忠誠とは、誠心誠意、裏表なく、心を一つにして尽くすという意味。
心を一つにするという為には、目標とする対象を一つにする必要がある。
それが国なり、会社なり、家族なり、人という事。
日本人は、忠誠というとなにか、隷属とか、盲従とか、服従みたいな事、軍国主義とか、独裁主義、全体主義に結びつけられ、短絡的に、右翼みたいに決めつけてしまう風潮がある。
なぜか。
日本以外の国では、アメリカでも、フランスでも、イギリスでも、それこそ、北朝鮮や、中国、ロシアなんて、日常的に、事あるごとに忠誠を誓わされる。

アメリカでは、幼稚園に入った時から始業前に「忠誠の誓い」を暗唱させられる。
この誓いをする時は、起立し、国旗に顔を向け、帽子を取り、右手を左胸に当てて、
「私は、アメリカ合衆国の国旗、並びに、国旗が象徴する共和国、全ての国民の自由と正義を備え、神の下に分割すべからざる唯一の国家である合衆国に忠誠を誓う。」
と暗唱する事が求められる。

I pledge allegiance to the Flag of the United States of America, and to the Republic for which it stands, one Nation under God, indivisible, with liberty and justice for all.

ところが、日本人だけは、忠誠心を悪い事と、学校でも教える。
それは、日本人が心を一つにして団結されると困る人達がいるからだ。
日本人に、心を一つにされたら困る人達が、忠誠という言葉を捻じ曲げて日本人に伝えている。
彼等が、日本人を洗脳していると思えばいい。
日本人が心を一つにすると困まる人達は誰か。
それを考えれば、誰が、故意に、忠誠という言葉を、日本人が嫌悪するように、刷り込んでいるのかが、わかるだろう。

忠誠の対極にあるのは、隷属と服従である。
つまり、忠誠は自由なる者に求められ、隷属と服従は、奴隷に求められる。
この世には、自由人と奴隷しかいない。
日本人の忠誠を否定する者は、日本を植民地にしたい者だ。
即ち、日本の独立を拒(こば)む者だ。

多くの式典の目的は、忠誠を誓う事にある。
だから、忠誠という言葉を嫌悪していたら式典の本当の目的が理解できない。
式典は、忠誠を誓うためにある。だから、宣誓する。
式典に宣誓はつきもの。
むしろ宣誓のない式典は意味がないというか、魂がこもらない。

結婚式では、結婚する相手、家族に対して、家族を幸せにするために、裏表なく、真心をもって誠を尽くす事を誓う。結婚相手と家族に忠誠を誓う式典。
入社式や入団式は、会社や仲間に対して、嘘偽りなく、会社をよくするために、誠心誠意、勤める事を誓う会。会社、仲間に忠誠を誓う会。
スポーツの開会式は、誠心誠意、勝敗に関わらず、相手を尊重し、汚い事をせず、潔く、正々堂々と勝負する事を誓う会。試合相手に忠誠を誓う会。
成人式は、社会人として社会のルールに従い、世のため、人のために尽くす事を誓う会。
社会へ忠誠を誓い、社会人としての忠誠を誓う式典。
新春の会は、お客様の為に、誠心誠意、働く事を誓う会。お客、取引先に忠誠を誓う会。
忠誠を誓わなければ、宣誓しなければ、式典そのものの意味が理解できない。
忠誠や忠誠心を否定したら、宣誓式から魂が抜かれる。

本当に愛する人がいないから、愛という言葉が虚しいだけ。
本当に忠誠を誓う相手がいないから、忠誠という言葉が空疎なのだ。

忠誠は、盲従とは違う。隷従とも違う。
相手をよくするために、真心をもって誠を尽くす事の意味。
相手が間違った道を進もうとしたら、それを忠(ただす)のも忠誠。
忠とは、心にあたる、心の中、つまり、真心という意味。
自分が、自分の意志で、尽くす事を意味する。
ただ、無条件に従う事を意味するのではない。
隷従、盲従には自分の心がない。誠がない。
だから、隷従、盲従は、忠誠とは対極にある言葉。

俺は、友が間違った道へ進もうとしたなら、友情をかけて、友をぶん殴る。
殴れば、友でなくなるかもしれない。
しかし、殴れなければ最初から友ではない。
それが、俺の友に対する忠誠心だ。

