民主主義は、制度的な思想である。民主主義が、なぜ、制度的な思想なのか。というより、なぜ、制度的な思想にならざるを得ないのかを、正しく理解しておく必要がある。なぜなら、そこに民主主義の限界があると、同時に、真の民主主義をろろろ、実現するための鍵が、隠されているからである。民主主義は、制度的な思想であるが、だからといって制度を絶対しているわけではない。むしろ、制度的な限界を前提として成立している思想である。故に、民主主義を検討する時に、常に、問題とせざるのをえないのが、制度上の限界である。

社会を維持するためには、統制が必要である。その統制を取るのが民主主義国では、制度である。というより、民主主義国の統制は、人による統制ではなく、制度による統制である。

価値観を統一するのではなく。法や制度の力といった外部から力によって、行動を制御しようとする思想が民主主義である。過去においては、思想信条を統一することによって社会体制の統制をとるという思想が主流であった。しかし、民主主義は、個人の主体性を尊重することによって最初から思想信条をもって社会を統制するという考えを放棄しているのである。

一人一人、違う価値観で、勝手に行動されたら、たちまち社会は、バラバラになってしまう。個人は、常に、抑制を失い、暴走する危険性をはらんでいる。この様な暴走は、民主主義自体を破壊しかねない。制動、制御装置としての機能が制度を形作る機構には、求められる。

だから、民主主義にとって統制は重要な問題なのである。そして、民主主義国において統制は、制度によってとられるのである。だから、制度のあり方が、民主主義国にとっては、重要なのである。

民主主義が、人による統制ではなく、制度による統制を志向したことによって、民主主義制度の基本は、必然的に分権的になるのである。権力が、特定の個人や集団に集中させないようにするためには、制度や機構によって権力を分散させる必要がある。故に、必然的に民主主義国は、分権的にならざるを得ないのである。

石油やガスは、それ自体では役に立たない。役に立たないだけでなく、取り扱いを間違えば、大事故になる。しかし、石油やガスをエネルギーとして活用する装置があれば、偉大な力を発揮することが出来る。

民主主義は、同じ発想に基づいている。人民の力、個人の意志は、莫大な力、エネルギーを秘めている。しかし、放置していると、それは、抑制を失い、暴走する。人民の秘めた力を引き出し、その力によって人民の幸せを実現する。それが、民主主義の根本思想である。だから、民主主義は、制度的な思想なのである。

民主主義制度の活力の源は、人民の意志であり、人民の意志の活力は、個々人の意志の働きである。

個々人の意志の働きを規制するのは、個々人の内面の価値観、自己善である。つまり、個人の自由な活動が、民主主義の活力の大本なのである。

個人の働きは、自己主張によって現れる。それ故に、民主主義国にとって自己主張は、義務なのである。義務である自己主張は、外に向かって発せられると権利となる。そして、この様な個人の権利と義務の働きが制度を作り、制度を維持するのである。

個々人の価値観に基礎を置いているが、個々人の価値観を、絶対視しているわけではない。個々人の価値観を前提としているというだけである。

聖人君子を基本にして考えるべきではない。民主主義は、全ての人間が悟りを開いた社会を前提として制度を構築しているわけではない。ここで気をつけなければならないのは、性善説を採るか、性悪説を採るかの問題ではない。全ての人間が善良、善人だとはかぎらない。また、善良な人間だからといって過ちを起こさないとはかぎらない。そうではなくて、人の価値観は千差万別だと言う事である。正しいか、間違っているかを問題にしているのではなく、価値観が違うという事を前提としているだけなのである。価値観が違うという事を前提にして、民主主義は成り立っている。

重要な事は、人、皆、価値観が、違うと言う事である。価値観が違うという事を前提にした場合、善意とか良識とか言うものは、くせものである。つまり、一般的な、普遍的な善意や良識というものは、存在せず。良識や善意は、相対的なものだと言うことになる。つまり、他者が見て、犯罪だとしても、当人が悪意を認めなければ、成立しないことになる。そこに、確信犯罪の下地がある。ある種の思想や社会に不満を持つ者が、犯す犯罪のなかには、自己の行為を正当化する要素が内在化する可能性がある。それが、テロの理論的な根拠なのである。

つまり、周囲の人間が間違っていると考えても当人が正しいと考えている時は、それを正しようがないという事である。そうなると、当人の考えが正しいかどうかが問題となるのではなく、その人間の行動が、社会にどのような影響を与えたかだけを、問題にせざるを得ないという事になる。

民主主義は、個人的尺度を、敷衍化する事を否定された事によって、外形的基準によってしか社会を、統制できなくなったのである。

外形的基準とは、経済的価値観や地位、物理的尺度といった外から判断できる基準である。特に、金銭のような数値化できるものは、外形的基準の典型である。これを客観的基準という人もいる。最近、よく問題になる、テレビの視聴率も外形的基準である。また、女によくもてるというか、性的関係を結んだ人数も外形的な基準の一つである。

それに対し、道徳とか人格、信仰が内面の基準である。この様な内面の基準を無視したり、軽視して良いと民主主義者は、考えているわけではない。内面の基準をむしろ尊重しているが故に、これを統一したり、直接統制することが、出来ないとしているだけである。

ところが、現実には、外形的な基準によってしか正邪の判断が下せないとしたら、結局、内面の価値観は、軽視される。つまり、法や制度に違反しない事は、正しいことだという錯覚が起こるのである。

そのために、民主主義国では、外形的基準に適合する行為が全て正当化される傾向がある。制度によってモラルが代わる。又は、制度に沿ってモラルが形作られる。そういう現象がよく見られる。制度がモラルを変える。これは、本末転倒の現象である。

人間の欲望を制御するのは、制度ではない。理性である。しかし、人間の行動の基準が道徳ではなくて、外形的な基準になると欲望を抑制する働きがなくなる。生理的欲望が野放図になり、生理的欲望に人間の理性が支配される。こうなると、あらゆる欲望が噴き出してくる。噴き出した欲望を抑制することが出来なくなる。制御の効かない欲望は、あらゆる資源を食いつぶしてしまう。その結果、環境破壊や戦争が引き起こされる。

婚姻制度で言えば、法が扱えるのは、経済的、物理的、肉体的領域に限定されている。それ以外の問題は、私的領域に属すのである。それは、私的領域に属す問題を軽視したり、無視した結果なのではなく、逆に、私的領域に属す事柄を重視した結果なのである。ところが、公の場において私的領域に属す問題を度外視した結果、私的領域の問題がないがしろにされるようになった。その結果、婚姻関係において経済的な事や性的なことだけが取り上げられ、あたかも、それだけが全てであるような錯覚を生み出している。

間違ってはいけない。夫婦関係において間違いなく、一番大切なのは、愛情なのである。それを見誤ると夫婦関係そのものを破綻させてしまう。

制度が肉体なら、人民の意志は魂である。どちらも大切であり、両方がなければ成り立たない。魂のない肉体は、骸にすぎない。肉体のない魂は、亡霊である。肉体である制度と魂である人民の意志があってはじめて、民主主義国家は成り立っている。

包丁は道具である。包丁は使い方によっては、凶器になる。しかし、包丁を凶器にするのは、包丁ではない。使い手である。制度も同じである。制度も使い方次第では、凶器となる。制度を抑制するのは、人民の意志である。

民主主義国の健全さを保つのは、あくまでも、人民の意志である。そして、その人民の意志の健全さを保つのは、教育と言論である。民主主義国の魂は、文化である。文化の退廃は、民主主義国の退廃へとつながる。それは、民主主義の敗北、破綻を意味するのである。