中間成果物と作成書類のリストを作り、要件定義書、中間成果物と作成書類を作成順に並べ、項目毎に、最終成果物につなげれば、業務フローの大枠ができる。
例えば、趣意書は、はじめにの部分に組み込まれ。
方針書によって、方針は定まり。
予定書は、日程に反映され。
要件定義書は、基本的考えを形成し。
調査書が、現状分析の部分を根拠を構成する。

実務は、即物的な事であり、複数の人間が関わっているから、書類とか、メールとか、物的なものに置き換えないと操作できない。
だから、要件定義、中間成果物、作成書類、最終成果物、UIを予め明らかにする必要があるのである。

中間成果物や作成書類の項目を繋ぎ合わせれば、作業手順と作業リストができる。
例えば、会議予定の日付を手順並べて項目を繋げば基本計画の日付、日程、予定の大枠ができる。
これに鏡として稟議書と定例会に対する提出書類、添付資料を加え順に並べれば、基本計画が出来上がる。
それに、招集手続きと通知書、アジェンダ、議事録を業務指示書を組み合わせれば詳細計画ができる。

書類は、インとアウトで二通、鏡のものがなければ照合できない。

現状分析の段取りは、調査書の作成に落とし込む。調査項目が、現状分析の基となる。

現状分析は、調査書の項目に反映される。
調査項目に基づいて調査計画を立て。
調査結果に基づいて現状分析がされ。
現状分析に基づいて実施計画が立てられる。

中間成果物や作成書類の項目を繋ぎ合わせれば、作業手順と作業リストができる。
業務フローもできる。業務フローが見えてくると作業が特定できる。
作業量は、簡単な仕事でも百や二百あるので、予め、読み込んで、順序良く、手際よく処理しないと収集がつかなくなる。

以前は、作業の洗い出しから始めたが、これだと、ある程度、経験を積まないと難しので、現在は、成果物から作業を洗い出すのが主流となってきた。

中間成果物や書類をいつまでに、誰が、どのように作成するかを詰めていけば、仕事の段取りができる。
例えば、各支店の、営業の現状を支店担当者に指示して、調査させ、支店長にチェックさせ、本社、スタッフにまとめさせ、営業責任者から調査書を提出させるという具合にである。
このような作業の過程で、現場担当者に現状を理解させ、支店長に担当者の認識を点検させ、スタッフに現状を分析させて、営業責任者に対策を立てる指針を考えさせるのである。
このような過程を通じて次ぐの段階の準備をさせる。

作業を特定できないと、仕事が見えてこない、経験と勘、記憶だけに頼る。それも、メンバー全員の経験と勘、記憶に頼ることになる。
作業が特定できないと作業量を抑制したり、段取りを組むことができない。
作業効率が著しく低下する上、管理もできなくなる。
作業を特定しない事自体、無謀なうえ、記録もとっていないとなると絶望的な状態に落ち込む。
この事は、やる前から予測できる。

基本は、あたりまで、簡単なことの繰り返しだが、それを馬鹿にして、自分の経験と勘、記憶だけに頼ろうとすれば、全員に影響を及ぼす。
リーダーが、経験と記憶だけに頼ると、メンバー全員が経験と記憶だけが頼りとなる。
それは、地図も用意しないで冬登山をするようなものである。
チームワークだという事を忘れないように。
八甲田の悲劇を繰り返してはならない。

実務の世界では、記憶と記録では、圧倒的に記録の方が強い。
これは基本。
いざという時、物いうのは記録で、記憶ではない。
記憶を頼って横柄な態度をとる者は、自分の愚かさをひけらかしているだけ。
最後は、マメに記録とっていた者の言い分が通る。
記録は、弱い立場の者を守る最後の切り札。
記録は自分のために残す。
政治の世界を見ればわかるだろ。
政治家は記録を残したがらないんだよ。

でも、役人は、自分の身を守る、自分の潔白の証として記録を残そうとする。

今は、成果物、作成書類から作業を洗い出す手法が主流になったため、逆に、成果物や作成書類に囚われる傾向が強くなってきた。
報告書や、日報、月報の作成が目的で、本来の、報告書や日報、月報をつける意味が失われ、却って、報告の意味や目的が見失われてしまっている。
本来は、報告書に基づいて次の作業や組織の組み換えや段取りをつける、軌道修正をするのが目的。
偵察に出したのに、どこを攻めるかの参考にしなければ意味がない。
人事考課も、トップと価値観や目的を共有する者がやれば、極端な話、考課票も考課基準もなくたっていい。
考課の目的はトップの方針を忠実に実行し、結果を出したかを評価することなのだから。
考課票がなければならないとか、考課基準ありきではない。
考課の目的や方針が核であり、考課票や考課基準は手段。

残念ながら、人の能力は、年とともに、衰えていく。成長し続けはしない。
どこかの年齢で頂点に達し衰え始め、衰え始めたら、自分の絶頂期を超える時は来ない。
それが、老いであり。現実である。
その現実を受け入れない限り、人は、有意義な人生を全うする事はできない。
ただ、絶頂期をいつ迎えるかは、誰にも、わからないし、個人差もある。
十代で衰え始める者もいるし、五十代でも成長している者もいる。
成長を続ける者は、日々、研鑽を怠らない。
怠惰な生活をしながら、自分の老いを認めないで、いつまでも、過去の栄光を追い求める者もいる。
そういう者は、既得権にしがみつき、組織を劣化させ、風化させ、老朽化させる。

この点をよくよく理解しておかないと評価を誤る。
組織の核となる人が何を期待しているか、それが、肝心なのである。

組織的な誤謬や偏向、遅延、停滞、硬直化、形骸化、老朽化、セクショナリズム等をどう補正するかが、組織の最大の課題である。