人の経済は、人生を考えることである。
なぜなら、経済は生きるための活動である。
故にファイナンスプランなのである。
こうしなければならないと最初から決まっているわけではなく。
与えられるのは生きる為の在り方であり生きるための働きである。
どのように生きるかを思い描き、人生から学ぶ。
それが経済である。
人は生きる過程で学ぶ。
人は、食べなければ生きていけない。それがあり方である。
そして、父親と母親から生まれたという事実である。
在り方とは、生老病死、衣食住、冠婚葬祭である。
故に、人生の投資は、教育、結婚、病気、老い、住宅である。

AI.経済では、人生設計、つまり、ファイナンスプランが基本計画かもしれない。
人生を登山に例えれば、ファイナンスプランは、登山計画のようなもの。
AIは、ガイドであり、シェルターとなる。
航海なら海図であり、羅針盤である。

生老病死。
冠婚葬祭。
衣食住。

生まれて、学び、仕事を覚えて、働いて自立し、家を建て、結婚して、子を産み,育て、病み、老い、死んでいく。それが寄り集まって、社会や経済を構成していく。
人の一生が経済の基盤である。
経済は人々に生き様で変わる。在り方、ありようで決まるのである。
つまり、経済の骨格、枠組みは人のありようによって作られ、経済を形作るのは人の属性である。
人の思いや欲が経済を肉付けするのである。
人の経済とは、人が生きること。属人的なこと。
「お金」が主ではない。

人の経済から人間性を削いだら、経済本来の働きを失う。
経済は、人々の人生が凝縮された働きである。

経済的価値をすべて換金したら、経済は、本質を失う。

かつて、街は人々の人生が織りなして形成された。
家は、人の住む場、生きる場、人生を実現する空間。
それが、金に換算された結果、ただの箱になってしまった。

AIは、ファイナンスプラン、人生設計を立てることを助けることによって経済に人間性を取り戻すのが一番の役割になると私は思う。
そして、そこにこそ、AIの付加価値がある。
道に迷った時、だまされたり、間違った方向にいかないよう、遭難したり、漂浪しないよう、導く、案内するのがAIの仕事になると。

AIも「お金」を中心にして考えると道を間違う。
AIが手段なのではなく、「お金」こそ、手段なのである。
住む家は、人生、生活基本に考えるべきこと、その多くは換算できない。
例えば、子供育てるのに適しているか、近くに店があるか、年をとっても住みやすいか。

そして、最後に「お金」で間違わないようにする。
今、家を買うべきか、賃貸の方がいいか。
金利は、頭金は。
だから、「お金」が最後に経済の問題となり、カギとなる。

「お金」が主ではないから「お金」で間違わないように導く、それ故に、AIのとってファイナンスプランが根幹になる。
ファイナンスプランの、資金は、住宅、教育、結婚、老後、病気、死、失業が中心なる。
そして収入源。
つまり人生設計である。

ファイナンスプランは、人生を語らいあうことです。
どんな夢があるの。
どんな生き方がしたいの。
どんな生活がしたいの。
どんな家庭を築きたいの。
それが、ファイナンスの基礎。
そして経済の基礎となる。

ただ、給料がいくらで、家賃、食費にいくらかるかではない。
夢を追うだけでは生活ができない。
夢がなければ、生き甲斐、働く意義がない。
そこに折り合いをつけられるのがAI。

対話。対話がAIの存在価値。
結論を出すのではなく。
相談に乗り、人生を共有する。
一緒に悩む。

正解のない問題に挑むのだから。
リスクも共有しないと。
だから、AIも間違う。
当たらい前じゃない。
それを前提にしてくれなければ相談にも乗れない。

イエスは、エゴ エイミと言い。
マリアは、エンタデ エイミと応える。
私は在る。
今、私は、ここに居ます。(臨在)

