なぜ、ウクライナの国歌に関心があったのかというと。
ニュースで、ウクライナの若い女性が、爆風で割れた窓ガラスを片付けながら、泣きながら、流行歌のように国歌を口ずさんでいるのを見たから。
そして、キエフの防空壕で「アナと雪の女王」を歌って注目され、ポーランドのコンサートに招かれた十一歳の少女が、大観衆の前で堂々と国歌を歌った。
それで、国家の歌詞を調べてみようと。

ウクライナ国歌

ウクライナは、未だ滅びず。

ウクライナは、未だ滅びず。
ウクライナの栄光も自由も。
若き兄弟よ。運命は再び我等に微笑むだろう。
我等の敵は陽の下の露の如く亡びるだろう。
我等は、我等の地を治めよう。
魂と身体を、捧げよう
我等の自由の為に。
そして示そう、兄弟よ。我らがコサックの末裔たることを。

兄弟よ。サン川からドン川まで。
血の戦いに我らは立とう。
いかなる者もわが故郷の支配を我等は許さない。
黒海は、また、微笑み。
ウクライナでの幸運の再来に。父なるドニプロ川は、歓喜の満ちる。
魂と身体を、捧げよう
我等の自由の為に。
そして示そう、兄弟よ。我らがコサックの末裔たることを。

我等の忍耐と誠実なる努力は、報われ。
自由の歌は、ウクライナの地に響き渡る。
その歌は、カルパチア山脈に反響し、
草原にも鳴り響く。
ウクライナの名声と栄光は、全ての国に知れ渡る。
魂と身体を、捧げよう
我等の自由の為に。
そして示そう、兄弟よ。我らがコサックの末裔たることを。

今の日本人は、大きな思い違いをしている。
日本は、資源が乏しく、その割に人口も多い。
不断の努力をし続けなければ国民の生活を維持する事は難しい。

それなのに、日本は、豊かで進んでいると思い込み、思い上がっている。
まるで自由は、天然自然に守られていると錯覚している。
誰の話も聞かないし、学ぼうともしない。
わずかばかりの自尊心と見栄に凝り固まり。助け合おうともしない。
心を閉ざして頑なに自説にこだわる。

自分もウクライナに行きたいと思った時がある。
でも止めた。
自分の国を自分たちの力で守る事さできない日本人に何ができると言うのか。
まず自分の国の事を考えよう。
自分たちに手で自分の国を守る事を。
その上でウクライナの人民と連帯を持とう。
日本人の誇りをもって、ウクライナの民の誇りに応えよう。

確かに、この国の実情を考えると失望をする。
だからこの国を捨て、他国に活路を見いだそうと。
悪し様に罵ろうとも。
俺は、この国に残る。
墜ちていくというのならば、なおさらのこと。
一人になろうともこの国のために働く。
誰一人この国を守ろうと、それが、この国に残って、この国のために尽くす理由になってはしても、この国を捨てる理由にはならない。
逆境だから、絶望的だからこそ、必要とされているのだから。

休む事ばかり考えて、最後まで自分に任せられた仕事を、責任を持てやり抜こうとしない。
使命感なんてかけらもない。
何でも、先送り、後回し。
いい加減で、適当。
期限も、約束を守ろうともせず。
信もなく義もない。
自分が何を守らなければならないのか。
守るべきものをわかろうともしない。
人生も、世の中も舐めきっている癖に、誰もわかってくれないと世拗ねて、恨み言、泣き言をばかり。
恥を知れ。
自分の立場をわきまえようともせず。
時と場所、場合を、わかろうともしない。
楽する事ばかり考えて、都合の悪い事は、見てみぬふりをする。
その場限りで、場当たり的。
前後左右を考えようとしない。
言われた事だけすればいいと考え。
言われたことも、自分の都合のいいように丸めてしまう。
成績さえよければいいと育てるから、成績の事しか考えられなくなる。
大切なのは答えではなくて、その背後にある問題なのに。
問題をみようともせず、答えだけを求めようとする。
世の為、人の為なんて鼻で笑い。
外面だけ合わせて、後は適当にする。
外聞ばかり気にしている癖に、他人の事のだどうでもいい。
自分都合の悪いことを指摘されると癇癪を起し。
外野席で言いたい放題言うだけ、自分が打席に立つとなると尻込みする。
体面を取り繕うだけで中身がない。
誰も自分の事、認めてくれないと不平を言うくせに、他人を尊重しようともしない。

