自由のために、民主主義のために、理想のために、この時代は切り開いた先駆者達は、死んでいった。神に看取られることなく。何を信じて彼等は、逝ったのか。今、現れたこの世の有様は、彼等の求めた世界なのか。

病める者、貧しい者、迫害される者、虐げられる者、差別される者達の為に、どれほど多くの者達が殉教していったことか。

人類の救済のために彼等は、自らの肉体と魂を捧げたのである。一体、どこから、その崇高な精神は、もたらされたのか。

多くの名も知れぬ殉教者達がいる。彼等は、誰からも顧みられる事もなく、死んでいった。

何のために、彼等は、自分の人生どころか、命さえも捧げてしまうのか。

自分があって、自由がある。自分があって社会がある。だからこそ、自分を否定するものがあれば、敢然と戦いを挑むのだ。自分を見失えば、必死に自分を取り戻そうとするのだ。自分を生かす社会があれば、命をかけて守るのだ。

それは、圧制者に服従したら、自分が、自分でなくなるから。自分を守れなくなるから。愛するものを失うから。自由でなくなるからだ。

この世には、自由な人間と奴隷しか居ない。しかし、自由人であるか、奴隷であるかは、外見から、は解らない。自由であるか、否かは、自分で決めるからだ。

良い意味でも、悪い意味でも民主主義は、宗教的な熱狂を持っている。時には、それが、狂信となって暴走する。しかし、それは、自分を見失うからだ。堅固なる自分があれば、暴走したりはしない。

暴走するのは、自分がないからだ。それは、自由ではなく、無軌道なだけだ。

思想信条の自由を謳っているからと民主主義は、無思想なのだなのと狂った考えをしている似非インテリがいるが、民主主義は、高度に思想的な体制である。自分の思想を持つ。自分の哲学を持つ。

自由な人間に、教条的な思想や哲学は教えられない。なぜなら、哲学は、自分で学び取るものだから。哲学するのである。

自己実現と自己満足とは違う。自己実現は、自己の発露、自己満足は、ただのエゴ。自己満足には、哲学がない。信念がない。

欲望の赴くままに生きる者を自由とは言わない。

自己満足だけで人は、一生を捧げられるものであろうか。自己を満足させるために、身の破滅を招いたとしてもそれは、自業自得である。それは、殉教ではない。ただの自滅にすぎないのである。

自由主義も民主主義も、自己への信仰である。それ故に、民主主義に殉じても惜しくはないのである。

真の殉教者達は、自分に看取られて逝ったのである。己の魂に救われ、心の赴くままに生きたのである。生きる事は、自分を生かす事。自分を生かす為に逝ったのだ。それが、真実の自由である。