隷従、盲従、絶対的服従を意味するのではない。
間違いに気が付けば、死を賭して諫言するのも、忠誠心の現れである。
かつて、忠誠心の強い武士は、陰腹を切って諫言したとすら言う。
不正や不義は命懸けで忠(ただす)。
忠とはそういう事だ。

心を一つにするためには、皆の心を一つに向ける必要がある。
それが、国であり、会社であり、家族であり、人である。
国や、会社、家族、人は、人々の心を一つにする象徴である。
国民国家と君主国、独裁国とでは、忠誠の対象が違う。
一律には語れない。
戦前を盾にとって忠誠心を曲解させるのは、何らかの悪意が働いている。潜んでいる。
国民国家では、主は、国家国民である。
故に、国民国家においては、国家国民に対して真心をもって誠を尽くすという意味である。
献身的に尽くすという事である。
国民国家が忠誠を誓う相手は、国家、国民である。
特定の君主でも、独裁者でも、思想でも、宗教でもない。
憲法によって定められてた国民である。

方針確認会議は、方針を確認する事が目的なのではない。
会社の方針を確認し、それを、誠心誠意、実行する事を誓う。
つまり、忠誠を誓わなければ意味がない。
予算は、予算を皆で立てる事で、会社に忠誠を誓う事。
予算が赤字になるようだった、誠心誠意、黒字にするように社員が一丸となって取り組む。
それを誓う事。
つまり、予算は、忠誠心の現れ。
赤字予算なのに、平気で何もしないのは、忠誠に反する。
忠誠とはそういう事だ。

内心こんな目標できこないよと思いながら、皆の手前を装って表面だけの約束する事は忠誠ではない。こんなことしてたら、会社はよくならないと思いながら、黙って従う事は、忠誠ではない。
自分達で予算を作るのは数字合わせではない。
ただ、帳尻だけ合わせようとするのは忠誠ではない。
予算を皆でつくるのは、予算を立てる過程で、会社の実体を知り、どうしたら、会社をよくするかを考え、会社をよくするために行動を起こすため。
何もしなければ、忠誠ではない。
悪いと解っていながら、黙認し、あるいは、従う事を忠誠というのではない、
会社員は、会社のトップに忠誠を誓う。
これは誓いなんだ。
忠誠とは、自分に対する誓い。
だから、自分の心に対して誓うのだ。
トップの不正を忠(ただす)のも忠誠。
上に言われたからと言って渋々従う事、黙って従う事は忠誠ではない。
自分で考え、自分の意志で従う。
それが忠誠だ。心にもない事に、従うのは忠誠心ではない。
それは、隷従でしかない。
忠誠心とは、心だ。
心から従って初めて忠誠となる。
嘘偽り、裏表があれば忠誠ではない。

国民国家においては、その中心は民意にある。
民意を象徴するのが国旗であり、体現するのが首長である。
だから、国旗に対して忠誠を誓う。

忠誠を誓えないというのは、忠誠できないという意志である。
つまりは、誠を尽くせない。真心を持てない。
逆心、叛心を抱くという事である。
裏心がある。
素直に従えない。
嘘がある。
偽りがあるという事を示す。

その国、その会社、その家族の一員になることを拒むという事である。

日の丸は、日の丸だ。
日の丸の赤は、人民の血の色など、いかがわしい心を持つのは、
自分の心に、疚しいところがあるからだ。
国旗に何を誓うかは、自らの心の内にある。
国旗は、建国の精神を象徴する。国旗に籠められるのは、国家の意志である。
国民国家のわが国では、国旗に籠めるのは、国民の意志である。
国民の意志を象徴する国旗を、冒涜するのは、冒涜する者の心にあるいかがわしさである。

国民国家の国旗は、国民の意志を象徴する。
だから、アメリカ人も、カナダ人も、イギリス人も、ドイツ人も、フランス人も、オーストラリア人も、国旗に忠誠を誓うのだ。

気を籠めれば心となり。
心を籠めれば魂が生まれる。
魂がこもれば、命が宿り。
命が宿れば神となる。
ただ一心に誠を尽くせ。
そうすれば、生きる目標が見えてくるよ。