現実と向き合って、何を学び。
何を悟るかが大切なのですよ。
現実は厳しとか、冷たいと、嘆いたところで、呪ったところで、何も解決できないのです。
正直言って、僕が金を出すことが異常なのです。
世間の反応が普通なのです。
世の中とはそういうもの。
その世の中と向き合う事で、良寛だって、山頭火だって、芭蕉だって、子規だって詩を書き。
ドストエフスキーだって、トルストイだって、バルザックだって小説を書いた。
仏陀は、生病老死、諸行無常を悟ったのです。
己の生と死に向き合うしかない。
遅いか早いかにすぎず。
いずれは誰しにも訪れる事。
死のうは一定なのです。

金の問題ではないけど、金の問題ですよ。

夢といいましたが、所詮、夢のまた夢。
人生五十年ですね。

生きるのも、死ぬのも切ないし。
わが身に降りかからない限り、他人ごとなのです。

風俗に使う金はあっても、他人を救う金はないのが、普通なのです。

冷たい言い方かもしれませんが、死は必ず訪れるのですよ。
問題は、心の準備です。
いくら覚悟はできていると言ったて、いざ、その時になってみないと分かりません。
ハムレットでも、父王が、心の準備もできない内に、突然、その時が訪れと、嘆いてみせた。
自分の死と向き合った時、本当の自分の姿が現れるのだと。

怖いですし、どんなに、わかっているつもりでもね。
平静でいられるか。
それは、その時になってみないと。

それが人間ですよ。
見苦しいと言われても、あさましいと言わせても。
ドストエフスキーが、銃殺の直前に許されたと。

今こうしている時も、戦場で、生と死の間を彷徨っている人がいる。

死は、いずれは訪れるのです。
だからこそ、自分に正直になるしかない。

諸行無常
是生滅法
涅槃寂静
寂滅為楽といってもですね。

自分が生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされている時、人類の滅亡とか、国家の存亡が、どれほどの重きを持つか。現実に直面している時に、夢の話などといいますがね。現実と直面しているからこそ、夢の話が意味を持つのですよ。

だからこそですよ。
だからこそ。

この世の出来事にどれほどの意味があるのかと。

何を信じて、何を頼るのか。
まさにそれが問われているのです。
是生滅法

僕の話など、どれほどの意味がありますか。
どれほどの救いになりますか。
救いは、自分でしか見だせない。

正直、私は、あなたのいっている事が本当か嘘かもわからないのですよ。
あなたと面識もなく、見ず知らずの…。何のかかわりもない。
でも、そんな事、どうでもいいではないですか。
浮世は浮世ですよ。所詮、借り物。
愚か、愚か。
愚か者でいいじゃないですか。

ただ、僕はね。
心の安寧がどこにあるか。
信じられる物なんて、外に求めたところで。

どれほど、死にそうだと言ったところで、いつもと変わらないように日常は流れているのです。
儚(はかな)い事です。

何を言いても、どうあがいても。
現実には勝てません。
戦争を生き延びた人が、交通事故であっけなく亡くなったり。
寿命もあるし。
うちの父も、見舞いに来た人が先に逝ったと。
今日ピンピンしてた人が突然死したり。

余命宣告された人、事故で死んだ人ばかり同情される。
平凡に死んだ人は、見向きもされない。
でも死に変わりはないのですよ。

死を意識して生きるか、意識せずに生きるか。
ただそれだけの事。
いつ、お迎えが来るかは誰も知らないのです。

それなのに。
人間は弱いものです。

死の影に怯えて自殺したりもする。

幕末維新で、切腹した殿様は一人もいないと聞きます。
半面、多くの下級武士に若者が切腹して死んだと。

新選組とか、海援隊の近藤長次郎、会津の白虎隊、西郷一族の自決、堺事件での土佐藩士、武市半平太など。

また、忠臣蔵ですね。切腹に始まり、切腹で終わる。これは、外人にとって戦慄でしょうね。

何が日本人を死に駆り立てるか。美学ですかね。潔さ。よく桜に例えられる。

逆に言えば、死ぬ気になれば何でもできると。私に母はよく言います。父は、自殺の話を聞くと勇気あるな、怖くないのかなと。それが戦争で多くの死を見てきた人の実感なんでしょうね。
死は必然。
だから、慌てる事はない。定めは、定めとして、従容として受け入れるいい。
ただ、見苦しい振舞だけはするなと。

