自由主義者にとって人生とは、内的欲求と外的制約との葛藤によって自由を実現していく過程である。その過程で結果的に矛盾や対立が生じるのである。自由主義者は、絶え間なく、内的、外的変革を繰り返しながら、内的現実と外的現実を調和させていくのである。そして、内的な世界と外的な世界が一体となった時、自由は実現するのである。それが、自由主義者の究極の目的である。故に、自由主義も実践哲学である。

自由主義者にとって自分の思想の正当性は、自分の行動で証明する以外にない。

自由というのは、内面の規律と外部の法や法則が調和された状況を指す。人間は、外的な状況には、常に、制約がある。その制約と自己の願望や欲求とが一致しないと不自由を感じる。この様な制約から解放された状況や状態を、自由というのである。

道徳や善と言った内的な規律を制約だという考え方がある。そして、これらは、自由を阻害していると彼等は主張する。

自己実現の目的である自由は、意志である。自己実現の根本は、自己善であり、内面の規律である。だから、自由と内面の規律、つまり、道徳は、矛盾しない。むしろ、相互に補完しあう関係にある。自由と規律が対立するのは、規律に齟齬があるからである。自由を求めて内面の規律を正していけばいいのである。
自由と規律は、相反する概念ではない。自由と規律は、補完的な関係がある。つまり、自由は、自己の主体性に支えられており、自己の主体性は、内面の規律に支えられている。そして、内面の規律は、外界の制約や規則との相互作用によって成立する。故に、自由と規律は補完的関係なのである。

内的な世界と外的な世界が矛盾したり、対立すると人間の意識は、引き裂かれる。この様な時、人は不自由を感じる。内的な世界と外的な世界が調和しないと人間は、適正な判断を下すことが困難になる。これが、苦悩の根源である。この矛盾が高じると人は、判断不能な状況に陥り、自己の同一性や主体性、自立性を失い、分裂してしまう。これが自己喪失である。

自由というのは、主体的で自律的な意志の確立である。自己は、主体性や自立性を保持しようとする。そうしないと、自己は喪失するからである。自己の喪失は、個人としての働きを失うことであるから、個人主義者の最も忌む事である。
故に、人は、内的な世界と外的な世界の、両方に働きかけて、自己の内的な世界と外的な世界を一体にする事によって、自己の自由を実現しようとする。これを実践するのが自由主義である。

肉体的障害や能力の不足は、自由を妨げるものではない。なぜなら、自由の本質は、自己実現だからである。自己実現の根源は、自己の意識である。自由であるか、ないかの根本は、肉体にあるのではなく、自分の思いにあるのである。肉体的制約があるから自由になれないのではない。肉体的制約は、誰にでもある。しかし、自分を不自由にしているのは、肉体的制約ではなく、自分の思いなのである。

選択の自由こそ自由の本質である。

確かに、制約があるから自分の思い通りにならないことがある。しかし、制約よりも囚われる心の方が問題なのである。囚われる心があるから制約と感じる。欲望に囚われ、執着心が起こる。それが苦しみの根源。欲望への執着心に囚われた瞬間、人間は、自由ではなくなるのである。

自由主義とは、囚われた心を捨て、自らの主体的な意志に基づいて社会を変革し、新しい世界を建設することを目的とした思想である。