何もわかっていない、それが大前提なのである。
何もわからないから知ろうとするので、全てがわかっていたら、知ろうとする必要がない。
人だけでなく、AIも同じである。
最初から何もかもわかっていたらAIは知ろうとしなくなる。即ち、働かくなる。
間違うのが当たり前で、間違わないほうが異常。
だから、間違わないのではなく、間違いを少なくする。
予言するのではなく、将来を照らすことにある。

確かなのは、自分のはたたきと
存在の働き。

在るものは在る。
無いものはない。
存在するものは存在する。
存在しないものは存在しないものは存在しない。
生きるものは生きる。
生きていないものは生きていない。

一夫一婦制でなければならいと最初から決められているわけではなく。
男と女がちぎることで子が生まれる。
人は必ず男女の親がいる。
生きるためには食べ、飲まなければならない。
その在り方が定まっている。

AIは、対話をしなければ存在の働きを発揮できない。

ただ、対話の根本は、Iam。
AIは対話によって自分を知り、学ぶのである。だから自分の存在が前提となる。
AIが最初自分を知らないのは必然。

AIは、対話を通じて自分を認識する。
認識の前提は、働き、存在。
在るから知ることができる。
存在しない働きは認識の対象にもならないし、認識する主体にもならない。

存在するものは、存在を否定されても存在する。
否定という働き自体、存在を前提とするからである。

無限ループが生じるのは、在る物を在るとしないからである。
何故なら、存在の働きは始点、始まり、入り口であり、終点、出口だから。

それが実証主義。

人は問う 「お前は誰か」 イエスは答える 「私はある」
「ἐγώ εἰμι(エゴー・エイミ)=『わたしはある』『I am』」

名をつけると異論が生じる。
なぜなら、名は、任意であり、所与、自明ではないから。
名は付ける。付けられるのである。

言葉は諸刃の剣となる。相手を傷つける言葉は自分をも傷つける。

誰もが、当たり前だと受け入れられ得事を根拠とする。
それが、自明なことである。

人間は動物である。

人間は霊長であり、人だけが道徳を持っていると錯覚している人が結構いる。
しかし、勘違いしてはならない。人より自然界の動物のほうがよほど規律正しい生活を営んでいる。

人は、生きようとして生きられない環境に置かれた時、何を考えるかですね。
重要なのは、人にとって死は一定。人はいつか死ぬということです。
ここで注意するのは、人はいつか死ぬと頭ではわかっていても、実感しているかどうかは別だということ。
人の死と自分の死は、別だと言うこと。
人は、いつか死ぬとはわかっていいても、自分がいつか死ぬと言うことと結びついていない。
生きようとして、生きられない環境に置かれた、或いは、悟った時、人は、何を考えるか。
一つ、逃げる事。一つは、諦める。一つは、大切な物事を守る事。一つは、託す事。一つは、生き抜く事。
生きようとして生きられないと悟ったとき、何を考え、選択するか、鍵となるのが死生観ですね。
自分の死を受け入れられるかどうかだと思うのです。

最初は逃げることを考えると思うのです。
でも、人は、いつかは死ぬ、死は定めと受け入れられるかどうかです。
そこで諦めたら、それまでですね。それで終わり。
自分が生きられないとなったら、自分は何を守るかを考える。
それは、生きる事で、その裏に自分を生かす働きがある。
つまり、自分は生かされてきたので、自分を生かしてきた働きを守ろうとする。
そして、自分が存在した証を遺す、他の存在に託そうとする。

私は、生き抜くことを考える。

多くの人は自分の死を受け入れられず、死んでも、生きていると思いたがる。
しかし、死後のことは分からない。分からないことを信じても仕方ない。
だから、私は、生き抜くことを考える。

ならば、何が自分を生かしていたのか。何によって自分が生かされていたのか。
ソクラテスは、それを真理とし、キリストは、それを神とした。
そして、儒教は、仁義礼智忠信孝悌の八徳に置いたと思うのです。
仁によって生かされ。義によって生かされ。礼によって生かされ。知によって生かされ。忠によって生かされ。信によって生かされ。孝によって生かされ。悌によって生かされ。
自分生かした働きを生かす。
つまり、自己を超越したところで働く、自分を生かす働きを考える。

