又、八月十五日が来た。
八月十五日が近づくと例によって例のごとく、テレビは、戦争特集一点張りになる。
ただ、いつも、どこか違和感がある。
単に、戦争の悲惨さや、戦争反対を訴えれば、いいという様な番組ばかり。
日本人は、権力者の言いなりになっていたわけでも、マスコミも反戦を叫んでいたわけではない。
むしろ、戦前、マスコミは、戦争を煽っていた。
当時の国民は、愚かだったわけでもなく、一部の軍部が暴走したわけでもない。
二十代前半の若者が爆弾を抱えて敵艦に突っ込んでいた時代、国の事など一顧だにしようとしない今の若者達の時代。
この時代間の落差がどこから来ているのか。
何が、戦前の日本人をそこまで駆り立てたのか。
また、何故、中国や朝鮮に根強い反日感情があるのか。
そこを明らかにしようとしない限り、本当の、反省にはならない。
ただ、戦争の悲惨さや反戦を叫んでいるだけでは、戦争はなくならない。

アメリカの従軍記者が、日本軍の徹底的な抵抗にあって、二度とジャップが歯向かえないようにしてやると言っていたのが象徴している。

日本人は、わかっていない。
戦争で犠牲のなった人数は、交戦国より戦場となった国の方が多かったという事実を、その点を理解しないと、非武装が何を意味するのか理解できないし、周辺国の反日の感情も理解できない。
中国や韓国は日本に戦争で勝ったわけではないという事。
自分たちの力で自分の国の独立を守れなかったという点、その二点を忘れてはならない。

第二次世界大戦の国別の犠牲者の数。
日本は、軍人、212万人、民間人50万人から100万人、合計、262万人から312万人。
ドイツは、軍人、430万人から550万人、民間人150万人から350万人、合計700万人から900万人。
イタリアは、軍人(アフリカ人徴集 1万人も含む)30万人、民間人15万人、合計45万人。
フランスは、軍人(帝国植民地も含む)、20万人、民間人35万人、合計55万人。
イギリスは、軍人(植民地も含む)38万人、民間人7万人、合計45万人。
アメリカ合衆国は、軍人42万人 (商船員 (9,500)及び沿岸警備隊 (1,900)も含む)、民間人1,700、合計42万人。

中華民国 重慶国民政府は、軍人が300万人から400万人、民間人が700万人から1600万人、合計で1000万から2000万人。
ソビエト連邦は、軍人870万人から1385万人民間人1300万人から1800万人、合計2180万人から2800万人。

オランダ領東インドは、民間人300万人から400万人。
フランス領インドシナは、民間人100万人から150万人。
英領インドは、軍人9万人、民間人150万人から250万人 合計158万人から259万人
日本統治時代の朝鮮、民間人、2万人。
フィリピンは、軍人6万人、民間人50万人から100万人、合計56万人から106万人。

ラトビアは、民間人23万人、合計23万人。
リトアニアは、民間人35万人、合計35万人。

民間人だけ、或いは、軍人の人数が少ないのは、植民地だから、つまり、自国の軍がないか、宗主国の駐留軍。つまり植民地。民間人を守る軍はいない。

ポーランドは、軍人24万人、民間人538万人から558万人、合計、562万人から582万人。
オランダは、軍人2万人、民間人28万人、合計30万人。

スイスは、民間人、100人。
スイスは百人ですよ。

総力戦とは、こういう事。
軍人だけでなく、民間人の多くが犠牲になっている国もある。
また、オランダ領東インドは、全人口の4.7%から5.8%、フランス領インドシナは、全人口の4.6%から6.7 %と全人口に占める犠牲者の数が他の地域に比べて高い。
総力戦とは、軍人、民間人、関係なく無差別に殺戮する。
非武装中立なんて幻想にすぎない。

中国は、単純に日中戦争が原因といのではなく、複雑に、勢力が絡み合い、内戦状態だったという事を忘れてはならない。

※基礎データはコモンウェルス戦争墓地委員会による(Wikipedia)

