苦といえば四苦八苦。しかし、それ以外にも苦はある。

知らない、わならない、できないも悩み。
それが高じると劣等感になる。

口が裂けても、知らない、わからないと言えない。

劣等感は苦である。

だから、人前で、見栄を張り、虚勢を張る。
その見栄や虚勢を張る事で誤解を招き、嘘となる。
虚は虚。隠し事を生む。
隠し事は苦である。

この様に、この世の中は、思い通りにならない事ばかりだ。
思い通りにならない事が苦だとしたら。
この世の中は、苦ばかりだ。
中でも、自分の肉体は最たるもの、何一つ思い通りならない。
しかも、肉体こそ、欲の発生源。
肉体が、物質的存在の大本なら魂は、精神的存在の根源。

肉体苦痛は、苦を体現する。苦は、肉体を痛めつける。
何が苦といって、肉体的苦痛程の苦はない。
肉体的苦痛は、苦を体現していると言っていい。

ハッキリ言て、肉田的苦痛以上の苦はない。
肉体的苦痛は、耐えられない。
肉体こそ苦の温床である。

しかし、肉体があるから人は生きられる。

人は、意図せず、罪を犯す事がある。
罪とは、自分の信条に背く行為である。自分を許すことができなくなる。
一神教徒にとっては、罪は、神に対する背信である。
故に、罪は、心に深く突き刺さる苦である。
罪から逃れるためには、罪を認め、悔い、改めて、自分を許す以外にない。

罪悪感というのは、終生、苦しめる。
ユダヤ教も、キリスト教も、イスラム教も、原罪意識がある。
彼等は生涯をかけて贖罪に努める。
それが、一神教徒の布教の活力となる

原罪は、アダムが神の教えに背いて禁断の実を食べた事で。
禁断の実を食べた事で、知恵と分別した事に由来すつ。
人が、知恵と分別をつけたんが罪だとする。

言い換えれば、知恵と分別をつけた事と引き換えに、苦が始まるのである。

神は自分の命令に背いたアダムと女に対して、何を行ったのかを問いかけた。
アダムは神に創られた女が勧めたからとして神と女に責任転嫁をし。
女は蛇に騙されたと責任転嫁をした。
ここでの神がした問いかけは単なる質問ではない(神は全知全能なので知らないことはない)。
人に問いかけることで、罪の自覚を促し、悔い改めの機会を与えるものであった。
しかしアダムも女も、責任転嫁に終始してこれに応えなかった。
要は、原罪は、言い訳ばかり、責任転嫁するばかりで、自分の罪を認めようとせず、悔い改めなかったことによる。
これは、人間の罪だ。

悩みは、苦の種でもある。
悩みにも、色々あり。
ことの大小もある。
その色々な悩みが、混在している。
例えば、国策をどうするかも悩みだが、今日の夕飯をどうするかも悩むところ。
それが、一時に混在している。

確かに、世の中は、思い通りにはいかないものだ。
何でもかんでも自分の想い通りになる人の方が少ない。
大体、生まれた時から自分の思い通りにならないもので。
自分の親など選べないし、美人に生まれたくとも、才能だって、自分で選べるわけではない。
自分が好きになったからと言って相手も好きになってくれるわけではなく。
では、誰も、好きにならなければいいのか。
それだって、自分の思い通りではない。
思い通りにならないからといって、何もしなければ、思い通りになるか、ならない以前の話。

ただただ、無明の闇の中で足搔くしかなくなる。

苦しい時、逆境の時、品位や本性が現れる。
相手が汚いことをしたから、自分も汚いことをするようでは、お里が知れる。
苦しい時、逆境の時ほど、その人、本来の実力や人間性が問われるのである。
苦しからこそ、逆境にある時こそ、原点に立ち返り、守るべき原理原則を取り戻す必要がある。

世が乱れ、正法が失われ、秩序が乱れた時こそ、何か、正しくて、何を信じればいいかを教え導く者が求められる。

社会が混乱し、皆が寄る辺ない時こそ、真の指導者の出現が求められるからで。
相手が悪をなしたのだから、自分も何もしていいなんて言う輩は、自分をも貶めるだけ。

道義が失われたのだから、自分も道義をなくしてもいい。
善悪が判らなければ悪を為すという者こそ、この世を地獄と化し、破滅へと導くのである。

東日本大震災の時、淡路大震災の時、他国なら、暴動や略奪が起こった時、日本人は規律正しく、助け合って、救援を待った。
その日本人の、秩序正しさ、規律正しさに、世界が驚嘆した。
日本人は、どんな時にも、秩序を重んじる行動をとる事を当たり前としている。
それは、権力に忠実というのではなく、人間としての道理、筋目と考えるからで。

負けた時こそ、世の中が乱れた時ほど、威風堂々、正々堂々とあれと。
なぜなら、自分意負い目がある時ほど、自分の姿勢がみられるから。
苦しい時に、自分を見失ったり、姿勢を崩したら、それだけで、人間性が観られる。
毅然と自分を貫くのが難しいからこそ、自分を通すしかない。

