ずっと以前、法曹界の大御所と言われる弁護士と会食する機会があった。
その方は、独学で司法試験を合格した苦労人だ。
会食をしている最中、その方に、「事件は一回限りで、同じことは起こらないですからね」と言ったら。
「お前いい事言うな。」と
いきなり、手帳を出してメモした。
その時大御所は、九十を超えていた。
凄いな。かなわないと…。
九十過ぎても、俺みたいな、若造から学びとろうと。
九十過ぎててですよ。
あるコンサルタントが言っていたが、大企業のトップほど鄭重で、出口まで見送ってくれるけど、担当者ほど態度が悪いと。

世間では、経営者だの、リーダーは、尊大な存在であるように見なすけれど。
実際は、包容力が、受容力のある人が多い。

凄いという人ほど、学ぶということに貪欲だ。

それなのに、世の中には、私は、あなたから教わることはなにもないというオーラが出まくっている人が大勢いる。
学ぶ事をやめたら成長は止まる。
聞きたくない聞きたくないとありありと見える。
そうなると誰も教えてくれなくなる。
そのくせ、そういう人に限って誰も教えてくれない。
自分の話を聞いてくれないと文句を言う。

学ぶというのは、学ぶ事。

言っただけではわからないさ。
聞いただけではわからないさ。
親父が兵隊で満州にいた時、寒さを体感させるために。
水の中に手をつこませ、軽い凍傷にさせられたという。

やってみな、失敗するからということもある。
失敗しないと理解できない事もある。
問題は、失敗した時にどう始末をつけるか。
なまじ成功された方が困る。
なめてっかかるようになるから。
傷が浅くて済むなら、失敗させるのも薬なのである。

一度、聞いたくらいで理解できるはずがない。
何度も、何度も、挑むから先が見えてくる。
経験を積まないと身につかない。
座学だけが、勉強の手段ではない。
修行も勉強の手段。

聞く耳を持たないと。

教えられない事もある。
目的も、志も、やる気も教えられない。
自分の限界も体得するしかない。
自分で学べしかない。

学べ、学べである。

野球のルールブックを読んだからと言って、野球が、わかるはずがない。
野球のルールブックを読んだからと言って、野球ができるわけではない。
野球のルールブックを読まなくとも練習をし、試合を知れば野球を理解する事はできる。

自分で学ぶ意志のない者は、教えられない。
今の学校には教わってやるという生徒がたくさんいる。
彼らは、学ぶ意志がないから教えられない。

自分の力で生きていこうとしない者に人生を学ぶ事はできない。
ただ、無為に生きていくしかない。

先生商売ほど因業なものはない。
仕事柄、人を指導しなければならない時があるが、これほどしんどい事はない。
だから、先生と言われる人に限って物分かりが悪い。

教えてやるなんて、おこがましい。
一緒に学ぶからこそ教えられる。
教えてやるなんて態度では、誰も教えて欲しいなんて思いはしない。

わからない、できないと悟った者は、他人も、自分にも寛容になる。
自分の醜いところ、過ち、失敗、弱いところを受け入れる事の出来ない者は、
己の身を煉獄の炎で焼き清めるしかない。

悟った者は、過去が蘇る。
自分の失敗や欠点が貴重な財産になる。
悔い改めようとしない者にとっては毒となって、全身に回っていく。

人に教えるのは、教わる者の三倍も学ばなければできない。
教え方を見れば、その人の実力があからさまになる。
人を指導するというのは、しんどい事さ。

本当の話の達人は、話をしているようで聞き取られる。
だから怖い。
自分は、相手の話を聞いていたはずなのに、いつの間にか、相手に自分の総てが聞き取られ。
相手の主体は最後までつかめない。
学びの達人とはそういう人だ。

本当の達人は、腰が低い。
常に学んでいるから、傲慢になりようがない。

学べ。学べ。

一番最初に、学ぶのは。
自分がないにもわかっていない。
自分一人では何もできないという事だ。
それを学んだら、そこから多くの事が見えてくる。
しかし、それを学ぶのが一番難しい。