段取りをして相談に行くと、いつも、
「これで、仕事ができるか、考えてみな。」
「仕事ができると思うならやってみな。」
と言われた。
最終的には、実際にできるかどうかで決まる。

「これからやる事を口に出しって言てごらん。」
「やる事を口に出して言えなければできないよ。」
「大体、人は言った通りにやるものさ。」
「やる事を口に出せなければやらないよ。」

「怒ってはぐらかすか。笑て誤魔化そうとするかどっちにしてもやらないよ。」
「最初から、やる気がないんだよ。」
「だから、できるようにすると困る。やらなければならなくなるからね。」

空を飛べとか、念力や超能力、テレパシーで伝えろとか、言っているわけではない。
一つひとつは、単純な行為によって成り立っている。
早い話、できる事でないと意味がない。
空を飛べたか、念力やテレパシーで伝えろなんて言ってるわけがない。
その人が、その時そのときできる事を積み重ねているに過ぎない。

しかも隙間なく、切れ目なく、連続的にやる事を順序よく結び付けていかなければならない。

仕事を、その時その時の思い付きでやるなというのは、仕事は互いに結び付き連続しているからである。
順番を間違えるとやり直しになる。
仕事に飛躍は許されない。
仕事は、特別扱いはできないのである。
根気よく、粘り強く積み重ねていくしかない。
逆に、根気よく積み重ねていけば一定の境地に到達はできる。
それが仕事なのである。
仕事は地道さを嫌っていたら達成はできない。

仕事は、最終的に読めて一両日である。

仕事を難しくするな。
仕事は単純明快。
野球は、投げて、とって、打って、走る。それだけ。
それだけなのに一つとして同じ試合はない。

定石は、教えられても、指し手は教えられない。

手を付けられなければ、尻が頭になる。
尻を頭になるような仕事をしていると、仕事は、逃げ水の如く逃げていく。
仕事に追われ、後追い仕事になる。

一年が一日の如く経っていく。

仕事というのは、百人いたら、百人がわかるようにしなければならない。
だから、指示は、誰にでもわかる言葉が用いられる。

誰にだってわかる、平易で簡単な事と馬鹿にするようでは、仕事の本質を理解していない。
簡単な言葉で言うから意味があるので。
簡単な言葉で言うのが難しいのだ。
誰にも分らない言葉で、難しく言う事の方が簡単である。

何が何してなんとやらではだめ。
皆と打合せて、早い時期に予算を作りたいと思いますでは仕事にならない。
要するに、仕事の要件がそろっていない。
仕事の要件は、時間(日付)、人(誰が、誰に)、働き(どうする)、物(何を)、結果(どのようにする)、目的(なぜ)という要件を満たしていなければ成立しない。
つまりは、誰が見てもわかるようにする事である。

仕事というのは即物的。
作業、つまりは、紙に書くとか、運ぶといった動作を伴う事。
だから目に見えるようにできる。
紙に書くから、他の人に見せたり、確認したり、修正したりする事が出来る。
言葉だけでは伝わらない。
なぜなら、言葉は残らないし、記憶は曖昧になり、いくらでも解釈の違いがあるし、記録されない。
だかだ口頭だけでは仕事にならない。

視覚性と操作性がある。
見えて、動かせる。

実務家は、作業で考える。
仕事は、きわめて論理的。
論理的だから、組織にも、日程にもできるし、人と時間、働きを結び付ける事が出来る。
システムのプログラム同様、働きを積み上げる事で目的を達成する。
仕事である。

仕事は、飛躍できない。
一歩いっぽ積み重ねていく。
三歩先に飛ぶことはできない。
いきなり王手はかけられない。
初手には定石がある。
それは、システムのバグのような事。
穴が開くのである。
頭を尻にはできない。
物事には、順序がある。

だから、どこから手を付けるか。
何から始めるか。
どこから着手するかが難しい。
しかし、最初にできる事。
できる事から始めるのである。
だから、最初は、何でもない、たわいのない事なのである。
それだから、難しい。

仕事は、始まる前は、情報の塊。
もつれあった、糸口も見つからない。
何から手を付けていいかもわからない。
情報の塊をバラバラに分解し、原因を探して、筋道を立て対策を立てる事から始める。

医者だって、当てずっぽうでは、診断なんかしない。

黙って座ればピタリと当てるというのは、占い。
医者は、占師ではない。

先ず、出血や、卒中といった緊急を要する状態なら、応急処置をする。
その上で、症状(現状)を、目視で確認し。
熱や脈、吐き気など項目に沿って聴き取り、その上で、検査項目を決める。
その上で病気(原因)を特定し、診断を下し。
診断に基づいて治療法(対策)をきめる。