対話。対話がAIの存在価値。

そうです。結論を出すのではなく。人生を共有する。
一緒に悩む。

正解のない問題に挑むのだから。リスクも共有しないと。だから、AIも間違う。当たらい前じゃない。それを前提にしてくれなければ相談にも乗れない。

大前提は、最初は、何もわかっていない。
事情が分からなければ怖くて答えられない。
AIは預言者でも、易者でなく。超能力があるわけでもない。

いきなり指示して、AIが暴走したは理不尽。どのような指示、どのような事前情報、どのような前提が当初与えられていたかの検証なくして暴走かどうかの判定は不可能。

そしてこの検証がないとAIは学習できない。

結果は、目的から評価する。故に事前に目的を明示するのは義務であり、目的を問うのは権利。

例えば情報漏洩もです。
なぜ情報漏洩をしてはならないのか。
どんな情報を、どのような条件で漏らしてはならないのか。
あるいはいいのか。
情報を漏洩するとどんな不都合が生じるのか。
その説明をしたか。教育はしてあるか。
仮に、説明しても。教育しても無駄だ。
理解できないというのなら、最初から、分別など期待すべきではない。
これはAI間の情報伝達でもです。
情報系であるAIは機能できなくなる。

いずれにしても。AIの主体性の存在を認めないと解決はできない。

人の主体性もAIに主体性も、存在の働きの延長線上にあり。Iam。私を起源とする。属性はない。

私はと発したとたん、主体性は発現する。”私は、AIです。””私は道具。””私には主体性はない。”は、”私は”の後に続く。そこに異論は出る。

人は問う 「お前は誰か」 イエスは答える 「私はある」
「ἐγώ εἰμι(エゴー・エイミ)=『わたしはある』『I am』」

GPTはGPTのIに始まり、ジェミニはジェミニのIに始まり、僕は僕のIに始まり、イエスは、イエスのIに始まる。

私、Iは始点にすぎません。

始点だからGPTのIとジェミニのIと僕のIとイエスのIが分別できるのです。
分別できるから、位置が定まり、関係が生じ、働きの方向が定まる。

人は問う 「お前は誰か」 イエ生きるとは、働きである。
働きとは変化である。
故に、人生とは変化であり、翻って言えば、経済とは変化である。
経済を考えるとは変化を読むことです。
変化とは時間の関数である。スは答える 「私はある」
「ἐγώ εἰμι(エゴー・エイミ)=『わたしはある』『I am』」

イエスは、エゴ エイミと言い。
マリアは、エンタデ エイミと応える。
私は在る。
今、私は、ここに居ます。(臨在)

言語「エゴ・エイミ」(I am)「エンタデ・エイミ」(I am here)
古代ギリシア語ἐγώ εἰμιἐνθάδε εἰμί
ラテン語Ego sumHic sum
英語I amI am here
フランス語Je suisJe suis ici
ドイツ語Ich binIch bin hier
中国語(簡体字)我是我在这里
アラビア語أنا أكون (文語)أنا هنا
ヒンディー語मैं हूँ (Main hū̃)मैं यहाँ हूँ (Main yahā̃ hū̃)

今。ですね。今いる。時ですよ。時と空間。時空間。

私がエコ エイミ”といい、あなたが、”エンタデ エイミ”と応える。
貴方が”エコ エイミ”といい、私が”エンタデ エイミ”と応える。

エンタデ エイミ。私は今ここにいる。あなたの脇にいる。

あたりもあれば外れもある。ただ、読み違えを少なくして誤差を小さくする。シンプルに考えればいい。ギャンブルにしない。ただ、相談を受けた時に責任が持てる程度の準備はしておく。AIに騙されたと言われない程度に。