朝鮮戦争の国別犠牲者の数。
韓国は、軍人、98万7000人、民間人、143 万人。
北朝鮮は、軍人、92万6000人、民間人200 万人。
当時の人口、3500万人のうち6人に1人が犠牲になった。
国連軍は、約15万人、内、14万人が米軍。
中国は、軍人18万3000人、民間人、72万人。

ハノイの当局の公式統計によると、ベトナム戦争中に戦闘や、事故などのその他要因で死亡した米国人の数は5万8220人とされる。
ベトナム戦争では、北ベトナム兵と南ベトナム解放民族戦線、通称ベトコン(Viet Cong)のゲリラ合わせて120万人が死亡。
民間人200万~300万人が死亡したとされる。

アメリカの犠牲者が相対的に少ないのは、本土が戦場になっていないから。

何が言いたいのかというと、国を守るのは国民の権利だという事で、国が一つにまとまっていないと、外国勢力に付け込む隙を作る。その結果、犠牲になるのは、民間人だという事である。
植民地の様な国は民間人の犠牲が多いという事。
要は、自分たちで自分たちの国を守ろうとせず、自国が戦場となった国は悲惨だという事である。
どこかの政治屋が、ウクライナにロシアが侵攻してきた時、さっさと白旗を上げろと言っていたが、馬鹿げている。

戦争は、観念ではなく。現実であり、相手がいるという事である。
この常識も日本人には通用しない。

誰も守ろうとしない国は、守り切れない。

暴力団やギャングに、僕は、暴力反対だから、丸腰だからといえば、相手が納得して、手を出さないと本気で信じている人がいたら。
その人をまともな人間と思うか、思わないかの問題で。

現実と空想の区別がつかなくなったら、まともではない。

自分は非暴力だから、争いは嫌いだからというのは、家族や同胞を守らないという言い訳に過ぎない。

オッペンハイマーの伝記映画がヒットしているのを見てもわかる様に、日本人が考えているほど甘くない。国際社会は冷徹な論理が働いている。
日本人が考えているより、ずっと国際社会は、日本に冷淡である。

日本に好意的な国ばかりではない。
むしろ、どの国も国益で動いている。それが、当たり前。
国益は、悪いなんて言ってるのは日本だけ。
むしろ、日本を深く恨んでいる国もあるので。
そういうことを、冷静に分析しないと、平和なんて維持できない。
散々、暴れた人間が。俺は改心して、もう喧嘩はしないと宣言しても、それを信じるかしないかは相手がいる事であるから。
ロシアが急に戦争止めたと宣言して、信じてよと言っても簡単に信じますか。
将来、自国にとって脅威となる勢力は、小さな芽のうちの摘んでしまう。
アメリカだって、中国だって、ロシアだって、EUだって、戦前の日本だって。
戦後の日本が特別なので、異常なので。
国際社会とはそういうものだ。

アメリカ人は、何の抵抗もせず、戦いもせずに降伏する敵を軽蔑する事はあっても、尊敬はしない。
大体、最初から、人間扱いしない。彼らは、奴隷制度をかつてはあたりまだとしていたのだ。
日本人は、自分の都合でしか、世の中を見る事ができない。
しかし、世界は、日本の都合なんて関係ない論理で動いている。
相手の都合が理解できなければ、誰からも相手にされない。
ロシアだって、自国の都合でウクライナに侵攻したのだ。

好戦的な君主や指導者ばかりではない。
むしろ、指導者は、戦争を好まない。
国民の熱狂に抗しきれずに戦う者も多い。

かつては、戦争の有力な口実の一つは、報復である。

現実を直視し、冷静な分析ができなければ、戦争も避けられないし、平和も守られない。
反戦、反戦と叫んでいれば、戦争が防げる、平和も国も守れるというのは、余りに浮世離れしている。
雨ごいやお祓いで、雨を降らしたり疫病を防げるというのと何ら変わりない。
それを、本当に信じているというのなら、オカルト的だし、宗教的な次元である。
期待や願望では惨禍は防げない。

