の話に転じたり。
肝心な話が出来なくなる。
終いには、何の話か分から泣きなって。
他人のことは適切なんだけどね。
自分の事となると、まるで見えなくなる。

それでも、答えは自分で出してもらうしかない。
無責任で、他人事になってしまう。
何も決まらなくなる。
自分の答えは、自分で出さないとね。