それは、敗戦の時ほど、見られる。
太平洋戦争の時にも問われた。

負け犬は負け犬としてしか扱われない。
しかし、負け犬になるか、ならないかは、自分の心次第。
負け犬根性が滲みついたら救われない。

毅然と姿勢を正し、前を見るしかない。

多くの、無辜の民が、国と運命を共にしようと死んでいった。
戦後、それは、戦前の教育の性とした。愚民教育の性だと。
しかし、教育だけで、そこまで、ストイックになれるだろうか。
愚民教育というのなら、戦後の教育も同じ。

太平洋戦争の際は、国民、女子供まで覚悟の上だった。
覚悟が違ったのである。

特攻隊員も、銃で脅迫されて、特攻したわけではなく、あくまでも、自ら志願した。
その多くの若者は、戦争に疑問を持つ者もいたし、学徒出陣の大学生、つまりは、当時のエリートだった。なんの考えもなしに従ったと言えるだろうか。

なぜ、そこまで日本人は。思い詰め。思い込んだのだろう。
戦前の日本人は、身の程知らず、馬鹿だった、騙されたと片付けるのは簡単だが。
相簡単に片付けるには、余りに、犠牲が大きすぎる。
このまま、愚かだったとの一言で片付けられたら、先の大戦で犠牲になった人々の魂は浮かばれない。

戦争の犠牲者を犬死呼ばわりする事は、生き延びた者が、国に殉じた者を卑しめるのにすぎない。

日本がこれから苦境に堕ちるのは必定。
第二の敗戦ともいえる状況になりかねない。
苦しいのは、日本人としてのアイデンティティを失ってしまった事だ。
太平洋戦争終戦直後は、戦争に敗けても日本人の魂まで失ったわけではない。
だから、奇蹟の復興を成し遂げられた。
しかし、今は違う。

憂国、愛国といったところで嘲笑われるだけだ。
真剣の国の事を憂うる人はいない。
このまま、苦境、逆境に陥ったら、汚く、だらしなくなるのが見えている。
媚び諂う者が横行する。

日本は、これから、国家存亡の危機に遭遇する兆しがある。
あらゆる指標は、悪い方向を示している。

多くの国民は、目先の安逸を求め、何の手立ても講じようとしていない。
多くの政治家はなす術もなく、また、何の手立ても国民に示そうともしない。

自宅の神棚に向かった称える祝詞ね。
簡単だけと、手短にね、物事の本質ついている。
日本人の心ね。

世のため人のために尽さしめ給へと(よのためひとのためにつくさしめたまえと)

直き正しき 真心もちて(なおきただしき まごころもちて)
誠の道に違ふことなく(まことのみちにたがうことなく)
負ひ持つ業に励ましめ給ひ(おいもつわざにはげましめたまい)

これだけでねいいんだよ。確かにね。
神道とかに囚われる事ではなくて。
難しく考える事ないんだよ。
ちゃんと、世の為、人の為って。
そう思えば、少しは楽になるだろう。

親父たちは、だから、「世の為、人の為」といってたんだね。

祝詞の言葉は、単純明快だから、含蓄がある。

それこそ今の知識人、特に、左翼は空疎の言葉を並べるだけで。

昨今の、政治家の争いを見ても、リーダーとしての心構え、覚悟が見えない。
国益という言葉が禁句であるかのごとく。
だから、次の日本のリーダーが現れない。親分がいない。
今の日本人は、品もないし、本性もない。

否、品位も、本性も失いつつある。
日本が日本でなくなっていく。

知れば苦となる。
知らなければ闇、無明。
例え、間違いを認識しても、意識して正さなければなにも変わらない。

知らなければよっかたと、目を塞いだら、真っ暗闇になるだけ。
それだって、自分の思いどうりにならない事に変わりはない。

人生は、なかなか、自分の思い通りにはいかないもので。
苦とは、自分の思い通りのならない事だとすれば、人生は苦に満ちていると言える。
一切皆苦といえる。

しかし、思い通りにならなからと言って苦し事ばかりではないはずである。
嗚呼。生きていてよかったと思うことだってあるはずだ。
人生って、まんざらでもないと。

祖母は、この世は、苦娑婆だよ、苦娑婆だよと言うのが口癖だった。
祖母は、学校に上がる前に子守に出され、字の読めない人だった。
でも、私たちの記憶にある祖母は、いつも穏やかで、ニコニコしていて、決して他人の悪口を言わない。
人前で涙を見せない人だった。
父が、兵隊から帰ってきた時、ジッと、俺の足を見ていたと、父がよく言っていた。
面会の時、金平糖(くんしょう)はいらないから、達者で帰って来いと、そっと耳打ちしたそうだ。
戦時中は、近くの神社でお百度を踏んでいったとも。
父は、俺の腕の中で両親をみとったと言うのが自慢だったが。
祖母が臨終の際、長かったかいと聞いたら、あっという間だったよと応えたそうだ。