人の本性は煩悩なのだと思います。
それは、プーチンでも、習近平でも、それこそ、聖人といわれる人も。
自分は、泰然自若、従容として死をむかえたと言われる人でも。
実際のところは。
それで、日本人は切腹に美学を求めるのでしょうけれど。
山本周五郎の作品に、橋本佐内が、切腹の直前に泣いたと言う作品がありますが。
人は、足搔きますよ。
だから、自分の死を通して見た世界の方が透明感があるのかもしれません。

特攻隊の遺書が心をうつように。

自分の死を正面に見据えた時、自分の生も定まると言う事ですか。
多くの人は、自分の死に無自覚でいる。
それが、後何か月とか、戦争、災害で、いきなり、突き付けられ、周章狼狽する。
修養とは、自分の死を正面に据えて、瞑想する事のような気がします。
雑念を吹っ切って自分と向き合うとは、自分の生と死に向き合う事を意味する。
それがサムライ、大和魂の本質。
人は遅かれ早かれ、死ぬのです。
問題は、自分の死と対峙した時、自分の死を平静に受け入れられるかですね。

それで、私は、神の本性は死神だと思うのです。
死神は、不吉な神ではないですよ。
むしろ、自分の最期を看取ってくれる神。

先の戦争の英霊たちがあって今日の日本がある。
じゃあ、我々の死は、次に時代の日本の礎となれるか。
私は、日大の物理科に入学した時ですね。
物理学者の人生なんて三十台で終わると。
我々は、次の時代の物理学を担う学徒の為に、万骨化るる会を結成しているのだと。
担任に言われたのですね。
だからこそ祖先の祖廟が大切なんです。
御霊ですよ。

理系かどうか区分は、数学的であるかないかですけど。
本来、哲学は数学的なので、哲学こそ、理系の根源なんですけれど。
日本人は、日本人だけでなく、アジア人は、哲学の根源を数学に求めませんから。
どうしても、神秘主義の影響から逃れられない。
神学だって数学なんですよ。

経済学の本質も数学ですけれど、経済学のベースとなる数学と自然科学のベースの数学は基礎が違う。
その違いが正しく認識されていないから、未だに経済学はかが気に脱しきれない。
それが、人類の不幸ですね。

日本人は、経済学に数学はいらないと本気で考えている。
だから、お話にならない。

易経もですよ。
易経こそ、現代の二進法の世界ですから。

仏教は、般若心経ですね。

大方の死は、予告なしに訪れる。
戦場では、さっきまで談笑していた相手が、目の当たりで死んでいく。
病気であろうと、その時は、突然訪れるのです。
余命を宣告されて言おうと、それは、死は必定という現実を突きつけられたに過ぎない。
それで、生き方が変わるのは、それまで、現実から目を背けていたに過ぎない。
死は、生まれた時から、定められているのです。
聖人であろうと、英雄豪傑であろうと、大統領であろうと、帝王であろうと、強盗であろうと、殺人者であろうと、ペテン師であろうと、狂人であろうと、変態であろうと、変わりない。
だとしたら、死神は、いつでも傍らにいるに相違ない。
ならば、死神を恐れたところで詮方ない。
むしろ死神と仲良くして。
見つめあい、生と死について語らった方が、なんぼか楽しい。

所詮、過ぎ去れば一夜の夢です。
何を、恨み、何に怯え、何に憤り、何を信じるのか。
あるのは、透徹した時間の流れだけです。

行く川の流れは、久しくして。
流れ行く先は…。

また、楽し。

松陰は、百歳の天寿を全うした者にも。生まれてすぐに死んだ者にも、人の一生には四季があると断じました。
春が来て、夏が過ぎ、秋が来て、やがて、冬になる。
人生の四季を愛でる事ですよ。