罪悪感って何なのだろう。
最近、世界で起きている諸々の出来事の背景に罪悪感が潜んでいるように思える。
なぜ、人は罪悪感を抱き。
罪悪感故に罪を重ねるのか。
或いは、罪悪感によってしか自制できない。

人は、罪悪感から逃れるすべはないのか。
宗教には罪がつきものだ。
神の恵みに感謝する念より、神罰に対する恐れの方が人を引き付ける。

ありがとうと言うより、許してと言う方が人にとって切実なのである。
愛による絆より、罪による絆の方が強いと言うのか。

人間には、正しさより罪の意識の方がきくようだ。
正しい行いは、すぐに忘れてしまうけれど、罪の意識は、いつまでも心に残る。
忘れたくても忘れられないのが罪。
善行は、つかの間の喜びでしかないが、罪の意識は一生、付きまとう。
罪の意識に人は、絶え間なく苛(さいなま)される。
罪の意識から逃れたくて、人は神を信じようとしているかにすら見える。

一神教には、原罪がつきものに見える。

いくばくかの後ろめたさが人を狂信へといざなう。

人が罪を恐れるのは、罪を犯せば罰せられると思っているからだろう。
罪と罰は、分かちがたく。
人は、死ぬ時、それまで、生きているる内に犯した罪を清算されると。
だとしたら、何が罪だのか、それがわからなければ…。
ぬぐい切れない恐怖に囚われ続ける事になる。
生きる事、死ぬ事が罪の根源に関わるとしたら。

自分が生きる事、死ぬ事は、何が関係しているのだろうか。
それは神に問うしかない。

神を利用してあくどく儲けた者が罰せられないのなら。

人は、肯定的動機より否定的動機に囚われやすいのかもしれない。
人は罪の意識から逃れようと足搔き苦しむ。
罪の深遠は、深く底なしに見える。
人は罪を恐れて罪を重ねる。

秘事。

人は罪を隠そうとする。
罪は、悪い事、恥と感じるからだ。

罪の意識は、秘め事に繋がる。
罪を隠そうとすればするほど、罪を重ねる事になる。

秘め事は、言い換えれば、隠し事。
知られたくない事。
恥ずかしい事。

それは、なにがしかの後ろめたさがあるからで。
後ろめたさというのは、罪の意識。
何に、後ろめたさを持つのか。
なぜ、大ぴっらにする事が憚れるのか。

罪を感じたとしても、必ずしも罰せられる事はない。
ただ、罪は、恥ずかしさを生む。

恥ずかしいと感じるのは欲望。
特に、性欲。

何故だろうね。
性は、本来、神聖で、清浄な行為なのにね。
なぜ、性欲は罪となるのか。
そこには、快楽、暴力、エゴ、、アブノーマル(異常)、強欲が絡むとたちまち罪の匂いがしてくる。
性からおおらかさが消えうせ、隠微な物へと変質する。

恥ずかしいと感じるのは、性にまつわる事ばかりではない。
失敗や過ち、罪にもは恥ずかしさを感じる。
失敗や過ちも隠そうとする。
隠せば、罪はより深くなると言うのに。
隠そうとすれば、嘘になる。
嘘から。義が生まれる。
嘘からもことは出ない。
嘘はどこまで行っても嘘である。
嘘の本質は自分だからである。

なぜ失敗した事に罪を感じなければいけないのだろう。
失敗は罪か。
汚いことして得た成功の方が罪深い気がするのだけれど。

金にも罪の匂いがする。
でも、金に罪があるわけではない。
金に対する執着心が罪を生むのだ。

劣等感や弱さにも恥ずかしさが付きまとう。
人は他人に劣る事に罪を感じる。
それは、他人と比べるからだろ。

人は、臆病、卑怯な行為を強烈に恥を感じる。
勇気のある事を誉めそやし、誇りとする。
つまり、臆病、卑怯は罪である。

罪を感じなければ罪悪感から逃れられるのか。
しかし、破廉恥ななればいいと言うわけではない。
恥知らずは違う意味で罪である。
恥を感じなくても罪は罪だからである。

仏教徒は空と達観するけどね。
中世、悟りと言いながら、坊主も相当あくどいことをしている。
善良と罪とは無縁なんですかね。

恥ずかしいと言うのは感じる事だ。
そうなると罪は知性ではなく、感性の問題なのかもしれない。

このような罪悪感を利用しようとする者がいる。
恐れ多い事に、彼らは神を利用する。
宗教には罪悪感を持たせる事が有効だから。
罪に恐れおののく人の弱さを利用して神を信じ込まそうと画策する。

しかし、神は、罪悪感とは無縁である。
罪を感じるのは自分にたいして、神に対してではない。
神に求めるのは救いであり、許しである。
しかし、自分が本心から、罪を認め、悔い改めない限り、神の許しは得られない。
罪の根本は自分だからである。

罪悪感って何だと思います。
統一教会とか、ウクライナとか。
戦争とか、どこかに罪の匂いがするのですね。
自分には…。
罪悪感を、なぜ、人は感じるのか。
罪悪感を感じるからこそ。
その罪悪感を巧妙に利用する者がいる。
そして、罪の裏に罰があり。
罰を恐れ人は、正し生き方を懸命にしても。
それがむくわれる保証はどこにもない気がする。
正し生き方と言っても、何が正しいのか確証すら充てられていない。
共産主義者だって、自由主義者だって自分が正しいと言い張る。
ユダヤ教徒も、キリスト教徒も、イスラム教徒も自分が信じる神こそ正統だ主張する。

残忍行為をする者が、栄華を得て。
真面目に働いている者が損をしているようにも見えて。
それでは、正義とは何か。
このまま人間が罪を重ねても、罰せられる事もなく。
結局、同じだとしたら。
泡のように消えていくのだとしたら。
何を信じてと、迷いが生じるのですね。

だから、いま一度、自分に問うてみた。
なぜ、人は罪を感じるにか。

結局、罪悪感の対極にあるのは、幸福のような気がする。

なぜ、俺は、幸せになれないのかって。
でも、それは罪とは無縁なんですよね。
本当のところもっとアケラカンとした事なかもしれません。

一見、罪と幸福とは結びつかないように思える。
しかし、罪悪感に囚われていたら、人は幸福にはなれない。
不幸の種が罪のように思える。
自分が幸福になれないのは、何か悪い事をどこかでしたのではないかという強迫観念。
それが罪を感じさせるのではないのか。
結局、罪悪感も自分に内在している。

なぜ、人は、罪を感じるのか。
自分が許せないからで。
自分で自分を許せないのは、他社に向けられた理不尽な暴力、異常、強欲、自分勝手、不正不義、快楽、嘘、裏切り、欺き、卑怯、卑猥、憎悪、憎しみなのである。
そして、自失。自分を取り戻した時に感じる罪。
要するに、おのれに敗けた時、人は、罪を感じるのである。

一つ言える事は、罪悪感とは、自分に向けられた感情だと言う事。
だから罪は自分を責め続ける。

結局、自分を欺く事なのかな。

あるがままに自分を受け入れ、純に生れれば、罪から解放される。
その為には、邪悪な自分に克たねばならない。
無垢なる魂を取り戻す必要がある。

最も、許しがたいのは、人の罪悪感に付け入る奴。
しかも神の名を使って。
しかし、彼らは、罪悪感すら持たないのでしょう。