日本は戦後七十年以上組織は悪い、組織は悪いと刷り込まれ続けた。
組織は悪だとしているのはアナアキストだけ。
他の思想家、組織は悪だなんて言っていない。
それを軍隊と結びつけて組織は悪だと刷り込んだのは占領政策の一環。
僕だって最初は組織嫌いだったよ。
でも、ある時、組織自体が悪いのではなくて、組織のあり方が悪いのではないかって気がついた。

二人以上が集まって助け合えば、それは、組織である。
人は、一人では、生きられない。
組織を否定したら、人は生きられない。
組織を否定したら、社会生活は営めない。
もし、組織によって生き辛いとしても。
それは、組織の有り様が悪いので、組織そのものが悪いわけではない。

組織は、集団。
人の集まり、集合である。
故に、組織は、人間関係の上に成り立っている。
組織には、人間関係を守ろうとする力が働く。
それが、権力を形成する。
権力は、人間関係を維持しようとする力だから、法の根拠となる。
権力が働かなくなると統一性のある人間関係は維持できなくなり。
無秩序、無法状態に陥る。
所謂、革命的状態である。
革命家は、革命的状態にする事を目的とする。

民主主義体制は、権力の一形態であって、権力を否定している訳ではない。
人が集まるには、集まる目的がある。
家族なら、生活を共にする事が目的。
学校は、学習を目的としている。
事を為す事を目的とするなら、志こそ組織の核心である。

役割分担が成立するためには、信頼関係がなければならない。
信頼は約束を守る事で形成される。
約束は契約へと発展する。
契約は強制力のある約束である。
強制力の働かない組織も社会もない。

組織にも弊害はある。
しかし、だからといって組織を頭から否定したら、組織を作ることも制御することもできなくなる。
組織の必要性を認めた上で組織のあるべき姿を求めるから、組織の悪い面を制御できる。

組織が、悪いとするから、組織に関わる事、全てを悪いと決めつける。
秩序も、規律も、規則も、服従も、誓いも、法も、礼儀、式典、道徳、仲間、信義、団結も、統一も、権威も、権力も、上司、部下も、統制も、権限も、責任も、忠誠も、愛社精神も、愛国心も悪いとされる。
挙句、指示、命令も強制だから悪いとされる。
つまり、無秩序がいいとされる。無法状態がいいと。
それこそ、偏向である。
だから、教育の現場は崩壊する。

軍隊に対する認識も然り。
日本人の軍隊する考え方は、感情に過ぎない。
軍を戦前は、聖域化し、戦後は、禁忌とした。
とらえ方は両極端だが、軍に触れられないことに変わりはない。
国防問題を聖域化するのでもなく、忌み嫌うのでもなく。
冷静にとらえない限り、軍を抑制することはできない。

医者がいるから病気になる訳ではない。
消防士がいるから火事になるわけではない。
警察があるから犯罪が起こるわけではない。
軍隊があるから戦争が起こるわけではない。
一国だけが武装を放棄しても世界から戦争がなくなるわけではない。
独立が保てなくだけだ。
誰も守ろうとしない国は、守りきれるものではない。

権利と義務、権限と責任は一体である。
権利は義務であり、権限は責任である。
視点を変えたものに過ぎない。
納税は権利であり義務である。
教育は権利であり、義務である。
立法は権利であり、義務である。
国防は、権利であり、義務である。

権力は、組織の統一性を維持するための力である。
組織から権力が失われれば、組織の統一性も整合性も保てなくなり。組織は分裂する。

権力や権威は悪ではない。
悪に変じる危険性があるだけだ。
だから、権力も権威も悪に変じないように監視する必要がある。
政治家や権力者が反体制、反権力、反権威を気取っていたら国家は転覆する。
なぜなら、政治は権力闘争、権力奪取に他ならないから。
体制や権力、権威そのものを否定することは、体制や国家の独立と主権を否定する事だからである。

一つの国に法は一つ。法体系が分割されれば国は、分裂する。
憲法の上に、刑法や民法、商法などが積まれ。
公法の上に、会社規則や学校規則等の私法が積み上げられる。

組織を構成する人には、それぞれ、役割がある。
何を任されているのかで責任も権限も違ってくる。
任せると言っても全体をまかせるのと、部門を任せるのと、作業を任せるのは違う。
任された部分によて考えることも、決めることも、やることが違うのである。
すべての人間を同等に扱うわけにはいかないのである。
ピチャーには、ピチャーの、外野手には外野手の仕事がる。
監督には監督の、コーチにはコーチの役割がある。
役割や働きによって、責任も権限にも差が生じる。

