今の、日本人は、自衛隊に関して根本的な間違いを犯している。
自衛隊の問題は、国家の独立、主権、国防の問題である。
違憲か、合憲・改憲かは、二義的な問題である。

合憲であるか否かを問う前に、
この国を護る意志があるかどうか。
この国を守る必要を感じているか。

命を懸けて守る価値がある国か、どうかが、問われているのである。
誰も守ろうとしない国は、守りきれない。

そして、自分たちの国を自分たちの力で護る意志があるならば、この国をどのように守るかを問うべきなのである。
その上で、自衛隊の存在を問題とすべきなのである。

我々に求められているのは、この国を守る意志が、あるのか、ないのか。
明確な意志だ。
この国を守るという断固とした決意である。
その決意がないのなら、国家の独立など望まない事だ。
ただ、守られるだけで国家の独立など望みようがない。

憲法は、建国の理念を基にして成立する。
先ず、合憲か否かを、問う前に、建国の理念を明らかにすべきである。
そして、国家とは、何かを明らかにすべきなのである。

忘れてはならない、今の日本は、国民国家であり、国是は、民主主義であり、自由主義であり、平和主義だという事を。
自衛隊が守っているのは、民主主義であり、自由主義であり、平和主義だという事を。
この点を前提にして、自衛隊について、国防について考えるべきなのである。

今の日本人の中には憲法を理想だとする者がいる。
国家も、国防も現実である。理想ではない。理想であってはならない。
なぜなら、国民の生活も国際関係も現実だからである。
アメリカだって、フランスだって、ドイツだって、自由も、権利も、民主主義も、独立も、平和も、理想ではない。
彼等は、自分たちの存在をかけて実現している。実現すべき現実である、
そうでなければ憲法の意義はない。
民主主義国にとって憲法は実現すべき現実である。理想であってはならないのである。

アメリカとの関係も、国是に基づかなければならない。
そうでなければ、日本は属国とみなされ独立は保障されない。

自分の力で自分の国を守れなければ、独立国としてみなされない。
当然、主権を主張する事はできない。
なぜなら、独立国としてみなされなければ、主権も認められないからである。

憲法は、独立国であることを前提として成立する。
独立国、主権国家として認められていない国の憲法は正当性がない。
なぜなら、自国の力で憲法を守る事ができないからである。

自主憲法などと、言うこと自体、お笑い草だ。
自主的でない憲法などありえないからだ。

平和を守りたいと、私は強く思う。
しかし、自衛隊の存在が平和に反するという考えは、納得できない。
自衛隊があるから平和が守れないのではない。

医者がいるから、病気になるわけではない。
当然、医者がいなくなれば、病気がなくなる事はない。
警察があるから、犯罪が起こるわけではない。
警察がなくなれば、犯罪がなくなるわけではない。
消防署があるから火事が起こるわけではない。
消防署がなくならば、火事が防げるわけではない。

これは道理である。

自衛隊があるから、戦争が起こるわけではない。
自衛隊がなくなれば、平和が保てるわけでもない。

犯罪は割が合わないと思うから犯罪は抑制されるのであり。
戦争は割が合わないと感じるから平和は保たれるのである。

自衛隊の問題は、国防の問題であって、自衛隊の存在の是非を問う事ではない。
国家の独立の問題である。

問題の本質は、いかにして、平和を守るか。国を守るかであって。
自衛隊が存在するから、悪いのだとしたら、問題の本質は、見えなくなる。

平和を守るために何が必要で、何をすべきかを論じれば、自衛隊の是非ではなく。
自ずと、自衛隊の在り方が問題となる。
また、国を守る。それは国の独立を守る事で。
何から、国を守るべきかと考えれば、自ずと国家戦略に結びつく。

国を守るのは権利である。
国家の主権は、国家の独立によって保証されている。
国民の権利と義務は、国家の主権を源とする。
つまり、国を守るのは主権者の権利である。
国家の主権者が、国家を守る事を放棄する事は、国家の独立を放棄する事である。
故に、国を守る事は主権者の義務でもある。

自衛隊の目的は、国家の独立を守る事である。
侵略を目的とした軍とは違う。
では自衛隊は軍ではないのか。
自分達の意志を武力をもって相手に強要する組織を軍とするのなら、自衛隊も軍の一種である。
言葉で誤魔化している限り、自衛隊の正当性は守れない。
問題は、言葉の真の意味であり、上辺の言葉を言い換えて欺こうとするのは欺瞞に過ぎない。
それでは、問題の本質は正せない。
軍が、侵略的であるか否かは、政治的問題であり。
政治が正常に機能しなければ軍は制御できなくなるのである。
軍を凶器にするのは政治であり。
それを、明確にしなかぎり、真の平和など維持できない。

自衛隊を政争の具にすることは、国防を政争の具とする事で。
平和や国家の独立を政争の具にしている事である。
それでは平和や国家の独立は危うくなる。
それは、政治の問題であって、自衛隊の問題ではない。

今の日本人は、物事を深く考える事を厭うようになった。
余命と言うだけで、ドラマが成立する。
でも、内容は、唯、死ぬ死ぬと言ってるだけで。
却って今の人は、余命を言われないと、自分の死と向き合えない。
言い換えれば、自分の生とも向き合えない。
人生いかに生きるべきかという問いができない。
だから、余命などと言われるとハッとする。
でもそれ以上でも、それ以下でもない。
生も死も、受け身でしかとらえられない。
特攻隊の隊員のように己の生と使命について問い詰めたりはしない。
だから、今の桜は、花見の対象にしかならない。
ものの哀れとは結びつかない。
それを進化、進歩だと思い込んでいる。

今の日本人には、悠久の大義なんて愚かな事でしかない。
ただ、生きてるに過ぎないから。
だから、死もただ、死んでいくに過ぎない。
何かに、自分の生や死を役立てようという意志などない。

人は、自分が守るべきを知る事で自分の存在価値を知る。
大切なのは、自分が何から何を守るかである。
守るべきものを知らぬ者は、生も死も虚しい。

自衛隊の本義は国を守る事、国防である。
では国を守るとはどういう事か。
ウクライナだけでなく、多くの国の国民が国を守るために戦っている。
彼等は、何を守るために戦っているのか。

自衛隊が守るべき事、即ち、使命は、
第一に、国家も独立を守る事。
第二に、主権者(わが国では、国民)の権利を守る事。
第三に、主権者(わが国では、国民)の生命と財産を守る事である。

今の日本人は、国家体制の違いを無視して、故意か、軍の是非を論じている。
国民国家の軍と君主国の軍、独裁国の軍、全体主義国の軍、軍国主義国の軍、共産主義国の軍は守るものが違う。
それを理解せずに、軍や国防、平和の是非を語る事は愚かな事である。

軍事の話をすると、軍国主義者、侵略主義者、全体主義者のごとく決めつける人がいるが、自由主義者も平和主義者も、無抵抗主義者も、無政府主義者も、マルキストも、反戦主義者も、キリスト教徒も、仏教徒も、軍事の話はする。
軍事の話抜きにまともに、平和についって語り合えないからである。

世界中の多くの若者が国を守るために命がけで戦っている。
反戦にしても、命がけである。
銃口を前に戦争反対と叫んでいる。そして、それも、国を守る事である。
真剣に、自分の人生をかけて国を守る事の意義を問わなければ。
自衛隊の是非は語れない。
それほど、国防は、自分の存在に関わる事なのである。