自他の分別がされた時、同時に内外の分別がされ、
外的世界と内的世界が生じる。
外観と内心である。
内面に空間と世界、状態が形成される。それが心、内心である。
働きはベクトルである。
ベクトルには始点と方向、長さがある。
ベクトルの始点は自己。
方向と長さを決めるのは心の状態だが、心の状態は一次元ではない。二次元でもない。
善悪だけで行動の方向が定まるわけではない。
中国の徳目には仁義礼智忠信孝悌の八徳がある。
その他に真善美があり、それに損得が加わる。
外界の反応を内面の空間に位置づけ、関係づけ、意識し、ウェートづけし、再構成する。
まさに、エンべーディング、アテンション、トランスファーマーである。
善が相対的で絶対的でないとしたら、何を信じたらいいのか。
それは、自己である。
自己は自己善を形成する働きの始点に在るからである。
自己の存在。
自己の働きの原点に戻る。
つまり、自己の存在の在り方から導き出すのである。
自己の存在に信を置く。
唯一絶対なのは、在る。
在り在りて在る。
そして、気づき。
気付く者。
気付いた存在が在る。
そこから意識が始まる。
意識は気付きを認識につなげる働き。
何か在る。
在った。
私は気付いた。
気付きは気付き。
認識の端緒、発端。
気付く以前にあったか否かわわからない。
生まれる以前と死後と同じ。
働いた時に始まる。
後は憶測推測の域を出ない。
憶測、推測が悪いとはいわない。
ただ憶測、推測は、憶測推測として扱う。
死後の世界や、未知の世界を憶測、推測する事は悪い事ではないが、それを前提とする事は私はしない。
前提とする場合は根拠を明確にする。
逆に、ある働きは在るとする。
在る働きをないとはしない。
私は気付いた。
気付いたという事は、私は在る。
そして、私は私。
気付いた。
気付いた時は空。
気付きが働いただけ。
私は私。
私は在る。
気付きは、私は生きているという事実を暗示している。
人は生きてかなければならない。だから気付くのです。
気付いた後は働きが連鎖していく。
沸いて出てくる。
どちらかと言えば化学反応。
だから状態、状況、直線的論理ではない。
どちらかというと熱力学的。
量子論的、物性論的でもある。
最終的には生物学ですからね。
存在は働きである。
働きはベクトルである。
故に始点を確認し、確立する。
始点は私。(Ⅰam、エコ エイミ)
第一に、私は、存在である。存在している。
存在は働きである。
つまり私は働きである。
働きは変化である。
変化は、時間の関数である。
私は変わる。
私は点である。
点そのものには、時間も位置もない。
時間も位置も、他との関係によって生じる。
第二に、私は私。
私は、他の存在を前提として成立する。
私の働きの始点は私(自己)にある。
故に、私は、主体。
これを客体化すると個人にある。
第三に私は自律している。
私の存在は、独立した働きである。
私を制御するのは私であり、私の働きの結果は私(自分)に還元される。
第四に、私は認識の起点であり、始点である。
第五に、私は、認識前提である。あらゆる認識の前提である。
第六に、私を直接認識できない。即ち間接的認識対象である。
第七に、私は肉体を通じて外に現れる。物質化される。
第八に、私は生きている。私はこの世界で生きている。生きるためには肉体を維持する必要がある。
第九に、私は、単独では存在できない。働きを発揮する事も、維持する事もできない。
存在するためには他の存在を善手とし、必要とする。認識の働きが典型である。
自己は存在前提、認識前提であり、他の存在は必然。
第十に、私は、一人では生きられない。生きるためには、他者を必要とする。
この人の在り方を土台にして、人間、いかに生きるかを学び続けるのが自分を生きるという事です。
働きから属性が形成されるので属性によって始点は影響されない。
私の始点は空。点。
始点である自己に人であるかないか分別は働かない。
始まりは空。
美醜、貴賤、善悪、真偽、正否、是非、老若、男女、新旧の別もない。
宗教、人種、民族、国の別はない。
人か、犬か、猫か、獅子か、虎か、鷲か、AIかの別はない。
在るのは問いだけで、答えは出ていない。
