民主主義幻想。すなわち、民主主義は、最高の体制だから、黙っていても、自然に全ての国家は民主化される。民主化するためならば何でも許される。正当化される。それが民主主義に対する幻想である。この様な幻想をもっていると、すぐに、幻滅に変わってしまう。

民主主義は構築するのが難しい体制である。構築するためには、いろいろな条件や前提がそろわなければできない。

民主主義に対する幻想はもってはならない。それが民主主義を守ることなのだ。

民主化すれば全てが良い方向に行くというのは幻想である。民主主義も良い面ばかりではない。だいたい。民主主義国というのは、国民が自分達で作り上げていく体制である。必然的に国民の負担が大きくなる。

民主主義の根本は、モラルにある。しかし、民主主義の脆弱性もモラルにあるのである。モラルは、歯止めを失うと極限まで堕落する。

民主主義は、いろいろな要素、制度の均衡の上に成り立っている。民主主義を支える柱の一つでも狂いが生じると崩れ去ってしまう。本当に危うい均衡の上に民主主義は立っているのである。

民主主義において、制度が骨格なら、血肉となるのは、文化だ。現代人は、肉体の健康には、気をつかっている癖に精神の健康には、まるで無頓着だ。

生まれたばかりの子供に固形物のような物すら与えないと言うのに、精神に対しては、刺激の強い、芥子の様な物の固まりどころか、麻薬のような物まで与えている。これでは、子供の精神は死んでしまう。

しかも、意識は、肉体と同じで悪いと思っていても刺激の強い物、欲する物を際限なく食べたくなる。なお悪い事に、悪い物は、麻薬のように中毒性がある。そして、行き着くところまで行ってしまうのだ。

民主主義制度が形骸化するのは、制度の本来の目的が見失われるからである。義務教育は、その典型である。

無頼は、強く。良識は、弱い。そのくせ、人は、誘惑に弱く、禁欲するためには、強い意志が必要となる。悪い事は、自分、一人くらいやっても大したことはないと思ってやってしまう癖に、良い事となると、自分一人やっても大したことはないと言ってやらない。悪貨は、良貨を駆逐する。いい習慣を身につける為には、強靱な意志が必要だが、悪い習慣はすぐに身について離れない。だから、人は、神を必要としている。なのに、現代人は、神を受け入れようとはしない。神を怖れはしない。一度、過ちを、犯すと、自分が、許せずに、堕落していく。

法というのは、最低限の合意。つまり、下限を決めるているのです。上限ではない。そこを、間違うと、モラルを下限にまで引き下げてしまう。さらに、赤信号、皆で渡れば怖くない。などと、馬鹿げた事をあおる人間が出てくる。洒落や冗談ではない。それが、社会的に影響力ない立場の人間が、影響力ない場所で言うなら、洒落や冗談でとおる。しかし、日本のオピニオンリーダー?となり、公共の手段であるテレビで、しかも、子供達に向けて発したら、どうなるか。個人のたわ言、ざれ言では済まない。

退廃を防ぐのは、教育と言論だが。言論がこの状態では歯止めが効かない。結局、その被害が及ぶのは、子供達だ。

子供達を孤立化させ、一方的に刺激の強い情報を流し込むのは、洗脳である。では、今の日本の子供達が置かれている状況はどうか。受験勉強によって子供達は、孤立化させられている上に、テレビやビデオ、テレビゲームに漫画という強う刺激によって一方的に偏った情報や価値観を流し続けられている。これを、洗脳と言わずに、何を、洗脳というのだろう。しかも、教育とメディアの無自覚な洗脳である。

民主主義に幻想を抱くべきではない。民主主義の本質と限界をわきまえてこそ、はじめて、民主主義の理想を成就する事が出来るのである。

民主主義は、一度成立すると堅牢な体制だが、同時に、微妙な均衡の上に成り立っていることも忘れてはならない。

民主主義の限界を補い続けるのが、教育、現実の政治、報道を含んだ言論である。その教育と言論の現場が、モラルを破壊し続けたら、歯止めが効かなくなるのは、時間の問題である。今の日本は、壮大な実験場とかしている。

民主主義は、個人を積極的に受け入れることによって成立している。つまり、バラバラで良いという考え方である。しかし、国家という概念の対極にあるというわけではない。

肝心なのは、個人のモラルである。個人のモラルが信じられなくなったら、民主主義は成り立たない。その時、強健主義的な勢力が姿を現すのである。

自由の前提は、主体的な意志の発露である。主体的な意志の前提は、内的規律である。内的規律は道徳と理性と自制によって保たれる。

利害関係を唯一の根拠とせざるをかない。そして、個人の問題は、個人に帰す以外にないのである。それが自己責任の原則である。

民主主義者が、モラルを否定するのは、そのモラルが個人に依拠していないからだ。だから、全体主義的な国家に対しては、アンチモラル的な行動をとることがある。しかし、それは、モラルを否定しているからではない。モラルを強要されているからだ。ただ、モラルを奪い取ろうとしている者もモラルを否定する者も現れた行動は似ている。しかし。民主主義者は、モラルを否定しているのではない。モラルを大切にしているのである。

聖人君子のような人間を基準にしていたら、民主主義は、成り立たない。民主主義を成立させるためには、人間に対する幻想は捨てなければならない。それは、性善であるか、性悪であるかの問題ではない。人間は、過ちを犯しやすい存在だと言う事である。否、過ちであるか、否かも解らない存在だと言う事である。

まともな事を、間違いだと、言われたらたまらない。マスコミも、自分の間違いを、認めないかぎり、一歩も先へ進めない状況に、来ている事を、自覚すべきだ。