要は、自分が何を知りたいかさ。
学校生活が長いとその辺をね、勘違いして、答えばっかりを追い求める。

問題はね。自分の側にあるんだよ。
外にはない。
それに、一番最初に確認すること。

学校ではね。
予め、問題は設定されていて、答えも決められている。
皆、騙されているんだよ。

自分の人生は、自分で問題設定する。
答えなんて、決まっていないんだよ。
自分で問題作って。答えは、自分で探す。自分で出す。
誰を好きになって、どんな仕事をするか、正解なんてない。
あえて言えば、自分の出した結論が正解なんだ。

誰かが、問題を設定してくれるわけではなく。
自分が、問題を設定していかないと答えなんて出るはずがない。
人生は、与えらた問題を、定められた仕方で、あらかじめ用意された答えを、ひたすら解く、導き出すなんてことはない。
問題は自分で設定する。
だから、問題意識を持てというんだけど。
ほとんどの先生は、自分が言っている事の、問題意識を持てという意味が分かっていない。
自分が何を知りたいの。それが原点。
自分のことを、誰も、認めてくれなければ、生きていけないなら、好きな仕事ができないなら。
まず、自分のこと認めさせなければね。

じゃあ、誰に、何を、どのように、なぜ、認めさせるの。
それが、問題さ。

それを設問に置き換える。
それが、問題意識であり。
基本的に、最初に、解決すべき仕事。
でも、自分のことだからね。
自分に嘘つかないことだよ。
ところで、何が知りたいの。
どうしたいの。

問題をどうやって設定するか。
それは、問題の構造を知ること。

設問は、説明文、前提と条件、疑問文からなる。

学校の試験問題では、出題者の意図と言うのは、あまり問われない。
なぜなら、学校の試験では出題者の意図と言うのはあからさまだからだ。
あからさまでありながら、出題者は秘匿しようとする。
だから、学校の試験問題は茶番なのである。
現実の問題では出題者の意図は、問題を解く鍵の一つである。
説明文は、出題者の意図を明確にする部分である。

何を期待しているのかである。
出題者の意図というの言うのは、出題者が何を期待しているかである。
一見、簡単そうだが意外とこれが難し。
これ自体が、問題となりそうである。
自問自答する時は、一体、自分は、自分に何をして期待しているかを考える事である。

疑問というのは、質問の形に置き換えられる。
自分に問う事である。
何を期待してるのか。
何を期待されているのか。

賢い人間が考える事は、ある程度、読める。
予測することはできるが、馬鹿な人間が考える事は読めない。
つまり、予測不能である。
だから、怖い。意表を突かれるのである。
阿呆の考え休むに似たりとも言うどちらにしても、予測がつかない。

世の中、利口な人間だけではない。
むしろ、少し、考えが足りない者の方が圧倒的多い。
彼らは、自分がどのような意図で問題を設定したのか、投げかけたのかも理解知っていないのである。
命令した人の多くは、自分の命令した事の意図を理解していない。

そこは、自分で補わなければならないのである。

問題の課題は、疑問文の形で表される。
疑問文は、解けとか、求めよ、導き出せといった命令文の形をとる。

問題とは何か。
それは、自分が知りたいことだね。

それこそ、知りたいことなんて、千差万別。
今日何を食べるか。
彼女を作るためにはどうしたらいいか。
おなかが痛いんだけどどうしたら治る。
どうしたら、豪勢な生活ができるか。
人を見返させることができるか。
金を儲けるためにはどうしたらいいか。
といった下世話なことから。

人生いかに生きるべきかとか。
宇宙の真理は何かとか。
神は存在するかといった深遠なものまで、いくらでも、設定することはできる。

要するに、自分が何を知りたいか。疑問点が、問題の中心。
だから、疑問符をつければ、取る会えず、問題の体裁はできる。
つまり疑問文だけでも、問題設定はできる。
しかし、これだけでは、問題に解くことは難し。

そこで、条件文と前提文をつける。

条件文というのは、ただ、疑問符だけでは、問題が、漠然とするので、問題を制約するための要件を、文章化したもの。
前提となるのは問題を設定するうえでの前提。
ただ、あまり、厳密に前提か、条件かを区分する必要はない。

例えば、条件とは何かといえば。
コロナ化で、三密や県内や海外の移動は原則避けなければならないとか。
予算は、百万円とか、使えるのは、社員とか。
前提は、対象は、一般顧客、地域を特定し、石油価格は一定とするとか。
まあ、条件と前提は働きの違いかな。

何が、大切かというと、情報を絞り込むこと。
やったらに、前提や条件を増やすと何が知りたいのかがわからなくなる。
膨大な情報から、知りたい情報、必要な情報を絞り込むための基準だと思えばいい。

余計な情報は、問題解決の障害になる。
要するに、どれだけ多くのことをしているかではなくて、役に立つ情報をどれくらい知っているか。
役に立つというのは、意思決定にである。
判断を迷わす情報をいくら持っていてもかえって障害になる。

意思決定に際し、情報の多さは、障害にこそなれ、助けにはならない。
策が一つでは、選択の余地がない。かといって、百もあったら、判断に苦しむ。
いずれもないに等しい。

要するに初期設定である。
初期設定によって設問の目的を明らかにして無駄を省くことである。
目的が、はっきりすれば、かなり情報が絞られる。

そして、目的によって結果は評価される。
条件文によって設問の目的を明らかにする。
普通一般の問題は、あらかじめ、正解が用意されているわけではない。
だから、答え(結果)は目的によって評価される。
目的によって結果は採点されるのである。

最初は、誰も、わかっても、認めてくれない。
当たり前なの。
俺だってこの会社に入った時は、ひとりだった。
東京育ちだから、静岡には親類以外誰も知り合いはいなかったし。
認めるとか理解されるなんて生易し事から程遠い状態だたね。
身内だって信用できないんだからね。
最初から何も期待してなかったから耐えられたけどね。
最初は、誰も、わかっても、認めてくれない。
当たり前なの。

戦略さ。
自分の知りたい情報をコアにする。
自分の知りたい情報って何。
例えば、自分を認めさせたいなら、自分を認めさせるための情報さ。
じゃあ、認めさせたい相手は誰。
その人に自分を認めさせるために必要な情報は何。
それが、問題設定さ。
まず、ターゲットの情報だろ。
次にターゲットの強み弱みを分析する為に必要な情報。
違う。
情報は、活用する人によって価値が決まる。
自分の役にならない情報は無価値さ。

問題設定だよね。
たとえば、コロナが経営にどんな影響が出るかとか、市場にどんな影響が出るかとか。
でも、問題設定ができるのは限られているんだよね。
問題設定ができても、それを組織が正式に認知できなければ意味がない。
当事者に、どう受け入れさすか。
いかに、問題意識を皆に共有させるか。
それが、最終的、問題だ。