はじめてのお使い。

「はじめてのお使い」という番組がある。
四、五歳になったら、「はじめてのお使い」を子供にさせる。
子供を一人でお使いに出すという番組である。
番組では、スタッフが子供の後をついていく。
しかし、実際の「はじめてのお使い」は、子供を一人で行かせる。
それが親である。
親は、子が一人前になった処に立ち会えない。

子の旅立ちの時、親は涙を見せるな。
子の決心が鈍る。そう言われた。
どんなに遠くへ旅立つ時でも隣の家に行くような気持ちで出せと…。
「はじめてのお使い」で、多くの母親は、いつもの通り、なんでもないように子供を送り出す。
それでも、多くの母親は、子供が帰ってくるまで玄関で佇んで待っている。

息子をカナダに留学させるとき、自分も隣町へでも行かせる気で出した。
ただ、今生の別れぐらいの覚悟はしていた。
親とはそういうもの。
妻は、頭ではわかっていたが、心がついていけないと独りになると泣いていた。

子が独り立ちした時、親は見てやれない。
それが宿命。
嫁ぎ先に、のこのこついていく親があるかと、昔は笑われた。
辛くなったら帰っておいでと、今は、娘を送り出す。
死ぬまで子を自分の下に置きたがる親が増えてきた。

義理の父方の祖母は、秋田から長崎まで嫁いできた。
秋田を出て、長崎に着くまで三日三晩かかったという。
母も、静岡から東京の下町に嫁いできた。
義理の祖母ほどではないが、それでも、実家に帰るのは、一日かがりである。
義理の祖母や母の時代、簡単に帰れる距離ではない。
しかも、当時は電話すらなかったのである。

嫁ぐ時、男は捨てる物がないが、女は、沢山の物を捨ててくる。
それを忘れるな。
だから、男は我慢する。
嫁を守るのは、亭主の務めと諭された。

一度、敷居を跨いだら、戻る事は許されない。
どこまでも後を追いたい、ついていきたいけれど、それは叶わぬ事。
その先は、未練。
昔は、携帯などという便利な物はなかったから、外へ出たら確認の仕様がない。
一歩外へ出る前に、全ての準備、確認をしておかないと仕事を仕上げる事は出来なかった。
自分も婚約中に羽田で待ち合わせ場所を間違って半日探し回った事がある。
放たれた矢は、取り戻せないのである。

息子が乗っている飛行機の影を妻はずっと追っていた。
無事を祈るのは親心。
たとえ安全だと解っていても、これほど、心が痛むのに、戦地に子供を送り出す親の心はどれほどだっただろう。
撃ち落とそうと待ち構えている所へ、小さなプロペラ飛行機で飛んで行くのだ。
最後は、爆弾を抱えて逝く。
だから、戦争は厭だ。
戦争は厭だと言っても攻めてくる敵とは戦わなければならない。
男には、戦わなれければならない時がある。
逃げてはいけない時がある。
反戦、反戦と騒いでいるだけでは戦争はなくならない。
意気地のない事だ。
来たらずを頼まず。
大事なのは、戦争にならないように身構え、備える事だ。
戦争にならないようにするためには、それなりの覚悟がいる。

子供をいつまでも自分の傍に置いておきたいと思うのは、親のエゴである。
親のエゴで外にも出られない子が増えている。

親父は、いつも、一人で行って来いと送り出していた。
親は、プラットホームの影で子供を送り出すのが決まり。
昔は、親は、汽車の出るところに居てはならないと言われたものだ。

その覚悟がなければ親にはなれない。

背広を着て目の前に佇む息子を見て、つい目が潤んで、目を逸らす。
それも親心。
早くいけと言いながら、子供の後姿を追うのも親心。
後ろを振り返らずに歩いていくのは子の決心。