経済は、個人が基本単位となります。
ここで注意すべきなのは個人は、幾何学上の点に相当します。
そして、ここで存在の働きが作用しまし。
即ち、個人は他から独立した始点(自立・自由)。
個人は他と線で結びつく。(共存・平等)。
自他を結びつける線は双方向の働き(協働、愛)を意味する。
この三点で、個人の働きはベクトルとして表現される。
そして、個人は自己を客体化した働きで、肉体によって外の現れる。
故に、外に向けた働きには肉体の属性が作用する。
それは、飲食、自衛、集合、生殖を本とする。これが、経済のコアとなる。
食べるという言葉があるから食べるわけではない。
生きるために言葉を知らなくても食べるのである。
そして、食べるという言葉は世界中にあり多様である。
英語だって、中国語だって、フランス語だって、ヒンズー語だってある。
先ず、個人の働きを属性から捉えると。
第一に、生きる為の活動(衣食住)を獲得する働き。
第二に、身を守る働き。
第三に、種を保存、家族を形成する働き。
個人が肉体を使って働きを発揮しようとする時、動機、原動力として欲が働く。
経済を動かす動機は欲で、欲から肉体を保護するために、欲を制御する働きとして内には倫理、外には法が働く。
過度な禁欲は政治経済の活力を奪い、貪欲、快楽主義は、自他の関係を破壊する。
どちらも愛の働きに背く。
現代経済のシステムはなぜ。正常に機能しないのか。
なぜ、何を、どこで、どのように間違ったのか。
一番の問題は、現象に囚われて、場の働きを見ず、現象(結果)を自分の都合のいいように解釈している。
本来、数式は、原因をあらわす科学モデルだが経済学の数式は結果で成り立っている。
故に経済学は科学として成立していない。場の深部に認識が及ばない。
一つ、対処療法になりがちである。
一つ、部分を見て、全体が見えていない。
一つ、双方向の働きが見えない。
一つ、個人の働きの始点が属性における、高度な合意仮説に基づく。
一つ、内部取引と外部取引が連結されていない。自他、内外の分別が働かない。
内部取引から生じるのが利益である。
利益は利益だけで成り立っているのではなく対極にある損失との関係によって成り立っている。
利益至上主義が、正負、過不足の関係に歪みを生じさせている。
経済の基本的働きは、
入り、出し、貯める。
残、過剰、不足。
貨幣はこの経済の働きを可視化する手段と考えていい。
貨幣によって可視化できる働きと、貨幣だけでは可視化できない働きがある。これが重要ですよね。
同時に、貨幣は、貨幣独自の働きも派生させましたからね。
基本的に貨幣は情報の手段ですね。そして、価値をデジタルの数値情報に変換する手段でもある。
貨幣は経済活動の過程、結果的に手段化したのが、本来の経済の働きを支配している。
しかし、経済を動かす基本単位は個人の働きにある。この点を本来の働きに戻す必要がある。
所有権は、個人と集団の生存権と生存範囲を根拠にして発生する権利だと思う。
そして、この設定、初期設定の設計思想、主権者をどこに、どの様に置くかが国家思想の基本となっている。私的所有権は個人の働き抜きには語れない。
個人の自立の根拠、拠り所になるから。
生産手段にもかかわってくるし。
要は主体と対象と範囲。
それと経済単位。生活共同体を一つの単位とした場合。
私的所有権の主体、範囲、対象、責任を定義するかが自由主義、社会主義、共同体主義、国家主義、全体主義を実体的に区分していると考える。
表面的には観念的な主義主張で語られるが。
今日、個人に収斂させようとする傾向が強いが、それが、いろんなところで軋轢を起こしている。
つまり、生活圏、生活共同体としての家族との間で。
それで、私は、経済の最小ユニット、単純に個人に置くのではなく。
夫婦(法的というより実体的)と親子という関係範囲に置く方が妥当と考える。
そこが純粋に個人を経済単位にすればいいする考えと一線を画している。
税制、問題もふくめ。単純に個人の集合とするのは無理がある。