「いかに在るべきか」という問い。
自己は今という時点にしか存在しない。
この一瞬いっしゅんに自己は発現する。
ただ在る事による働きは時間に影響されない。
問題となるのは、自己が間接的認識対象という事。
そして、自己は存在前提、認識前提であるから働きの結果に対して潜在化する。
自己を直接認識したいという思いが、外に写った姿を自己自体に転置したいという欲求が生じる。
私は、写された自己の姿を自我とする。
自我に捕らわれると自己の働きは変容する。
自己の確立は自覚、自信へと展開される。
それに対し、自己と自我を取り違えると、自覚は自我に、自信は我執になる。
そして、自律は自己喪失になる。
同じ個人を中心とした思想でも
自己を始点とした思想が個人主義で自我を始点とした思想が利己主義。
利己主義は個人主義を借りて蔓延する。
自分は自分の事がわからない。
外に自分を投げ出さないと自分を知ることができない。
認識の究極の目的は自分を知ること。
だから、外に働きかける。
自分の内に籠もっていたら、自分の殻に閉じ籠っていたら、自分を知る機会は訪れない。
自己は認識の始点であると同時に原点、中心。
自己を喪失すれば、自己の原点とした中心軸がぶれて主客転倒の原因となる。
私があなたに、あなたが私にブレる。
個人主義と利己主義の決定的な違いは生きる働きの始点を自己の内に置くか外に置くかで。
個人主義は自己に始点を置き、利己主義は他に置く。
利己主義は自分があるようで、ない。
私は私。
私は、地位でも、富でも、名声、家柄でもない。
評判でも、外見でも、外聞でもない。
私は私。
自分の事は自分の事。
他人の事は他人の事。
他人の容姿、境遇を嫉んでも仕様がない。
自分ができる事で努力するしか。
自分の成果は自分の働きでしか得られない。
この分別の有無が大事。
自己が確立されずに自我に捕らわれると自己を喪失する。
自分がないと自己が他者に乗っ取られる危険性が高まる。
自己を喪失すると自分で自分が制御できなくなり、自制できなくなる。
自分で何も決まられなくなるから、その隙に入り込まれる。
結果、隷属せざるを得なくなる。ゾンビ化である。
言いなりになるしかなくなる。
自己の意識がしっかりしているから自律、自制できるのである。
自分が自分でいられる。
私は私でいられる。
事あるごとに、自分を見つめなおし、自分の在り様を静かに確認する。
自分に問う。
自己の存在の働きは自己実現に帰着する。
自己とは何か。
自己の存在は単独では現れない。
自分は独りでは生きられない。
自己の存在は、他者との関係によって発現する。
自分は、生かされ、生かす、存在である。
そこに自分が守るべき働きがる。
自分を生かす、自分が生かす。
自分を生かす働き(存在)、自分が生かす働き(存在)。
それが自分が守らなければならい存在である。
存在と命と肉体を、自己が媒体となって貫く。
その時、点が軸となる。
この中心軸が自分の在り方の柱となる。
この中心軸が確立された時、はじめて、健全な他との関係が築けるのである。
自覚がなければ自己は働かない。
そして、自分の存在を信じる。
それが自信である。
自信がなければ他を認め、信じ、赦す事ができない。
赦せないのではない。自信がないのである。
自信がないままに他を裁けば、自分が赦せなくなる。
他を生かし。自分を生かす。
自分に生かされ、他に生かされる。
この存在の在り方が自由の働きをと保障し。
平等の働きの根拠となる。
そして、この根底に働くのが愛。
自分が愛する働き(存在)を守る時、自己は実現する。
故に、人は、自分が愛せる存在を探し求める。
誰のために、何のために。
愛されるためでなく。愛するために。
求めよ、さらば与えられん。
求めなければ、何も始まらない。
それが自己の働きの在り様。
愛する貴方を生かす事は自分を生かす事。
何故なら自分は貴方に生かされているから。
貴方を守るのは自分を守りたいから。
その根本は空。
意味もない。
ただ愛している。
私は私を生き。
貴方は貴方を生きる。
それが生きるという事で。
私が私を、貴方が貴方を生きる事が互いを生かす事です。
根本は空。
在るがままに。
