イベントを軽視しない。

特に、始動イベントを軽くみない。
始動イベントといのは、いわゆる、スイッチに相当するイベントである。

だから、多くの人は、仕事のやり方について、エンジンがかかった状態で運転を教わり、エンジンの止め方を教わらないで、指導を終了しているようなもので。
現実に、運転をしようとした時、エンジンのかけ方がわからずに右往左往してしまう。
それで運転がうまい、下手はない。
組織が起動しなければ、組織的な仕事のしようがない。
訳もわけらず、周囲から、なぜ、運転しないのかと責められる。
百人の組織は、百人の人を動かす仕組みなので。
当たり前に、オペレーティングのための技術がある。
組織は、自動車同様、仕組みなのである。
組織の鍵を握っているのがイベントである。

イベントは、イベントは開催する事に意味がある。
イベントは、無意味とか、形式だと批判する者がいる。
イベントは、仕事の文脈の中でとらえる。
イベント単体では、意味がない。
イベントは、前後、左右、上下のイベントと結びつく事で意味を持つ。
だから、イベントの目的がわからなかったら、前後、左右、上下のイベントを確認する。
要するに次、いつ、何をするかである。
目的は、一歩手前から、次に次に繋げるところにある。
前を顧みて次を考える。

イベントを設定するためには、突端に何をすべきか。
それは、スイッチを入れうような、簡単な動作である。
しかし、スイッチを入れないような簡単な事が原因で組織が起動せず。
結果的に、一人で仕事をしている。
トラックを腕力で動かそうとするような仕事をしていることになる。
挙句、当人は、何も気がつかずに、他人の性にしたり、言い訳をしている。
それで自滅、自壊している。
まず足元から始める。

イベントは、イベント準備するプロセスに重要な働きがある。
つまり、組織と働きと人をいかに結び付けるかで、それによって仕事と人と役割を明確にする。
簡単に集めると言うが、集めるために、何をすべきか頭に入っているかとよく叱られた。
簡単な事だからこそ、軽視したり、いい加減にやると、最初から躓く事になる。

方針確認会議というイベントを例にとれば、方針確認は、確認です。
確認というの事前に決まっている事。周知してある事だから、確認する事が出来る。
決まっていない事、知らない事を確認する事はできない。

試合が始まった時には、チーム全員が、野球ができる状態にするのが、指導者の責任。
試合が始まると言うのに選手はそろわないわ。道具やユニフォームはマチマチ。
選手は、自分は何をやっていいのか、最低限のルールを理解していない状態では、試合をする前に勝負が出ている。

試合は、初動イベントではない。最終イベントでもない。
試合は、ある意味で完成イベント、目標イベント。
初動イベントも、終了イベントも別にある事を忘れない。

日本人は、戦争の負けてから、イベント、儀式、式典を軽視、馬鹿にするように刷り込まれた。
その最たることが冠婚葬祭。
冠婚葬祭は、神聖な事ではなくなり、単なる、エンターテイメント、娯楽でsしかなくなった。
つまり権威が失せたのである。

戦争に敗けて、反権威、反権力、反体制を称えていれば、無難。
その様な風潮が言論界を支配した。
その結果、儀式典礼から、権威、神聖が失せた。
これが何を意味するかを日本人は理解していない。要は、日本人は騙されているのである。

儀式典礼、冠婚葬祭の本髄は何か。
それは、誓約、誓い、契約、宣誓、宣言にある。
だから、自分を超えた何者か、神聖、つまりは、権威が必要なのである。
絶対不変あ存在に誓うからこそ、意味がある。
覚悟が決まる。その展開が結婚式である。
相撲の試合も本来神事である。
高校野球も、高校球児にとって神聖な事、甲子園は、神聖な場である。

辞令だの、卒業証書、表彰状なんて、単なる紙ぺら、郵送すればいいという物ではない。
イベントで恭しく渡すから魂がこもる。
それを戦後、学校では軽視してきた。
だから、生徒は、先生の権威も学校の教えも守ろうとしない。

約束も、教えもどうでもいいのである。
重みなんてどこにもない。
世の中が乱れるのは必然である。

大切なイベントが失われ、或いはいい加減になってきた。
イベント、いい加減、適当にやっているから仕事もいい加減、適当にない、ケジメもなくなる。
段取り組めないし、着手もできず、何も決められない。
面白くもないのである。
それが、仕事や組織、人間関係、果ては、精神状態までおかしくしている。
人生もケジメなく、ダラダラと、だらしなくなる。
それに気がつかずに、ああだこうだ、能書きを垂れても、なんも危機ききめもない。

若い世代でも創業者の多くはイベントの有効活用を重んじている。
ただ、士気高揚程度にしか考えていない人が多いのが玉に瑕。

一番肝心な事が何も伝わらない。
イベント真剣にやらないで、いい加減にやっているからである。
イベントは、本来、神事なのである。

イベントの肝は誓いである。
何に対して、何を誓うか。
そこが、鍵なので。
かつては、神、或いは、国。
民主主義は同志である、仲間。
フランス人やアメリカ人の愛国心と日本人の愛国心は違う。
フランスや、アメリカは、思想に基づいて作られた国だから。
日本人は、日本に生まれ、日本人である事に愛国心が持てる。
それを忘れるべきではない。

誓いになくなれば、儀式典礼、イベントは形骸化する。
魂のない肉体は骸に過ぎない。
ただ、醜く朽ち果てるしかない。
イベントに魂を込めるのは、皆の気である。
気がこもらない、イベントは、形骸に過ぎない。
会社から、気が散じ、魂が失われる。
会社に魂を込めるのは、皆の志であり。
会社に魂を籠めるために執り行うのが儀式である典礼であり、イベントである。
だから、会社にとって神聖な行事なのである。

空き地にお友達が集まって草野球をするのならまだしも。
仕事をしようというのに、何の準備もせず、打ち合わせもせず。
場当たり的な事していて成功なんて期待しようがない。

小学生だって、本気で教えれば、すぐに覚える。
本気を出さないと。

真剣に、真面目に取り組まないと、自分の人生もいい加減なものになる。
誇りの持てる人生にしようぜ。
たった一回の人生なんだからさ。
俺なんてと思うのは勝手だが。
それでどうなる。誰も救ってはくれないんだぜ。
一寸の虫にも五分の魂てな。

仕事としてとらえるなら、空き地で草野球するような手筈はするな。
試合ができるように、段取り手配をするのが、マネージャーの仕事なのだ。

やる気のないイベントをすれば、やる気のなさが伝わる。
いい加減にやれば、いい加減さが伝わる。
適当にやれば適当さが伝わる。
それがイベントだ。
真剣にとりくみ、厳粛に、強い意志でやらば、真剣さ、厳粛さ、やる気が伝わる。
イベントをなめるな。