それに、個人にすべてを帰すのは存在の働きからも問題。
自律、共存、協働という働き、生産、分配、消費というプロセスと局面の様相からしても。
ただここは国家思想の核となるから。一律一様には扱えない。
誤魔化さずにこの点にこそ建国の理念、契約を前提にすべきで。
共同体という概念をハッキリさせるべきで。それは、個人は自律した個。それでいて単独では存在できない。種は生せないという事実から考えるべきで。そうなると夫婦、親子の関係を一つの基本単位として見ざるを得ない。税からしても。
共同体こそ個人の働きを本に考えるべき。簡単に親子の関係でけでは定義できない。原則は夫婦は他人。
共同体内での序列、階層が社会制度や国家制度、慣習などを基礎的なところで規制している。
そして、親子という関係以外に兄弟姉妹という関係がある。
これが婚姻制度や、家族制度、社会制度、国家制度、教育制度、産業構造の下地になっている。
表面的には宗教や思想が前面に出るが、実体は共同体在り方、働きにある。
男系、母系、男尊、女尊、長子相続と言った在り方が、宗教と絡んでその社会の基礎的構造を歴史的に形成する。
個人に働きを一般化、敷衍化できないから、個人を基本単位にせざるをえない。
その上に自他、内外の働きが作用して生活圏が形成される。
夫婦(内外)親子(縦)兄弟姉妹(横)祖父、祖母、叔父、叔母、伯父、伯母。
女が内に入って、母子が柱になる。男は外に備えて、女は家内を守る。これが基本的形。
夫・妻・子、父・母・子。この三つの要素だけでも組み合わせ六ある。
だれを序列で一番先にするかは決まっていない。
自他、内外の境界線も決まっていない。
ただこれらの組み合わせが作る構造が家族制度、社会制度、国家制度などを形作ていく。
位置と関係と働き。
父・母・子の序列の組み合わせは、父・母・子。父・子・母。母・父・子。母・子・父。子・父・母。子・母、父の六通り。
そして現代社会は子が実権を握っている例が多い。
この序列は、年齢や家庭内の力関係が絡む。
在り方を見る事です。
仁義礼智忠信孝梯の仁義礼智は内面の働きを現し、忠信孝悌は外的関係の働きを現す。
忠は主従、政治、信は朋輩、孝は親子、梯は兄弟姉妹を現す。
主従は必ずしも上下関係でとらえる事は在りません。権限、責任の関係でも。
職責に忠実という意味で。
孝も親の言いなりになる、無条件に従う事を意味しません。
忠信孝悌も双方向の働きで一方的働きではない。
序列、優劣をつけるのはその社会の作法で、働きそのもにあるわけではない。
女が内に男が外にというのも存在の働きからくるのではなく。
属性から一般にそういう分担になる事が多いという事で。
女には出産育児という働きが在るから。
又内外に優劣があるわけでもない。
あるのは位置と働きと関係。
ただ、局面ごとにそれぞれの配置、役割を一つに決めて定めなければならない。
そこに、指導者、リーダーの働きが在る。
ただリーダーの役割は直接決めるだけでなく、決め方を決める事もある。
要するにあり方が原点に働く。
野球でいえば、監督には監督という役割に伴う働きと権限があり。
審判には審判の役割と働きが在り、投手には投手の働きが在り、それに伴う権限がある。
投手を交替させる権限は監督にあり、試合の開始を宣言、ストライクとボールの判定に権限は審判に在り。ボールを投球する権限は投手にある。
監督はボールを投げる事はできない、審判は投手交替させることはできない。
投手は、試合の開会宣言はできない。
問題なのは誰がルールを決めるかで、そこの手続きが鍵なのです。
個人の働きで重要になるのは、自他、内外の区分である。
そしてこれは自己の働きを拡大した生存圏にも適用される。
つまり、家族、世帯という共同体、企業という生産共同体、国家という運命共同体にも拡大され自他、内外の区分がされ。
それが安危の分別にも適用される。
ここで経済上の重要な働きは家族、世帯に働く内外の機能である。
基本的に外は貨幣的空間で法的空間、生産的場、内は非貨幣的空間で、倫理的、消費的場。
