現代の世界観・宇宙観は、物理学的なものに過ぎない。生物学的な世界観・宇宙観も必要なのである。それは、自己の内面に存在する世界。そして、理想的世界。その理想的な世界を現世に投影した時、我々は、自分の為すべき事を悟ることができる。

科学は、外形的法則に基づいている。必然的に、科学的合理性は、外形的定義の上に成り立っている。物理学は、外形的法則と内面の法則が一致している。しかし、人間の世界は違う。内面の法則、内面の定義が先行しているのである。外形的な法則と内面の法則は違うのである。外見と内面の世界の違いに苦悩の根源がある。

民主主義は、個人並びに個人の自由な意志に対する信仰に近い信頼がなければ成立しない。

現代人にとって生きる目的や生き甲斐がハッキリしないと言うか、定まらないのは、忠誠心というものが、否定されているからではないだろうか。忠誠心は、標的がハッキリしている。というより、標的がハッキリしていないと発揮できない。

生き甲斐というのは、生きる目的だから、自己の外にあるもの、つまり、直接認識できるものの方が発揮しやすい。

民主主義における忠誠心の対象は、主権者である人民である。人民というのは、自己を含む概念であるから、少しややこしくなる。だから、民主主義者にとってわかりやすいのは、人民を具現化した国家こそ、忠誠心の対象なのである。

自己主張が義務である民主主義者の忠誠心のあり方は、盲目的な服従ではなく、人民の幸せの探求に基礎をおかなければならない。

迷惑さえ、かけなければ何をやっても良い。それが民主主義であり、自由主義だという間違った考えが横行している。迷惑をかけるかかけないかは、民主種主義や自由主義とは無縁なものである。むしろ、自己の信念を基礎としている民主主義では、人の思惑よりも、自分の信念が、優先されなければならない。

迷惑云々は、主観的なものであり、人に迷惑を掛けている奴ほどその自覚がない。そういう人間にかぎって、俺は、やりたいことやってんだ、人に迷惑を掛けているわけではないんだから、何が悪いと開き直りのが関の山だ。つまり、迷惑という言葉には、そう開き直られる要素がある。迷惑の基準は、その人その人固有の者であり、他人の迷惑の基準は、他人のものであり、自己とは、無縁なものなのである。また、その人間が、自分が悪いと思わない限り、ただしようがない。それは、他人の価値観に依存していることであり、民主主義や自由主義とは反する考え方である。

資本主義社会においては、信念、信条、宗教を失えば、金か人間関係しか残らない。

しかし、金か、気配りばかり、人間の価値が、決まる社会なんて最悪である。金銭や人間関係中心の社会ではなく、その背後にある信念や信条、宗教を尊重するが故に、前提とするが故に、あえて触れないのである。それは、本来、民主主義社会は、思想、信条、宗教を中心とした社会であることを意味している。

人の迷惑をかけても正しければ、やらなければならないこともある。逆に、人に迷惑がかからなくてもやってはならないことがある。それが、民主主義である。民主主義者が、余計なお節介を焼いているように見えるのは、民主主義の根本が、迷惑というのは、かけるもの、かけられるものという発想だからである。

人間は、生後、個人として自立するまでの間だ、社会に扶養される存在だと言う事である。この点を認識せずに、迷惑をかけなければという事は言えないのである。

民主主義の根本は、個人の権利と義務、そして、自由である。そして、人民の意志である。自民の意志への忠誠心と、個人の権利と義務、そして、自由を守るためならば命をもかける。それが、民主主義者の精神である。

紳士たれという言葉がある。そう、民主主義者は紳士たれ。常に、華美を求めず、こざっぱりとして、清潔な身なりをしろ。身だしなみには大切だ。礼儀正しく。高潔であれ。禁欲的である必要はないが、強欲を憎め。他人の非を責める前に、自らの過ちを恥じろ。そして、自分に忠実であれ。家族を大切にしろ。なによりも自由を愛し。愛する者の為にいつでも戦う覚悟、準備をしろ。そう、紳士たれ。侍であれ。