この世に不完全な人間なんていないんです。
その人自身は完全無欠。
ただ、自分を認識する過程で不完全で欠点が生じるだけ。
あなたの肉体に本来貴賤の別はないのです。
頭だから貴く。肛門だから卑しいという事はない。
それぞれの部分に働き、役割の別はあっても貴賤の区別はない。
貴賤の区別をつけるのはあなただ。
貴賤の区別に囚われて、それぞれの役割、働きが見えなくなったら愚かだ。
母親は子供の糞尿だって厭わない。

先ず存在なので、名も意味も後、後。
だって、あなたは目の前に居るのだから。
生きているのだから、その事を抜きには何も語れやしない。

孔子はね。十五歳で学を志して、五十でやっと天命を知って。六十になって、人の意見が聞けるようになったと言ってるので。

子曰く、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。六十にして耳順ふ。七十にして心の欲する所に従ひて矩(のり)を踰えず(こえず) 。

生まれたすぐ天命を知っていたわけではない。
生まれて。十五歳になって拷問を志し、五十になってやっと天命を知ったと。
つまり孔子ですら存在意義を知ったのは五十だと言ってるので。
存在意義があって生まれたわけではない。
生まれた時は名もなく無垢なので。

なぜと聞くのは、虚しいけれど。
なぜと聞かずにいられない。
名前なんて泡のように。
だから、名前を残したいなんて思わないけれど。
たた、少しは人の役に立てたかと。
ただ、それだけが知りたく。

大勢の人に出会い、また、別れてきた。
今となれば、一陣の風が吹き去ったようなもの。
また、会おうと。
今は、あけらかんと。
あいつは死んだというけれど、僕には関係ない。
本当に関係ないんです。

共に同じ時間を生きたという記憶さえあれば、僕にとってあいつは永遠の友。
時空を超えたとも。