皆、もっと怒っていいんだよ。

最近の若者たちは、怒りを忘れた気がする。ただひたすら我慢して、耐えているように見える。
僕の気のせいなのだろうか。
もっと怒っていいんだよ。理不尽な事、道理の通らない事、不正な事に憤っていいんだよ。
怒りこそ、世の中を変革する力。特に、若者たちの純粋な怒りが世の中を揺り動かしてきた。それは歴史が証明している。
ただ怒りは、間違うと全ての事を破壊してしまう。とてつもない破壊力を秘めている。それだけは、忘れないようにね。

若者は、もっと怒っていいんだ。でも、怒ってもいいと言われても、何に怒りをぶつけたらいいのか。それが問題なんだよ。ただ怒ればいいというのでもない。
腹立ちまぎれに当たり散らすのはよくない。手当たり次第に暴力をふるったり、破壊したら始末に負えなくなる。そこが問題なんだ。

もっと怒っていいんだけれど、怒ったところで、怒りの矛先、怒りのもっていきよう、怒りをぶつける先が見つからないんだよな。今は…。
怒ったところで、誰にぶつけていいか、何に向かっていけばいいのかわからない。だから、若者たちは我慢し。怒りを押し隠す。怒りを押し殺して、世間と折り合いをつけていく事を覚えてしまう。

我々の先輩、団塊の世代は、何でも反対した。彼等は、彼らなり、反戦とか、反体制と反権力みたいな大義名分があった。彼等の名分は、何でも反対する事だった。何でも反対、反対。戦争反対。公害反対。学則反対。制服反対。暴力反対。差別反対。女性蔑視反対。強制反対と何でも反対。怒りのもっていきようはいくらでもあったけど、反対するものがなくなると自然とおさまってしまった。

自分達が権力を握り、体制側に立ったのに、反権力、反体制を標榜していたら国なんて纏めようも、治めようもない。

我々の後輩になると、自由、自由と叫び出し。自分たちがやりたい事を抑え込もうとする者に対して、怒りをぶつけ。それが、パワハラとか、セクハラとかに昇華していった。
でも、それも行き過ぎると、わがまま勝手、放縦になって規則とか、規律とか、秩序が見失われる。挙句に荒れる成人式とか、学級崩壊などの原因とされて段々に終息していってしまった。

怒りは、時として、反抗や抵抗に結び付く。問題は、怒りの大本。根拠だよね。意味もなく反抗したところで、結局、自分を傷つけ、孤立しておしまい。周囲の理解も得られはしない。
虚しくなって怒りの行き場がなくなる。
でも腹が立つ原因はいくらでもある。

馬鹿に馬鹿にされるのは一番腹が立つけど。常識がない奴に常識がないと言われるのもね。その時は我慢しなければならないのなら、この野郎いつか見返してやるって…。

モヤモヤとした、訳の分からない怒り。ぶつけようのない怒り。もっていきようのない怒り。自分は、本当は、何に腹を立てているのかわからない。
だけど、意味もなく腹が立つ。腹が立つには、それなりの理由、原因があるのだろう。
でも訳が分からない。訳が分からないままに、親に八つ当たりをして、相手も自分も傷つけあう。他人に会うのが辛くなって段々、人間嫌い、人間不信になって閉じこもる。引き籠る。

結局、何も解決しない。

何に対して腹を立てているのか。
腹が立つ原因がわからないから腹が立つのか。
ひょっとしたら自分に腹を立てているのかもしれないし。
こうなると堂々巡り。ストレスがたまる。嗚呼、いらいらする。
だから、なるべく腹を立てる事をやめる。極力、我慢する。
上っ面は、いい子ぶって心を閉ざす。
それが鬱積してドロドロと渦巻く。発散しようない怨念の塊となって、心の奥底に深い深い闇を作っていく。
その闇に心が支配されて、自分が自分でなくなり、自分を見失っていく。時々、衝動的な行動となって闇をのぞかせる。