それが今の日本人の実体なんだよ。
それが、今の日本人の実力。
それを受け入れなければ、日本の明日なんてない。
裸になって、素に自分に戻らなければ、真の再生などできない。

最初は何もわからないのだ。
わかっていないのに、わかったつもりになるから。
或いは、わかっているように見せかけようとして指示するから間違うのだ。
わかっていなければ聞くだろう。
最初は、誰から聞くか、何から調べるかを考えろ。

誰に聞いたらいいのか、どういう順番で聞いたらいいか、わからないから、書いて整理する。
何を聞いたらいいかわからないから、わかる人に聞いて書く。
わからないことは、わかる人に聞け。

聞くというのは、学ぶ事、勉強と同じ事。
最初から答えを見ても、学べない。
よく問題を読んで、又は、見てから問題に取り掛からないと答えは解けない。
答えを暗記しても、勉強にならない。

先に、聞いて、次に、自分で書いて、それから、提出書類を見て確認する。
先に、提出書類を見ても、理解できない。写メしても駄目。勉強にはならない。

最初に答えを聞いたら、問題はわからなくなるし、解けなくなる。
問題を聞く前に答えを出されたら、何がなんだかわからなくなる。
問題を自分で解くから勉強になる。
わからないのが恥ずかしいから、できないのが悔しいから。
その妙な気位が自分苦しめているのがわからないのか。

現場の事は現場に聞け。
いくら現場経験があっても、時代や環境、条件が変われば自分が経験した事と違って当然。
子供のことは子供に聞け。
いくら、親子でも、愛し合っていても、相手の気持ちは、その人に聞かなければわからない。

わからないと言うのが恥ずかしいから。
できないと言うのは悔しいから。
そんなちっぽけな、見栄や外聞に囚われているから成長できないのだ。
いつまでも、いつまでも、何も学べず。
年と共に頑なになる。
終いには、気位ばかり高くて、何もできない人間に成り下がる。

わかってもいないのにわっかったつもりのなり。
できもしないのにできるふりして安請け合いするから、失敗するのだ。
それでは、いつまでたってもわからないし、できやしない。

わかっていますよ。やってありますよと言い訳をするな、覚えるなと教えられた。
言い訳をした分、話が長くなる。
言い訳をされても相手は納得するわけではない。
しかも、それを、子供が見ている、部下は聞いている。
言い訳する事を見て、聞いて、子供や部下が、言い訳する事を学んでしまう。
克己復礼。

ロシアのウクライナ侵攻の答えなんて誰もわからない。
だから、必死に探している。
答えは、その人の立場や、状況の変化によっても違ってくる。
最初から答えがあるわけではない。
侵攻という目に見えた現象ばかり責めていても、答えは見つからない。
現象の背後にある問題の本質を見極めないと、答えにたどり着くことはできない。
ウクライナの人は、故国にいようが、離れていようが、命がけ、人生をかけた問題。
何も失う事のない者が、降参しろとか、かわいそうだ、未熟だとよく言える。
日本が侵略された時、私は、躊躇なく、自衛隊と共に戦う。
自衛隊員だけに任せて避難するとか逃げ隠れするなんて考えない。
なぜなら、自衛隊員だけが日本人なのではなく。
自衛隊員だけに日本の防衛を任せればいいと言うのではない。
ウクライナ侵攻で虐殺された人の多くは、非戦闘員、無辜の民なのだ。
私は、自分の家族、友達、隣人を見捨てる事はできない。
なぜなら、私は、日本人だから。
自衛隊員だけが、日本人なのではない。