義務と権利は、民主主義の本質である。

民主主義制度は、個人の自由な意志によって成立する。故に、自由は、保証されるものではなく。力である。つまり、民主主義は、自由の力、作用がなければ成立しないのである。言論の自由は、保証される性質のものではなく。民主主義そのものである。

自由は、自分が何を望むかによって決まる。逆に言えば、何も望まなければ自由にはなれない。つまり、民主主義における自由とは、まず、自分が何ものかを望むことによって発する。そして、自分の望みを主張し、それを社会が承認した時、その望みを実現することは権利となるのである。

民主主義において自己主張は、義務である。義務である自己主張から権利は発生する。故に、自己主張をしなければ権利は、発効しないのである。その意味で、自己主張が苦手だったり、出来ない人間にとって民主主義国は、住みにくい世界なのである。自己主張を実現したものが、自己実現である。だから、自己実現は、権利なのである。

民主主義を支えているのは、人民の意志である。人民の意志の起源は、個人の意識とモラルである。それ故に、民主主義は、個人の自己主張を基礎としている。個人が、自己主張をしないと、人民の意志は確立されない。この義務が守られて、はじめて、自己実現が可能となる。故に、自己実現は、権利なのである。

観念的な力は、それを行使しないとその効力を発揮しない。義務も権利もそれを行使しないと効力は発揮しない。つまり、義務や権利は、それをただ主張するだけで発効するのではない。権利は、義務を果たしてはじめて発効する。

権利と義務、権限と責任は、認識の作用反作用によって生じる。

自己は、間接的な認識対象であることによって、個人が社会に及ぼす働きは、内的な世界と外的な世界に同時に発生し、その関係は、作用反作用の関係になる。

権利と義務、権限と責任は作用反作用の関係である。教育は、権利であると同時に義務であるというように、権利と義務は、作用反作用の関係にある。という事は、権利と義務は、常に一定であり、均衡していることを意味している。権利の方が義務より強かったり、義務の方が、権利より思いと言う事はないのである。問題なのは、作用がどこに向かって働いているかである。

権利と義務は、同じ働きだが、方向が違う。

内に向かえば、義務となり。外へ向かえば権利となる。権利と義務は、必然的にバランス強いる。納税ですら、義務であると同時に権利である。

自主性を重んじた教育という。しかし、自主性というのは、本来その人に備わった能力である。故に、自主性というのは、不当に押さえ込んだり、否定された時はじめて問題になる。それに対し、責任は、その人の行為によって生じる。自分の行動には、人は、責任を負わなければならない。結果に対しては、責任をとらされる。人は、結婚をする前に責任をとる、つまり、負うのである。結果に対しては、責任とらされるのである。その覚悟がなければ、家族に対して誰も責任を持てない。だから、人は、責任をとるのであって、とらされるのではない。教育で重視すべきは、責任感であって、自主性は、責任感が養われば、必然的についてくるのである。

義務と権利は、引力と斥力のようなものだ。

意志と義務とは違う。願望と権利とも違う。

意志と願望は、その人自身の存在から発するものだが、義務と権利は、社会から個人に、契約によって与えられた力である。

責任と義務とは違う。権限と権利とも違う。

責任と権限は、その人固有の立場による力であるが、義務と権利は、個人一般に与えられた力である。

権利と義務は、国民一般が一様にもつ力であり、権限と責任は、任意の個人がその立場に付随して持つ固有の力である。

民主主義国において、国民は、義務と権利を行使することを要求される。そのために、国民は、一様に、自立した意志を持っていることが前提となる。この事は、民主主義を成立させる必要要件の一つである。

権利と義務の働きが民主主義制度を作る。権利と義務は、民主主義制度を支える働き、作用である。

故に、民主主義国にとって、権利の行使は、国民の義務であり、義務の行使は、国民の権利である。