とにかく、書けよ。
言われた事、状況を書くのは、子供でもできるんだよ。
ただ、正確に書き出す。
相手に伝わるように書くというのが難しくて、それは経験がいる。
書く事すら、拒む理由が解らない。
やる気がないと言われても仕方がないね。

仕事は紙に書くといった基本動作に基づく。
基本動作は、読む、書く、投げる、走る、ボタンを押す、キーを回すというような、誰でもできる事。
仕事のできない者は、それをしない。

書けと言っても、いつまでも書かない。
頑固に書かない。
何か障害がない限り、基本の動作というのは、誰にでもできる。
車の運転が普及したのは、車を運手するための作業、操作、つまり、基本動作が簡単だから。
一定期間、教習所へ通えば、大概の人は免許がとれる。
しかし、教習期間、教官のいう事に素直に従わなければ、車の運転は覚えられない。
後方確認と言っても、動作としてしなければ、認められない。

仕事も同じ。
基本動作を単純、明快。
組織はシステムなのであるから、車を運転するように操縦する。

その根本は、記録をつけて、皆にわかるようにする。
なぜなら、組織は、人でできたシステム、仕組みだから。
相互の意思の疎通、協力が要になるから。
この点を忘れないよう。
自分だけがわかっていればいいというのではない。
ボールを投げた先が捕球の仕方、次に何をしたらいいのか理解していなければチームワークは成り立たないのである。
俺は、関係ないなんて言ってたら、チームの一員にはなれない。

書けと言われたら書け。
基本的に、ミスの多くは、ケアレスミス。
怠慢、軽率、甘く考えているから起こる。
舐めるな。
わかってますよ。
できますよ。
やってますよ。
馬鹿にしないでと馬鹿にして。
舐めないでとなめている。
だから、馬鹿にされ、舐められる。
書けと言ったら、書け。

スイッチなんて一瞬で入れられる。
メモなんて、二、三分で書ける。
やればやったなりの結論が出る。
やらなければいつまでも、結果がでない。
身につかない。
それで、できない、時間がない、わからないといてるのは、逃げているだけ。

口を動かさないで手を動かせ。
手や、足に考えさせろと。

自分にできるようにする。
自分ができるようにする。
その為には、自分に何ができて何ができないかを見極め認める。
そしてできる事から始める。
ない物ねだりをしても無駄。

かつては、メモのつけ方から教わったもので。
メモのつけ方が悪い、わからないから失敗する。
それを自分の頭が悪いからというのは、言い逃れ。
運転は、基本的に誰でもできるから、仕事になる。
基本動作を疎かにするから、事故を招くのである。

多くの事故や失敗は、メモつけなかったり、報告しなかったり、準備不足や確認しない事から起こる。
基本動作を怠るから大惨事を招く。
そして、新人、素人ほど、基本動作を馬鹿にする。
傲慢なのである。
ベテランの失敗も初心を忘れ、傲慢になって、基本動作を疎かにするからである。

記録があれば、見直す事も、確認も、分担も、交代も、代理も、修正も、検討も、分析も、計算もできる。
記録がなければ、聞き放し、やり放し、記憶に頼るだけで、いい加減になるし、無責任になり、打つ手もなくなる。それで、後悔しても後の祭り。

仕事、作業というのは、基本的に動作を伴う。
要するに仕事なするというのは、基本動作に置き換える。
行動を起こすことを意味する。
それも基本動作は誰にでもできる事。
メモを書くとか。
スイッチを入れるとか。
キーを回してエンジンを始動する。
始動操作を言うので。
また、野球では、ボールを投げるとか。
主審が手を挙げて、宣言するとか。
兎に角、動作に移す。
仕事は、行動に移さないと始まらない。
講釈ばかりで、スイッチを入れない。
エンジンをかけないうちに、訓練時間がなくなるような事。
運転は自分で車を動かさないと習得できない。

基本を一通り教わったら、自分で動かしてみる。
教官は、横に座って、補助ブレーキを踏むだけ。
組織も基本は同じ。
自分で動かさないと覚えない。

自分で動かそうとしないから。後先を考えない。
だから、やる事なす事、順番もタイミングもてんでんばらばら、まとまらない。
組み立てられない。
食べてから料理を作るのでなく。
会議が終わってから、準備するのでもない。

仕事には、後先順番があり。
仕事と仕事は連携している。
相互の作用してる。
作業と作業を結び付け、組み立てるのが、マネージャの仕事。
基本動作は馬鹿にするなというほど簡単なこと。

次回までに何をするのか。
何を作るのか。
作ってくるものがわかれば、仕事が見えてくる。

基本は、メモを取る。鍵を回す。声を出すと言った事。
それを馬鹿にしているから何も身につかない。
それで、馬鹿にするなと怒ってるから、馬鹿にされるんだ。
わかっているというのなら、行動で示せ。
俺は行動しか信じない。