この違いが経済では重要な働きを持つ。
一番に言えるのは、家内労働、家事労働、消費労働は非貨幣的労働に見なされる。
家内労働に従事して主婦が外で働きだすと家事の外注化が進み、家内に市場経済、貨幣経済が侵入してくる。
この点を理解していないと経済は見えてこない。
男女同権は女性の男性化を意味するのか。
本来女性の仕事とされてきた、出産育児、家事労働の再評価を意味するのか、
その点を見落とすと消費労働、消費経済が衰退する。
市場は外部経済で、本来化外にあり、故に自由空間(非倫理的空間)。
また、境界線上に位置していた。
市場の自由というのは倫理的制約を受けないという意味で自己の働きを根拠とした自由とは異質。
故に貨幣や法は市場から発生したとみられる。
貨幣は倫理的制約を受けない。
倫理とは人の倫理だけを指しているのではない。
内外、自他の分別を言う。
自他、内外の分別があれば、安危の分別が働くようになる。安危の判断こそ倫理の源泉。
内部取引と外部取引の接続が経済を生む。
経済を動かすのは過不足と時間差。
利益というのは外部取引の均衡と時間差による内部取引の不均衡から生じる。
さらに、生産、分配、消費のプロセス。
基本的に人の社会は、すべての働きが連結された循環ネットワークである。
集団、組織を制御、統制しようとする働きから政治が生まれ、生きるための活動が経済になる。
経済は分業が深化した結果、生産の場と消費の場が分離し、分配の場、市場が形成される。
故に、生産、分配、消費は、同じ構造を持ち、個人の働きが生産、分配、消費の場を貫いている。
その為に個人の働きは多次元ベクトルを形成する。
個人の働きはテンソルによっても表現できる。
個人の働きが中軸となるから個人の働きを解析する。
分業が発展することで生産の場と消費の場が分離し、それに伴って分配の場、市場が成立する。
経済の働きの始点は、個人である。
経済の働きは個人の働きの延長線上にある。
家族、企業、国家、組織は、個人の集合であり、個人のベクトルによって働く。
個人の生存範囲を拡大した共同体、例えば、家族、企業、国家の働きは個人の働きを拡大した働きである。
個人の働きは肉体から発する。
個人の働きは衣食住、そして、自己実現の方向に向かう。
更に、今日は、情報、通信、交通費が加わった。
衣食は、費用に、住は資産を形成する。
企業は単体では成り立たない。
企業を動かしているのは「入」と「出」である。
故に、全ての勘定科目は、「入」と「出」で内外の勘定科目に連結されている。
そして、外部取引と内部取引で連結されていて、個々の取引は零和均衡(対称)している。
それて、この関係はネットワークと流れを生じる。
生産の場は職場、消費の場は生活の場。
分配は生産の場で組織的に支払準備である「お金」をを配分し、消費も場である市場で「お金」と生産財を交換する。企業は、市場で売上として費用を回収し、生産過程で所得として組織的に分配する。
損益は、内部取引の時間差による不均衡、非対称から生じる。
企業の内部取引は試算表に現れる。
企業の内部取引は、試算表に現れる。
ここが一つの鍵なんです。
言い換えると、決算仕訳に秘密がある。
決算仕訳というのは利益を出すための操作を意味する。
つまり、利益至上主義が生み出した操作なんです。
収支が均衡するために、期間利益をだす事が目的化して。
期間損益を計算するために収支を期間損益から切り離すしかなく。
本来儲け、残高を現すべきところを無理やり利益に置き換えた。
長期資金の働きと短期資金の働きを区分すること自体には意味があります。
しかし、利益が目的化する事で事態は違ってきます。
負の働きは悪いと。つまり、損益の働きに善悪の働きが混入した。
そして、負債と費用なネガティブな働きとして退けられてきた。
費用は、必要悪とか、犠牲とか。
そして、利益を出すために経費削減が目的化された。
また負債の返済は、経常されなくなった。
そして、収支は二の次とされたが、実際は資金の流れが企業経営を左右している。