組織は、人間関係によって成り立っているから、人事は、組織の要である。
組織は、組織を構成する人の位置と運動と関係によって機能を発揮する。
人の評価によって組織は、機能を発揮し、制御される。

組織の働き、効用は差によって発揮される。

評価は、相対的だから差に基づくのであり、差の根拠が問題となる。

能力主義も、実績主義も、実力主義も、職務主義も、評価制度は、全て差を前提にして成り立っている。
差、そのものを否定したら評価は成り立たない。
根拠なき差別、正当性のない差別、極端な格差に対して厳しいだけである。
なぜならば、差をつける根拠を失うからである。
全ての人を同等に扱う事は、公正や平等とは、相反する事である。

評価には絶対的評価というのがあるが、それは、一定の基準に基づくという意味であって、評価は、条件によって変わる以上、絶対的評価といえど相対的のものである。

評価の目的は、組織の維持統制するための費用。
構成員の働きや功績に対する報酬。
構成員の権利の実現する為の賃金、給料の三つの要素で構成される。

評価の本質は主観的なものである。
主観的評価の偏向を矯正、補正する目的で客観的基準が設定される。

評価の公正は、評価者の恣意性を極力排除し、評価の目的を保障する事を目的とした基準である。

仕事は、一人でやっているわけではない。
マネージャーの仕事は全体の仕事の足並みを揃え、全体を仕切ることである。
だから事前の了解がなければ仕事のしようがない。
一人だけ先に行かれても困るし、遅れても困る。
だから、やるなとか駄目だと言ってるのではなく事前に了解を取れと。
監督の仕事は、チームを仕切ること。
監督が、守備位置も、打順も決めないで、バッターボックスに立ったら、試合は成立しない。

組織を悪いなんて教育するから、自分の役割が理解できない人が増える。
特に、マネージャーに。

マネージャーは、チームを仕切るのが役割で、企画を立てることが役割ではない。
チームを仕切ろうとせずに、俺の企画を通せというのは筋が違う。

俺の考えと担当マネージャーの考えは違うよ。それを承知して任せるんだからね。
そのかわりはっきりと自分の考えを言ってもらわないとね。
それが許容範囲かどうかが問題なんだから、我々は幅で考えているんだから。
許容範囲を超えたら話し合うだけだよ。
どうしても納得がいかなければ移動するけど、多少、感情的になっても移動されない限りは任されていると考えればいい。
信頼関係の問題だよ。最後は。
それより、自分を殺される方が厄介だね。
信頼できなくなるから。
マネージャは、仕切るのが仕事で企画を立てるのは仕事ではない。

物事には順序があり順序を違えたらなることもならなくなる。
よくわからないな。責任者が責任持てないけど地位と報酬くれと言っているようなものだ。

組織の働きは、連鎖している。
一人の間違った判断の影響は一人に留まらない。
中継する箇所が多ければ多いほど、影響の及ぶ範囲は広くなる。

賢い人間が考える事は、ある程度、読める。
予測することはできるが、馬鹿な人間が考える事は読めない。
つまり、予測不能である。
だから、怖い。
意表を突かれるのである。
阿呆の考え休むに似たりとも言うどちらにしても、予測がつかない。
マネジャークラスに、一人でも、愚かな人間が入り込むと組織は、すぐに機能不全に陥る。
大規模な組織程、愚かな人間が入り込むことが防げない。

組織的な誤謬や偏向、遅延、停滞、硬直化、形骸化、老朽化、セクショナリズム等をどう補正するかが、組織の最大の課題である。

残念ながら、人の能力は、歳とともに成長し続けはしない。
どこかの年齢で頂点に達し衰え始め、しかも、自分の絶頂期を超える時は来ない。
ただ、絶頂期がいつかは、わからない、個人差がある。
いつまでも過去の栄光を追い求める者もいる。
組織の老朽化は妨げられない。

仕事には、始まりと終わりがあるの。
原則は事前承認が主で事後報告が後。
極力、事後承諾は避けるよう、躾けられてきた。

物事には順番があって始まりがあって終わりがある。
原因があって結果がある。
結果が出てからスタートをしてはいけないんですかと言い続けているようなことなんだ。

事前に練習計画をコーチに伝えずに、練習結果だけを報告したら、コーチは、どういう事ですか、僕らを信用しないんですか、仕事をさせない気ですか、馬鹿にしないでくださいということになる。
ヒアリングの結果を伝えるの事後報告。

