戦後の知識人は、反体制、反権力さえ標榜していればいいと言う向きがある。そのために、権力という言葉には、悪いイメージがつきまとっている。

権力イコール武力。武力イコール暴力と考える人間がいる。これは、間違いである。このイメージが、権力は、悪いものという認識につながる。しかし、人間の社会には、権力は付き物である。否、権力がなければ、社会の秩序は保てない。極端に権力を嫌う者は、この秩序をも否定してしまう。しかし、そこまで言ってしまうと、社会そのものの否定に結びついてしまう。安心して生きていく事もできなくなる。家族を養うこともできない。彼等は、無秩序な世界がどのようなものか知らないからである。

集団には、必ず強制力が働く。強制力が悪いのではなく。強制力の正当性が問題なのであり、その正当性は、手続きによって保証されている。その上で、分権的な制度によって制御されているのである。

権力は、主権と権利の源の力である。権力を否定する事は、主権と権利を否定する事にもなる。当然、義務も否定する事になる。

民主主義にとって権力は、御上ではない。権力は、人民のものである。ところが、戦後の日本は、権力を敗戦によってアメリカから与えられた力のように錯覚している者が多くいる。

民主主義国では、本来最初の権力交替は、暴力によってされる。つまり、民主主義国は、人民が、権力を支配者から勝ち取ることによって成立するのである。そして、その後の権力の交替は、民主的な手続きによって行われるように制度を確立するのが、民主主義革命である。日本は、この過程が、正常の手続きと違ったために、民主主義を間違って理解する傾向がある。民主主義は、決して天から与えられるものではない。力で勝ち取るものなのである。

権力を否定することは、医者が居るから病気になるという論法に近い。つまり、警察があるから犯罪が起こる。消防が居るから火事が起こる。軍隊があるから、戦争になるという論法である。戦後の日本は、特に、この様な誤謬に陥っている。

戦争は結果である。その原因が軍隊にあるというのは、短絡的すぎる。戦争の原因は、複雑多岐であり、とても一言で言いきれるものではない。むしろ、軍隊の性格であり、軍隊の性格を決めるのは、国家理念や国家体制、国防理念である。軍隊は、戦争の道具だという見方もあるが、平和を維持するための装置だという考えもある。軍隊というのは、装置である。安全装置がなければ暴発することもある。もし、危険性を指摘するならば、軍事制度の、どこに、危険性が、潜んでいるかを解明すべきなのである。

軍隊を忌み嫌うことによって、他国の軍隊も含め、軍隊そのものの存在を否定することは、何の解決にもならない。

権力とは、集団を治める力である。

人間関係は、力関係である。人間の社会は、力関係で決まる。力による支配という性格は、人間の社会の基本的で本質的な性格である。問題は、その力の根源である。つまり、何に基づく、どのような力かである。法に基づく力。暴力に基づく力。武力に基づく力。政党や組織に基づく力。金や財産に基づく力。道義や正義に基づく力。科学に基づく力。愛に基づく力。武器や機械による力。人脈、血縁関係に基づく力。神に基づく力。英知に基づく力。報道も含めた言論、情報の力。人民の力。力にもいろいろある。

だから、力の源泉が重要なのだ。政治体制の枠組みは、力の源泉がなんによるのかによって決まる。特定の個人の力によるか、正当な手続きによって決められた法によるのかによって本質的に違う。民主主義国にとって権力を行使するための正当な根拠は法である。故に、法源が重要なのである。法が、特定の個人に奉仕するために定められた場合、民主主義国においては、いかなる内容であろうとも、たとえ、人民のための目的でも、正当性を持たない。それは、民主主義国の法源が人民にあるからである。

権力は、治安と国防という二つの働きをもっている。治安を維持する機関が、警察であり、国防を担う機関が軍隊である。

日本人は、この二つの機能を嫌う傾向がある。それは、権力が人民のものになる以前は、この二つの機関は、支配者の権力を守るための道具として使われたからである。

しかし、民主主義国の警察も、軍も、国民を守る為の機関である。ここを明確にする必要がある。そして、それを理念として確立する必要がある。

国家は、権力機関である。国家は、力によって維持され、守られている。その力の象徴が内に向かっては、警察であり、外に向かっては、軍隊である。国家が独立を維持するためには、この二つの力が不可欠である。

民主主義は、圧制者から武力で権力を奪取したことに発する。故に、治安も国防も、民主主義国においては、義務と言うより、権利に近い。アメリカで、銃器を持つのは、国民の権利という発想は、その是非は別に、きわめて民主主義的発想である。無頼漢から家族を守るのは、人民の権利である。また、人民の意志によって築き上げた祖国を守るのは、人民の権利である。その権利によって国民の義務が発生する。

なぜなら、民主主義国の主権は、独立によって守られるからである。自国の独立を自力で守れない国に、民主主義を守ることはできない。なぜなら、民主主義の根源は、人民の意志であり、他国の支配は、この人民の意志を否定する事だからである。

この事を与えられた民主主義国である日本人は、理解していない。圧制者や独裁主義国から国を守るのは、当然の権利である。なぜなら、主権と独立は、民主主義国の存在意義に関わる問題だからである。自国の独立と安全を他国に委ねていては、自国の主権は、保てないのである。

国家の体制は、権力を握った者が決める。故に、国家の独立は、権力を保持しなければ保てない。自分の国を守れない者に主権者の資格はない。故に、国家を守るのは、国民の権利である。

治安の維持は、弾圧を意味するのではない。治安の維持は、人民の権利である。そして、義務でもある。治安の維持は、個人の権利と義務を守ることに主眼がある。それは、民主主義国における権力の根源は、人民と、その原点である個人にあるからである。

治安のために、武装することは、犯罪を想定してだけではない。価値観の相違を前提とした社会においては、争いや揉め事は必然的帰結なのである。統一ではなく、容認を選択した時、法による秩序の維持は、国家の義務となったのである。

権力が不当に使用されると弾圧が発生する。弾圧は、特定の勢力が、反対勢力を抑えるために、権力を行使する事によって起こる。

この様な権力の不正な使用を防ぐために、民主主義国は、原則として分権制度をとるのである。

民主主義国が守るべきものは、何か。それは、人民と人民の意志である。人民の意志は、個人の権利と義務、そして、自由である。そのためには、国家の主権を守らなければならない。国家の主権は、国家の独立によって守られる。国家の主権と独立は、権力によって守られている。

軍国主義や全体主義、国家主義、封建主義、独裁主義者に支配されている時、権力は、その存在自体が悪である。だから、個人主義者、自由主義者、民主主義者は、暴力をもって権力を奪取したのである。倒したのではない、奪取したのである。それが、暴力革命、市民革命である。しかし、当初、力で権力を奪取したことには違いがない。倒しただけでは、革命は成立しない。新たな権力、民主的な権力を樹立しなければ、民主主義は維持できない。それが、正統的、民主主義者の考え方だ。新たな権力を必要としないというのは、無政府主義者だ。故に、民主主義国を建設した者達は、権力を悪だとは見なしてはいない。

ところが、日本人の多くは、権力は、悪だと見なしている。そして、民主主義の根本思想は、反権力、反権威、反体制だと思っている。反権威が高じて反道徳、反社会へと飛躍する。この様な考えによって反道徳的、反社会的行動が、社会の混乱を招いている。しかも、この様な考えをもった者達が、教育界や言論界、官僚界に深く浸透したら、民主主義は内部から腐敗、崩壊してしまう。現代日本の病根がそこにある。我々は、権力の意味を正しく認識をすべきである。そして、権力の功罪を認め、民主主義における権力のあり方を常に監視し続ける必要があるのである。