赤字で企業は潰れないが、二度不渡りを出せば企業は銀行取引が停止され,事実上清算される。
負の働きが悪いのではない。
負の働きを隠そうとしてかえって負の働きを蓄積させたのが悪いのだ。
負の働きの対極には正の働きがある。
正と負の働きは表裏一体で、正が良くて負が悪いというのではなく。
方向が違うだけで同じ働きであり、方向のよって結果が出現するところが違うのである。
何が問題かというと、本来、経済はすべての国民(個人)が生きていくために必要な資源(消費)を必要なだけ生産し(生産)、個人の働きに応じて分配する事(分配)にあります。
貨幣はそのための手段。この目的を実現するするために働きを貨幣に換算しそれを支払準備として分配し、消費する時に市場から必要なだけ購入する。
だから個人。
その為には働きと、個人が生きるためにどれだけの資源が必要か、その為に必要な資金を正確に計測する必要がある。それが費用である。
費用の重要な働きがそこにある。
故に、費用に基づいって価格は決められる。
費用は支出ではない。
又費用には長期的に効用を働かすものがあるのでそれを単位期間に振り分けるのが減価償却。
このような個人の働きを根拠にできなければ、不足を補う為に余剰にしておく必要があるが、人に対して物も金も余剰な部分が時々悪さをするのである。
経済的という言葉には生産の効率とか生産性というだけでなく消費の節約、もったいない、分配の働きに応じたという意味もあるのに。
現在は生産性や効率性ばかり注目されている。
だから経済がバランスを欠いた状態になる。
そして、大量生産、大量消費、そして廉価が目的化される。
なんでも余剰。
その典型が米価、食料、エネルギー。
その為に環境破壊、乱開発、堕落が進行しても問題とされない。
使用目的は無視される。
どれほど倫理に反していてもヒットすれば不問に伏す。
金が総てになる。
余剰資金は余剰資金で経済では余剰資金をためる事は目的ではなく二義的。
二義的だけれど余剰資金が過剰に溜まれば新たな働きが生じる。
「お金」は循環する事で効用を発揮する。
循環は、過不足の振動、波動から生じる。
故に過不足が偏らないようなシステムにする事が求められる。
経済は過不足の振動によって動いていて、その振動を整流し、均衡させるのが経済システムである。
経済の振動は、波動になり、波動には周期がある。
例えば、月給である。月給は一月の周期で過不足の振動を繰り返す。
このような周期には一日、一週間、一月、四半期、半期、一年、二年、三年、一生等がある。
そして、支出の周期は一定、確実で収入は不安定、不確実。
月給は、収入を平準化させたものである。
企業は、不確実、不安定な収入の波を整流する機関でもある。
経済の核心は、飲食である。
生きる為には、飲食は欠かせない。
水と食べ物を毎日、欠かすことなく確保するのが経済の核心である。
食べ物を確保(生産)し、分け(分配)、食べる(消費)。
食べ物を確保(収穫、獲物)するのが経済の中心になる。
食べ物は、毎日、確保しなければならないが一定ではない。
食べ物が不足した時に備えて貯める、保存、貯蔵を考える。
それでも、足りない時は、交換するか、奪う。
これが物の経済。
「お金」の経済は、入と出、貯蓄である。
経済の核は、過不足の振動と蓄積。
物の経済、「お金」の経済、生産の経済、分配の経済、消費の経済は違う。
これらの経済を統合するシステムが経済の本来の在り方。
ボールの行へを追うのではなく
配置、フォーメイションを読む。
過不足がたまる、負債がたまるのは部門間の歪み。
部門というのは、家計、企業、財政、金融、海外の五部門。故に陰陽五行が。
後は資金循環表ですね。
国民経済計算や生産・消費の統計も組み合わせる。これは重要です。
法人企業統計、消費者物価統計(CPI)
これに、会計エンベディング、企業エンベディング、産業エンベディングを活用すれば企業分析、経済分析はかなり精度が高まるでしょう。
経済システムには、均衡状態、在るべき状態に復元しようとする働きがある。