なぜだ。なぜなんだ。

肝心なのは、問題意識。

怒りはエネルギー。怒りは、力。怒りは、パワーだ。
社会に対する憤りこそ、社会を変革し、向上させる原動力となる。
怒りを自分で制御でき、怒りのもつエネルギーを正しい方向に発散できれば、世の中や体制を変革する事が出来る。自分だって救われる。
明治維新だって、フランス革命だって、アメリカ独立戦争だって若者たちの怒りが体制や民衆を動かしたからこそ成就した。

エネルギーや力そのものは、目に見えない、無形なものだ。
目に見えない、形のないエネルギーや力は、エンジンやボイラーの様に、それを、貯める器や制御する装置があって正しく活用する事が出来る。
怒りを制御する為には、何が必要なのか。
根本あるのは、志。器や装置は、組織。

ただ闇雲に反対しても、なぜ、反対しているのかが明らかでなければ、衝動的、感情的な行動に過ぎない。それで極性が聞かなくなるし、最終的に進むべき方向も、自分が何をやっているのかもわからなくなり、深い混迷に陥る。要するに自分がすり減って、すり減って終いには自分がなくなってしまう。
大切なのは、自分。自分の動機。

なぜだ。なぜなんだ。そこさ。何が問題なのかを見極める事。

それは何かをよくしたいという志。何かを成し遂げたいという意志。それが仲間を呼んで組織となる。一人では何もできないし、一人では、自分を抑える事も、耐える事もできない。挫折するだけ。

何かをよくしたい。自分の人生をよくしたいと思えば、自分のだらしなさへの怒りとなる。学校や会社をよくしたいという思えば、学校や会社を改革しようとする意志が生まれる。国や人間の所業に憤れば、思想や哲学が生まれ、世の中を変革しようとする志に昇華される。

怒りがあるから、人は、困難や限界に挑むことができる。どんな迫害や逆境、障害にも耐え抜くことができる。
怒りを忘れれば、若者は、妥協を覚え、諦め、挫折していく。やり抜けない。
一時の怒りだけでは、続かない。仲間も集まらない。自分と周囲を傷つけ、深く深く、後悔するだけ。誰も正当化できない。悪いのはお前。
結果、自嘲気味にどうせ、俺なんてって人生に投げやりになり、責任が持てなくなる。
正義、大義。義のある怒りこそ、世の中をよくする力。

この世の中を本当によくしたいと思うなら。もっと怒っていいのだよ。もっと、この世の不正や不義に憤っていいのだよ。それこそが若さの源なのだから。
怒りを忘れたら何も変わらない。

何も変わらなくていいのは、先が見えているものと、既得権に胡坐をかいている者たちだ。つまり、現状維持を望む者たちだけだ。現代の様に、時代がものすごい勢いで変化していて、なおかつ、少子高齢化が進んでいる時、若者たちにとって何も変わらないという事は、望みが断たれるのに等しい。罪な話である。

怒れよ。今の若者は怒りを抑えすぎる。
世の中を変革するのは、怒りだ。
世の不正に対する怒り。
自分を抑圧しようとする者に対する怒り。
自分に対する無理解さに対する怒り。
不条理に対する怒り。
怒りが正しい方向に向けられた時、変革は始まる。

綺麗事と言われてたじろぐな。綺麗事で何が悪い。穢ければいいというのか。
甘いと言われたっていいじゃないか。何もしない奴よりましだ。どうせダメだと最初からあきらめるな。
俺達なんてと自分達を卑下するな。
前を向け。
胸を張れ。
最初から諦めて拗ねてどうする。
先の事なんて、物事の道理なんて、解らないじゃないか。
誰も、わかってないじゃないか。

若者達よ。なぜ怒らない。
皆、うすうす気が付いているじゃないか、大人たちのつけを払わされるのは自分達だと。
だったら怒れよ。
大人なんてあてにするなよ。
未来は自分たちの手で掴み取れ。