植民地教育。

自分があって、自主性とか、主体性とか、意志を問うことができる。
自分のない者に、自主性だの、主体性だの、自分の意志や考え、常識や道徳を求めるのは野暮。
自分で自分を守れない者は、他人の言いなりに従うか、隷属するかしかない。

独立不羈。

確固不抜の志があってこそ自由は守れる。
国家も、しかり、国家、国民への忠誠があって国家の独立と主権が守れる。

自分たちの国は、自分たちで守る。
その志、覚悟があるから、国家の主権も独立も語れる。

敵が、攻めてきたら、家族も、仲間も、投げ出して逃げると、公言している焼け跡派と称する小説家や評論家がいるが。
彼らに、政治や、国を語る資格はない。

自分というものをまず確立させる。
子供が成人に達するまでは、親の責任である。
世間に出て困らないように、躾けをする。

自分が確立できたら、自分の責任で親に反発し、世の不正を糺すもよかろう。
それは自分があって、自分が責任をとる覚悟があってだ。
自分の頭の蠅も追えない者が生意気を言うなというのが、かつての常識。

今の日本の教育は、その意味では植民地教育である。

自分たちの力で何一つ決められなくなり。
自分たちの力で国を治める事もできず。
自分たちの力で自分の国を守れず。
自分たちの力で自国の不正を糺せなくなったら。
頭を下げて、他国に主権と独立を捧げるしかなくなる。

それこそが、奴隷根性、植民地根性である。
日本の自由は、家畜の自由にすぎない。
自由は、自分の手で勝ち取るものだ。

義も、道も、徳も、誇りも、恩も、自分で守る。
無責任だからと言っても、責任は、とらされる。
卑怯なのは、自分の責任を自覚させない事だ。

国民が守らねばならないのは、命がけでこの国を守ろうとしている人たちの尊厳だ。
この国を命がけで、守ろうとしている人達は、間違いなく英雄である。
これは、動かしがたい事実である。
軍人に自制を求めるなら、彼らの名誉、自尊心を国民は守らなければならない。

軍人を抑えたければ、正々堂々と対峙できるようにすべきなのだ。
軍人が命がけなら言論人も命がけなのである。
檻の中の虎をからかっても、勇気があるとは言えない。
それで言論の自由もないだろう。
自由というなら命をかける覚悟が必要だ。

国民を命がけで守ろうとしている者を誹謗中傷するのは、情けない仕打ちである。
国を守るのは、国民の義務だ。
自衛隊員だけの責務ではないはずだ。
根源的義務を忘れて無責任な言動をとる者は、国民として自立していない証拠である。

愛国心は、情であり、思想ではない。理屈ではない。
子供が、親を慕うような、親が、子供を慈しむような、
夫が妻を労るような、妻が夫を愛おしむような、自然の情だ。
だから、愛国心のない奴は、変革を口にするなと俺は言う。
愛国心は、国民の国家への思いである。
愛国心は、国家に対する国民の思いによって形成される。
だから、民主主義の源は、愛国心である。戦後の日本人は、この点を理解していない。

孟子は言う。
自(みずか)ら反(かえり)みて縮(なお)からずば、褐寛博(かつかんぱく)と雖も吾惴(おそれ)れざらんや。
自(みずか)ら反(かえり)みて縮(なお)ければ、千万人と雖も吾往かん。

顧みて、自分に非があれば、どんなに賤しい(いやしい)、とるに足らない人間でも恐懼(きょうく)するが。
顧みて自分が正しいという確信があれば、この世の中全てを敵にまわしたとしても、一人になっても、吾は行かん。

これを、浩然の気という。

福沢諭吉は、戊辰戦争の折、塾生に浩然の気を養えと諭したという。

多くの剣道場は、養浩館と名付ける。

今、日本人は、浩然の気を養うべき時だ。