ただ、歪があってもそれが、即、破綻につながるわけではない。
歪があっても、基幹の働きに支障がなければ、破綻しない。
ただ、働きが不安定になったり、偏りが生じやすく。
極端な場合、構造そのもの破綻させる危険性がある。
故に、均衡状態、あるべき状態を基準にし、その基準と現状を対照して歪を測定し、動きを予測して制御することが求められる。
人の体と病気と健康診断のようなことで。
病気だから即治療しなければならないというわけではない。
生活に支障なければ経過観察ということもある。
自己は働きに始点を与える。
分別がはたく時、始点は設定される。
自分が分別に気が付いた時には、すでに始点があって、私の始点を見失う。
同じように自分で気がつく前に意識ははたく。
自分が意識した時、自分の意識の働きが見えなくなる。
個人は経済の働きに始点を与える。
気がつくと経済に個人とは無関係に始点が与えられている。
存在の働きには限りはない。すなわち、無限。
それに対し、自己、個人の属性である肉体は有限である。
故に、始点を与えることで有限な働きに変換するのである。
始点を与える事で働きを限りある働きに変換する。
それによって個人の働きに結びつけるのである。
個人の働きに結びつけることで働きを切り抜き、さらに、分別をして、識別ができるようにする。
すなわち、個性を与えるのである。
価格は市場経済の要の働きである。
価格も物価もベクトルであってスカラーではない。
価格は、多次元ベクトルであり、テンソルである。
大量生産、大量販売、大量消費、使い捨て。
価格の働きを正しく理解せずにただ安ければいいと。
価格は多次元ベクトルであってスカラーではない。
買い手の支出は売り手の収入で。
売り手の支出が買い手の収入になる。
買い手の支出が減りことは、売り手の収入が減る事を意味する。
売り手の収入が減ることは、買い手の収入が減ることになる。
需要と供給の働きは、価格を通じて生産と消費を調節する働きがある。
しかし、価格は、需給だけで決まるわけではない。
企業内部ではコストパフォーマンス、損益分岐点が働いている。
価格には、売りの働きと買いの働きがあります、その均衡したところで成立する。
価格そのものには、分配の働きがある。
買い手の支出は売り手の収入になり、買い手にとっては所得に一部、売り手にとっては所得になる。
一方的に価格を下げれば売り手の所得を減らすことになる。
逆に全体の価格が上昇すれば物価が高騰する。
売り手と買い手の所得が均衡するところが適正価格なのである。
価格を政策的下げればデフレーションを招く要因の一つになる。
全体で固定費も単価でみれば変動費になる。
売上と費用の循環上において価格は決定されるという構造を理解しておく必要があるということです。
つまり、費用が売上に変換され、売上が費用に変換されるというからくりです。
そして、費用は基本的に人件費の塊だということです。だから、分配が成り立っている。
費用の中の原価を分解すると、人件費と経費と仕入れ。経費も人件費と経費と仕入れ。
最終的には人件費に還元される。だから、分配の手段となる。
ということは、費用は人件費、人件費、一人ひとり、賃金。賃金は取得、所得は、税と生活費。生活費は、売上。
ただ、これだけだと付加価値が生まれない。
そこで、期間損益に置き換え、長期的働きと単位期間の働き変換して利益が出るようにしたのが会計。
今期の費用を次の期の売上に変換する。そして、今期の売上を次の期の費用に変換する。
また、長期、短期を分割することで、短期の損益の余地を作る。
つまり、長期周期と短期周期の波動を組み合わせることで、長期均衡と短期均衡を調節する。
そしてこの間に付加価値を加算する。
故に、物価は一定程度上昇を見込む。それが原則ですね。
だから、経済は付加価値。
利益、物価上昇、金利、賃金の上昇、減価償却費。
物価の上昇は、付加価値が生まれることの必然的な結果ではありません。
ここが重要なので。
