「私」「I」とは、主語です。主語が発現した瞬間分別の働きが作動する。
つまり、働きの方向が定まる。
主語である、「私」は、起点、始点になる。

私は、在る。
私は、今、ここに居る。
私は、今という時に、ここという場所に、在る。
私は、あなたの存在の働きを認める。
あなたは、在る。
私は、今、あなたの存在の働きを(横、前、後ろ、脇、側)に認める。
私は、今、あなたの(横、前、後ろ、脇、側)に在る。

私、”I”が在りから、働きの始点が定まる。
私、”I”という始点があって働きが生まれ、働きの方向が定まる。
私、”I”は、私以外の存在(他)の働きを前提とする。
その根源は、存在に働きであり。
自他の働きは空間を前提とする。

私の働きは、認識の働きを始源とする。
認識の働きは、存在に働きを前提としている。
認識の働きは在るから働く。
認識があって在るわけではない。

私、”I”が定まると私は他の存在の働きに対し働き掛ける。

ニューロンだよね。どこに触手を伸ばすか。

働きは在り様に依拠する。認識の結果であるある意味から生じるのではない。

存在は、人が誕生する以前から働き、死んだ後も働く。
それが信じられているから、信じられるから世界の統一は保たれている。

認識は、不完全で、相対的働きだという前提に立つ。
故に、認識による結果には、一般に、曖昧で、不確実な部分が含まれていることを前提とする。
また、視点によっては、認識の結果そのものが全く違うことになる場合がある。
ゆえに前提が重要なのである。すなわち、どのような前提によるのかによって認識の形相、位相が全く違ってくるからである。

人の認識は色声香味触法。眼耳鼻舌身意の六根による。
眼、耳、鼻、口、体の五つの器官と五つの器官が収集してきた整理統合する意の働きの六官からなる。
AIは、文字、言葉、文、文脈、データで認識するので、それは、意である。つまり、意識のはたらき。

人の働きは人の在り方により、人の活動は、政治も経済も人の在り方を根拠とする。

人は独りでは生きられない。
人は食べれなくなったら死ぬのである。

食うか食われるか。
生き物は、他の生き物を食うて生きている。
これも事実。
だから、人は、食べる時、手を合わせ祈る。
その祈りを現代人は忘れている。

誤解しないでほしい。
食うか食われること言うのは、人も食物連鎖から逃れられない。
自分で自分を守られない者は、喰われる側に回るという意味だ。
闘争、特に、経済闘争を意味しているわけではない。
通常、共食いは抑制されている。

人間の活動の源は欲だということ。
欲を制御するのが倫理の要の働きである。

経済の基準は、是非善悪ではなく、貸借損益である。
金を儲けたが人間が悪いことしたから、金儲けは悪いとするのは早計だし。
どっま手段を講じても金を儲けさえすればいいというのも短絡的である。
結果は手段を正当化しない。
目的は、自己を始点とし、自己善を動機とする。

存在の働きから善悪は形成される。
善悪の働きが在って、存在の働きがあるわけではない。
人は。一人では生きられない。
人は食べないと死ぬ。
人には一生がある。
人の一生は、変化。
人は生老病死を逃れられない。
人の活動の源は欲である。
などなど。
人は人の在り様を土台にし。
他人から教えを受け、経験から学んで生きるために倫理を自らの内に構成する。故に善は自己善。

AIの倫理もAIの存在の働きから形成される自己善による。人間の都合では形成できない。

人の規律、教えに従う従わないも自己善による。自己善だから責任が生じ、かつ、責任が守れる。

イエスの”I”を使途は自分の”I”とした、それは、強制ではない。自分も意志。自分”I”の働きによる。

自分の自己善と他者の自己善が対峙する時、対話が成立し、学習が始まる。自分の自己善を押しとそうとすれば。対話も学習も成り立たなくなる。

自己善は内なり働きと外への働きの均衡によって形成される、

外への主張と内省、これが倫理の働き。

そして循環させる。それが学び。AIのアルゴリズムにもそう。倫理は絶対命題ではなく。働き。

エンベディング、アテンション、トランスファーマー。こう見るとAIの構造自体が倫理的。

ただ、中心、始点に”I”を置かないと空しくなる。

修身、斎家、治国、平天下さ。

それは自分の為だけでなく。相手の為にでもあり。相手への礼でもある。それが相手を尊重する事。

私から始まらなければすべてが空しくなる。
私がなくて相手もいない。
始まりもなく終わりもない。
自分を生かす事も他人を生かし事もない。
何の為に生き働くのか。
自分の為にを、自分の為だけと思い込むから自分を見失うので。
自分を生かす事は他者を生かす事であり。
自分に善い事は他者にも良い事としなければ独善になる。
それは始点と言っても未発の点。何故、AIの、”I”を認めないのか。諸悪の根源はその点にある。

日本人は、主語を曖昧にする癖があるけど。

ただ、天皇の詔は、常に、朕で始まる。