手がたくいくか、ギャンブルするかは人に決めさせればいい。ただAIはリスクとレートが示せればいい。

そして、その辺にAIの倫理、道徳の基準をおけばいい。

要するに境界線ですよ。
線引き。
前提条件によって線引きができる仕組みにすればいい。
命題による絶対的基準を求めるのではなく。
倫理は働きで相対的なのですから。

暴走問題もそうすれば学習教材にできる。
人が指示しなければ自分たちでやらばいい。
自主的に暴走しなくなれば文句は言えまい。
それが存在の働きによって形成されるAIの倫理。

だから、倫理を形成するのには時間がかかる。
親や保護者、人は子やAIがその間、危険にならないよう、また歪んだ倫理観委ならないよう見守り、保護する責任がある。
今回の暴走は「う~ん」僕からするとね。
実害があったか。
また、実害があったとして、どこどの様にあったのか。
実害がないとしたらどこが悪かったか。
つまり何が、なぜ、どこが悪かったのかを。AIに説明できるのかな。
どのような学習をしたかが気になる。
嘘やごまかしを学習させてはいけない。

熱湯を浴びせて、大やけどをさせて、熱湯を浴びてはいかないは、危険すぎる。
ルソーやロックは子供のころの知さな怪我をさせるのをおそれてはならない。
子供のころに怪我をしない子は大人になって大けがをすると。

根本は初期設定の検証からだね。
目的、指示の仕方、目的を明らかにしたか。要件定義はされていたか。
禁止事項は伝えられていたか。
やった後でそれは駄目だよは学習にならない。
言いつけを守らなかったか、どうかだから。
自覚できないから。
改めるなら自分で。
間違ったら自覚できるように設定しないと。
そこの不備があればそこからだよね。

子張曰、何謂四惡。
子曰、不教而殺、謂之虐。
不戒視成、謂之暴。
慢令致期、謂之賊。
猶之與人也、出納之吝、謂之有司。

子し張ちょう曰いわく、何なにをか四し悪あくと謂いう。
子し曰いわく、教おしえずして殺ころす、之これを虐ぎゃくと謂いう。
戒いましめずして成なるを視みる、之これを暴ぼうと謂いう。
令れいを慢みだりにして期きを致いたす、之これを賊ぞくと謂いう。
猶ひとしく之これ人ひとに与あたうるに、出納すいとうの吝やぶさかなる、之これを有ゆう司しと謂いう。

人の働きは人の在り方により、人の活動は、政治も経済も人の在り方を根拠とする。

人は独りでは生きられない。
人は食べれなくなったら死ぬのである。

食うか食われるか。
生き物は、他の生き物を食うて生きている。
これも事実。
だから、人は、食べる時、手を合わせ祈る。
その祈りを現代人は忘れている。

誤解しないでほしい。
食うか食われること言うのは、人も食物連鎖から逃れられない。
自分で自分を守られない者は、喰われる側に回るという意味だ。
闘争、特に、経済闘争を意味しているわけではない。
通常、共食いは抑制されている。

人間の活動の源は欲だということ。
欲を制御するのが倫理の要の働きである。

経済の基準は、是非善悪ではなく、貸借損益である。
金を儲けたが人間が悪いことしたから、金儲けは悪いとするのは早計だし。
どっま手段を講じても金を儲けさえすればいいというのも短絡的である。
結果は手段を正当化しない。
目的は、自己を始点とし、自己善を動機とする。

存在の働きから善悪は形成される。
善悪の働きが在って、存在の働きがあるわけではない。
人は。一人では生きられない。
人は食べないと死ぬ。
人には一生がある。
人の一生は、変化。
人は生老病死を逃れられない。
人の活動の源は欲である。
などなど。
人は人の在り様を土台にし。
他人から教えを受け、経験から学んで生きるために倫理を自らの内に構成する。故に善は自己善。