今日は、三月十一日、十一年前に東日本大震災があった日。
一日で何もかもが変わってしまう事がある。
それが、現実。
そして、昨日、三月十日は、東京大空襲があった日。
それから、半年足らずで日本全土が焦土と化したのです。
本土の空襲回数は約二
それが戦争の現実。
第一次世界大戦の後、日本は、ズルズルと大陸に出兵を続け、泥沼化し、第二次世界大戦、太平洋戦争を準備をした。
日本軍は、戦いは強かった。連戦連勝。そこに、落とし穴があった。
連戦連勝し、植民地の住人からは、はじめのうちは解放軍のように迎えられた。
日本は、戦いは強かったが戦争には負けた。
占領統治も下手だった。
これが、現実で、この現実を直視なければ生き残れない。

事業に失敗して何もかも失うのも、戦争や災害で何もかも失うのも、人に騙されて何もかも失うのも、失恋したり、別れたりして、何もかも失うのと。
死んで何もかも失うのも、突き詰めてみれば同じ気がするのです。

強いてどこが違うかといえば、後があるかないかかな。
死んでしまえば、後がない。そこでおしまいなのに。
災難にあっても、失敗しても、戦争にしても、生き残れば後がある。
その後、どう生きるかが問われ続ける。
いっそ、死んでしまえばと思わなくもない。
仏教で三欲と言いますよね。
物欲と、生存欲、そして、死にたいと思う欲。生き残てしまえば後を引きますからね。
戦争だって生き残った者は、自分の所業を、改めて、見つめ直すことを迫られる。
これからどうやって生きたらいいのかってね。
戦後の日本人を、その辺をあいまいにしたままで、今まで生きてきてしまった。
だから、今になって慌てているんですよね。
いつまでも、逃げるわけにはいかない。
反戦だ、人道だなんて言ってられない。
だって、生きるか死ぬかの問題ですから。
生きるためには、人を殺す事も、略奪だってしなければならなくなるかもしれない。
その時、自分は何を決断するか。
覚悟はできているか。

所詮、神の意志ですよ。
だから、神を信じるか否か。
全てが終わるのも自分が終わるのも根源は一つなのですから。
自分が、生きるの死ぬのと騒ぐ事と、人類が、滅亡するのしないのと騒ぐのと、どれほどの違いがあるのですかね。

だから、自分を超越した何者かを見だして、信じるしかないと。

一をもって貫く。
同じなのですよ。
生きるためには食事して、排泄し、寝る。
赤子だって、聖人だって、悪党だって、金持ちだって、貧者だって変わらない。
体制が違う国の空を飛ぶ飛行機の仕組みや法則は変わらない。
共産主義者も、一神教徒も、仏教徒も、無神論者も、人間は死ぬ。
国や人種が違っても、宗教が別でも。
根源に存在する事は、同じ。

僕は、ボンヤリと神を信じているんですね。
それは青い空をボンヤリと見上げているように。
海を何も考えずに眺めているように。
ボンヤリと、ボッサと信じているんです。
何かを思い詰めているとか、期待しているとかではなくて。
それこそ、ボンヤリと神を信じているんですね。

あっけらかんと信じていればいいと。

天とは、そんな事なのかもしれないですね。

ドストエフスキーの「死の家の記録」の中で、神は何もかも許されている。
少女を強姦する事も、人を殺す事も、許されている。
しかし、それを知る者は行わないというくだりですね。
これは、核心をついていると。
彼が、処刑目前に許されたという経験に基づいているのでしょうけれども。
イエスが十字架にかけられたという現実ですね。
キリスト教徒は今も十字架を背負っている。
彼らにとっては、ハルマゲドンは現実なんですよね。
死という現実。
僕は、神の本質は死神ではないのかと。
死に神と言っても、おどろおどろし存在ではなく。
厳粛な意味で。
なぜ、俺は、このように生きてきたのかという問いの終着点に待つという意味で。
生と同じくらい死は厳粛なんですよ。
厳粛な事実。

神に何を期待するのかと言えば、最後まで、みとって欲し事ですかね。
本当に期待すべきなのは自分でして。
何を信じて、いかに、生きるかを決めるのは自分なんですから。
大切なのは、自分が命がけで何を守るのか。
それで覚悟は決まるのですよ。