やってはならないなんて一言も言っていないからな。
やる前に承諾、了承をえろと言っているんだからな。
結果が出てから聞いても聞く意味はない。
結果が出る前に聞くから聞く意味がある。
結果が出てから聞かれても、聞かれたが側は当惑するだけ。

悪い、やめろと言ってんではなく。
事前に了解を取れと言っているの。
結果報告、結果オーライで仕事していたら、マネージメントは、常に後追い、後始末に追われてしまう。
報告を先にしたら本末転倒になると言っているだけ。
事前に了解とって結果を事後に報告するから意図が通じる。
片手落ちだと、なかなか意思が通じないで一方通行に陥る。

権限は行使しなければ効力を発揮せず、一定期間がすぎると効力を発揮できなくなるという原則かある。
故に、方針が示されたら担当責任者、マネージャーは、速やかに関係者を集め正式にスタートをして簡単な指示を出し、命令系統を有効な状態にセットせよというのが常識。

主審は、集合、整列の号令を出し、選手が整列したところで、試合開始宣言、守備側は、所定の守備位置につく。
主審は、守備側が全員守備位置につき、打者がバッターボックスに入ったのを確認した上でプレーボール(最初の指示)のコールをする。
主審がプレボールのコールをした時から正式に試合は始まる。
仕事も野球と同じチームワーク。

「一回が終わった後で、結果を報告して、プレーボールのコールしてはいけませんか。」と言っているようなことなんだよ。
あるいは、試合開始直前に主審が、「なんで俺が、プレーボールのコールする必要があるの。」とか。
プレーボールのコールは面白くないからストライク、アウト、ゲームセットとコールしたいと言っているようなもの。
だから言っている意味がわからない。
とにかくプレーボールのコールしないと試合は、始まらないと言っているだけ。

もう、試合が始まっちゃったんですから、仕方ないじゃないですかとか。
面倒くさいとか。
試合が終わってからとか。
適当でいいじゃあないですかというわけにはいかないの。

半日仕事の野球だって正式なスタートを切らないと始まらない。
仕事は、最低でも三か月、ふつう半年、一年、二年、何年もかかる事業があり。
その間、共同作業、チームワークを続けなければならない。
だとしたら、正式にスタートを切らなければ取り留めなくなり、収拾のしようがなくなる。
統制もとれない。

組織は、システムであり、正式にスタート切らなければ動かない。
いつまでたっても、いつまでたっても動かない、動かないというけど、正式にスタートさせたかって言ってるでしょ。

支店長が支店に赴任したら、先ず、店員全員の前に立って所信表明をする。
裏口からこそっと入ってやった事にしようなんてことはできない。
店員から、あの人、誰なんて、ささやかれるようでは、支店長は務まらないの。
支店長に着任したことを少なくとも全店員に認知させ。
正式に仕事をスタートさせないと支店長は店を仕切れない。

自動車だってエンジンかけないと動かない。
いくらタイヤ蹴っ飛ばしても、ボンネットてたたいても、アクセル踏んでも、エンジンをかけなければ車は動かないの。
パソコンもスイッチを入れなければ動かない。
怒鳴ったり、わめいたりしてもパソコンは動かない。

同じ場所をくるくる回ってる時は、惰性でも動くけどコロナ後は前例が効かない。
はじめからやり直す必要があるから、正式にスタートし直さなければならない。
再スタート切らないと仕事にならない。

正式スタートを切るためには、始動操作がある。
それを覚えないと組織は起動しない。

宣戦布告なしに攻撃をしたら卑劣なの。
今は宣戦布告なき戦が増え、それが、国際関係を複雑にしている。

オリンピックの件で若いコメンテーターが、なぜ、今、オリンピックを日本で開催する必要があるのか。
開催するにしても、無観客でやるのか、どれくらいの規模になるのかを明らかにしてから、医療従事者に協力を要請するのが礼節でしょう。
それでなくとも、医療従事者は、手一杯なんだからと。
もっともなことだよ。

オリンピックを日本でやるかどうか、日本人が決められないなんて馬鹿な話あるか。
オリンピックを日本でやるかやらないかを決めるのは、日本の国家元首。
営業の事は、営業の部門長が責任をもって仕切る。
それが人として当然の義務。

組織が悪いと決めつけたら、社会は成り立たない。
組織を悪いなんて教育する国なんてない。
独立国ならね。
国家の主権を守っているのは組織だから。
組織が悪いと教育しているには、主権を持たない国。
植民地だけだ。