このからくりを理解しないで市場の働きを競争と錯覚すると、物価が制御できなくなる。なぜならば、市場は均衡を求めて付加価値を圧縮しようとする働きが在るから。だから、需給関係、競争を原理とする思想ははなはだ危険。
何故なら、取引はゼロ和均衡、等価交換を働きとするから。
個々の取引はゼロ和均衡だから、市場取引もゼロ和均衡、貸借も損益もゼロ和均衡、収支もゼロ和均衡。
外部取引はすべてゼロ和均衡するのは構造的問題です。
何故なら流れお金は同じだからです。
子供でも分かる道理です。
だから、損益のからくりを作ったといてるでしょ。
資金の移動と損益は同じではありません。これは私が言った原則です。
貸借取引と損益取引を切り離したのが一つの味噌ですね。
そして貸借に長期的流れと働きを損益に単位期間内の取引の働きを計上した。
物の経済、人の経済、金の経済は違うそれを統合するのが経済システムと言ったはずですよ。
「お金」は食べることも、着ることも、住むこともできない。
しかし、米は調理すれば食べ物になり、消費され。
絹は裁断され、縫い合わされて着物となる。
木材は家になり、船にもなる。
ところが「お金」は「お金」。食べることも、着ることもできない。
「お金」の本質は情報です。
話を戻しますが、ただ、「お金」の働きの還元するとゼロ和均衡してしまう。
これは偏差値と同じ原理ですね。
だから、どこかで差をつける必要がある。
それで貸借と損益を分けた。そこまではわかるのですが、黒字を善とし、そのために無理やり利益が出るような仕組みにした。
それが、借入金の返済額を計上せず減価償却費として圧縮した。
英国では明確にいています。
創作的会計と。
やってならないことは決められているがやってはならない事は書いてないと。
また減価償却の歴史を見れば歴然としています。
単位期間利益を出す目的以外に何が考えられますか。
減価償却費を設定するのは丸々利益にすれば税の配当も莫大になるのと返済原資、更新資金が貯蓄できないからです。実利を離れた経済はありません。
僕は事実から乖離させているから悪いといっているだけです。実利的に必要なら必要だと認めるべきです。費用や借金は必要です。それを隠すとするからゆがむのです。
損失も不足も重要な情報ですが必ずしも悪い事ではありません。問題は内容であり、必然性です。
利益至上主義に落ちるなと。短期利益のために長期的均衡を無視するなと。そこに価格問題があります。
市場の拡大速度、資金の回収期間、そして、設備投資と資金計画、設備償却期間、損益分岐。これらのバランスです。
個人の働きの中でもう一つ大切な働きが集団を維持する働き。
これは、「お金」がかかる。
なぜなら、共益費だからである。
自分だけで片付かない働き。
他者と共有、分かち合わないとならない費用である。
個人の働きから経済は成立する。
基本的に属性である肉体から発している。
第一に生活を維持するための働きで核は、衣食住、それに、最近は、通信、情報、交通が加わる。
第二に、自分の身を守る働き。これは手として学習である。
第三に、種を守る働き。性行為、出産、育児。
第四に、集団を守る働き。これは、組織や国家、税などに発達する。
経済とは、人を生かす働きである。
市場とは、人を生かす場である。
だから、戦争は経済や市場を破壊するのである。
大切なのは生活である。
生活が市場をつくる。
生活は、生きるための活動である。
生きるために必要なのが市場である。
生きるために必要なのはなにか、どれくらい消費するのか。
その消費量から生産量を調節するのが市場の働きである。
個人の存在を発揮させるはたらき。
まず、生活を維持させるする事である。
生活を維持するための働きのうち自分、自分たちで、できる仕事は自分達で処理し、自分たちで、出来ないことは外から調達する。
外から調達するところに市場が形成される。
経済の核は飲食と自分の身を守る事、そして、ともに生きる事。
つまり、食べる事、学ぶ事、そして、愛し慈しむ事。
それが、経済の原点、核心である。