日本を取り囲む世界には、日本に悪意を持った国が少なからず存在する。
日本は、友好国だっと思っていてでもである。
国家間に友情の様な関係は成り立たないのである。

相手国の動静をよく見極める必要があるのである。

今、日本人魂を売り物にした人がいたとしても、それは商売上の事でしかない。
日本人の誇りの持っているわけではない。
憂国と言っても愛国と言っても、通じはしない。
本当にこの国は終わってしまったのかもしれない。

例え、間違いを認識しても、意識して正さなければなにも変わらない。

戦前の日本人は、何かに突き動かされるようにして戦争にのめり込んでいった。
戦後は、つきものが落ちたように、反軍思想の取り付かれている。

戦前は軍は聖域とし、戦後は、禁忌となった。
結果として立ち入る事が許されない領域に変わりはない。

今の大多数の日本人は、世界の出来事を対岸の火事と、見物を決め込み。
或いは正義感を見せつける様に話すけれど。
所詮は、他人事でしかなく。
足下に火の手が迫っているのにも気がつかない。
否、気がついたとしても、見てみぬふりをして。
どうせ、こちらまで火の手は回らないと。
対岸の火事をいい事にして、中には、物見遊山、どんちゃん騒ぎ。
しかし、そんなに悠長な事を言ってられるのか。
今は世界の経済は、一蓮托生。
アメリカの様に、総ての資源を自前で賄える国はいい。
日本は狭い島国、何一つ、自前では賄えない。対岸の火事も、あっという間に自分の周辺まで燃え広がる。
それなのに、例え、自分の家に火の手が上がっても、誰かが消し止めてくれると、他人頼り。
日本人は、国防も、納税も、教育も、義務だと思ってい権利だと思っていない。
国防も納税も国民の権利である。
それは、国民国家の成立要件の一つである。

戦争が終わってから、七十年もたつと戦争を経験した者もいなくなり、記憶そのものも風化してしまう。
戦争なんて愚か者がすることと片付けてしまったら、先の大戦で逝った人の魂も浮かばれまい。
戦争なんて関係ないではなくて、真実を知る事だ。
当時は、反戦を口にすることさえ命がけだった。
外野席、安全なところからだったら、なんだって言える。
檻に入った虎をからかったところで勇気ある行動とは言えない。

国民国家は、国民が主体となって建国する国家。
国家が成り立つために必要な事は、権利であり。
権利だからこそ義務でもある。
国を護る事は権利である。
なぜなら、自分たちの力で国を護れなければ、独立を維持する事が出来ないからである。

自分達の国は、自分達たちで護ろうとしない限り、今、世界で何が起こっているか、その真実を知る事はできない。
柵や、檻の中にいたのでは、自然界の掟はわからない。
野生では生きていけない。
籠の中の鳥は、籠の中の鳥なのである。

日本の民主主義も自由も与えられたものなのですよ。
だから、民主主義や自由主義と、無抵抗主義、非暴力主義、人道主義をごちゃまぜにし見分けがつかない。
民主主義だって、自由主義だって革命によって勝ち取ったのですよ。
フランス革命だって、アメリカ独立戦争だって、南北戦争だって。
その証拠に、アメリカ国家だって、フランス国歌だって、ウクライナ国歌だって、ポーランド国歌だって。革命歌であり、血生臭い。
自由かしからずんば、死かですよ。

自分で考えない事、考えようとしない事、考えられない事、それが一番、危険なこと。
自分の事を、自分で、決められなくなった時、自分一人では、生きられなくなり。
他者に隷属せざるをえなくなる。

見て見ぬふりをすること。
はぐらかす事、ごまかす事、逃げ出す事、投げ出す事を覚えるな。覚えさせるな。
はぐらかす事、ごまかす事、逃げ出す事を覚えたら、結局、自分を守れなくなる。
危険がせまったら、小鳥だって仲間に危険を知らせる。
自分一人で逃げたりはしない。
責任をもって最後までやり切る事を覚えなければ、社会人にはなれない。

仲間を守るのは自分を守る事でもある。