思い通りにならないと思えば苦になる。
思い通りにならないと悟れば苦にならない。
本質は、空である。

楽しくて、愉快で、幸せなひとときもある。
一つの事をやるぬいた時の達成感、充実感。

辛く、苦しく、怖い事、嫌な事を記憶するが、楽しい記憶は薄れがちである。
辛く、苦しく、怖い、嫌な事は苦だが、愉快で楽しく、明るい思い出は忘れがちです。
でも、思い出してみろ。楽しくて、愉快な事、うれしかった事だってたくさんあるはずだ。

自分の思い通りのならないと、総てを投げ出したり、やけを起こしたって、何も解決しやしない。
できないから、思い通りにならないから、それがどうしたと言うのか。
それでも生きていかなければならないのだし。

一切皆苦と、総てを諦め、何もしなければ、苦から逃れられるか。
どうせ俺は駄目な人間と、投げ出してしまえば、そりゃあ、楽だよ。
でもそれで終わりさ。救いようがなくなる。
それで世を拗ねて、自分の世界に閉籠ったら生きていく事も儘ならない。
かといって、自分が何もしなければ、誰も助けてはくれない。
親だって助けられない。
無明の闇に沈むしかない。
それも苦には違いない。

だとしたら、現実をあるがままに受け入れ。
思う通りにならない事を、思い通りになる様に努めるしかないさ。

人には、それぞれ、役割と働きと関係がある。
それが定まる時、人は安心立命を得られる。
その本然は、空である。
人それぞれ、その時そのときに自らの意志で自覚するしかない。

生きるとは、自分の力で生きることで。
故に、自分の人生の大本は、空なのである。

家の神様に唱える「神棚祝詞」

此の神床に坐す 掛けまくも畏き(これのかむどこにます かけまくもかしこき)
天照大御神 産土大神等の大前を 拝み奉りて(あまてらすおおみかみ うぶすなのおおかみたちのおおまえを おろがみまつりて)
恐み恐みも白さく(かしこみかしこみももうさく)
大神等の広き厚き御恵を 辱み奉り(おおかみたちのひろきあつきみめぐみを かたじけなみまつり)
高き尊き神教のまにまに(たかきとうときみおしえのまにまに)
直き正しき 真心もちて(なおきただしき まごころもちて)
誠の道に違ふことなく(まことのみちにたがうことなく)
負ひ持つ業に励ましめ給ひ(おいもつわざにはげましめたまい)
家門高く 身健に(いえかどたかく みすこやかに)
世のため人のために尽さしめ給へと(よのためひとのためにつくさしめたまえと)
恐み恐みも白す(かしこみかしこみももうす)

ドストエフスキーの名言

ただ生きているだけでなく、何かの為に生きているからこそ、人間の存在は神秘なのだ。

苦痛こそ生活なのだ。苦痛がなければいったい人生にどんな快楽があろう

卑劣漢としては人間は生きてゆけないばかりでなく、死ぬこともできないのです

今さら日数なんて数えて何になりますか。人間が幸福を知り尽くすには一日あれば十分ですよ。

人間というものは不幸の方だけを並べ立てて幸福の方は数えようとしないものなんだ。

コロンブスが幸福であったのは彼がアメリカを発見した時ではなくそれを発見しつつあった時である。幸福とは生活の絶え間なき永遠の探求にあるのであって断じて発見にあるのではない。

幸福は幸福の中にあるのではなく、それを手に入れる過程の中だけにある。

いちばん簡単でいちばん明白な思想こそがいちばん理解しがたい思想である。

自分自身に嘘をつかないでください。自分に嘘をつくと周囲の真実も見分けることができなくなります。

自分を嘘であざむき、自分の嘘に耳を傾ける人は、ついには自分のなかの真実も周囲の真実も見定めることができなくなり、その結果、自分をも他人をも尊敬できなくなる。

人生で最も難しいことは、嘘をつかずに生きることである。そして自分自身の嘘を信じないことである。

囚人を逃亡させない最も良い方法は、監獄に入っていると気づかせないことだ。

人生は苦痛であり、人生は恐怖である。だから人間は不幸なのだ。だが、人間はいまでは人生を愛している。それは苦痛と恐怖を愛するからだ。

「私にはその行為に責任があるのだろうか?ないのだろうか?」という疑問が心に浮かんだなら、あなたに責任があるのです。

思想は感情のなかから生まれる。そしてその思想が人のうちに根をおろすと、今度は新しい感情を形成する。

希望を持たずに生きることは、死ぬことに等しい。

一般的に言って、苦しみと悩みは、偉大な自覚と深い心情の持ち主にとって、常に必然的なものである。

あらゆる堕落の中で、もっとも軽蔑すべきものは、他人の首にぶらさがることだ。