意味もなくパワハラやセクハラはいけない教育しなければという人いるけど、それは、親が子供をしかったり、躾するのは、虐待だから、叱ったり躾は悪いいう様なもの。
その前に、何故、親は子を𠮟ったり、躾けたりしているのかをハッキリさせないと。
何が何でも、親が子に厳しく躾けるには、悪いというなるし、今、引きこもりになったり、ニートや不登校、また、社会に出て、社会に適合ができないで転職を繰り返す方が問題なので。
最近の事件、猿之助とか、新宿で首切り殺人事件に異様で、不気味、薄気味悪く感じるのは、従来の親子関係から考えられないからで。
本来、静止しなければならない親が、静止するどころか、子の言いなりになり、隷属しているように見える事。

本来の親子の役割が転倒してしまっている。
昔は、どんなに出世しても、親は親だったけど、今は、成人する以前から、親が子に遠慮し、怖れ。
かしずいているようにすら見える。

昔の親は、子に親が厳しくするのは当たり前で、聞き訳がなければ、人前でも、お尻をたたいたものだ。
それができない親が、躾ができないと。
子が犯罪をすれば親の顔が見てみたいと。
躾けや叱る事が悪いのではなく、どんな考え、方針で叱っているか、躾けているか。
この教育方針は、夫婦、親子でも譲れない。そこが肝心なので。

パワハラが悪い、セクハラが悪いというより、トップの考え、会社の方針があっての事で。
そこを明確にせず、やみくもに言葉尻をとらえて、ヤレパワハラだ、セクハラだとやったら、現場で、部下指導をやっている、職長が、怖くて何もできなくなる。
それは、社会適合のできない子を育てたり、親子関係を逆転させるのと同じで職場の規律や統制はあっという間になくなる。

家族が崩壊した背景には、三歳児でも、極端な場合、生まれてすぐに子供は、大人と同じ分別があるのだから、自主性、主体性を尊重し、子供意見、考えを聞いて尊重しなければならない。
なるべく、親は干渉せずに、自由放任すればいい。子供が嫌がる事はさせない事とした思想にある。
そんの事、どれほど非現実化、実際に子育ってをしている母親なら誰だってわかる。
子育ての現場を知らない学者だから言えることで。
新宿の事件の父親が、精神科の医者だというのが何かを象徴している気がする。

パワハラ、セクハラを問題にする前に会社のあるべき姿を明確にし、それに基づいた教育を考えるべきで、そうすれば、自ずとパワハラもセクハラもなくなるはず。
根本の考え、思想が間違っていたら、いくら外見を整えて、取り繕っても、却って問題は深刻化する。

最近は年長の者を呼び捨てにして、若者をさん付けで呼ぶ。
おかしくない。
おかしくならない。

規則や、ルールを厳しくすると働きにくくなると言うのは思い込みで。
働きやすさと規則を厳しくすると言うのは、基本的には関係ない。
先ず、働きやすい環境というのは、どういう環境を言うのか明確にする。
働きやすいと言うのは思想で。
例えば、それぞれの人の能力や実力が発揮できて適切の評価されている環境を言うのか。
それとも、みんな仲良く、同等に扱われる環境を言うのか。
年功序列で弱者に優しい環境を言うのか。
その根本思想によって、規則も、ルールも全く違うものになる。
規則やルールは制約条件だから、考えの違う人にとっては、当たり前に働きにくくなる。
総ての人間が働きやすい環境というのが土台、無理がある。
スポーツでも、ルールがあるから、動きにくいのではなく。
逆に、ルールが曖昧だと動きにくい。
ただ、一番問題なのは、野球のルールやサーカーのルールをごちゃごちゃに混ぜてしまう事で。
最初に、野球なのか、サッカーなのかを明確にする。
スポーツでは当たり前な事だけど、仕事では、最初に、自分たちがどのような思想、考えで何をしようとしているのか。
一体、自分達はどこにいるのか、頭なのか、それとも最終段階の話をしているのかも明らかにしないで、スポット的な話をしているケースをよく見る。
それをすると、話が取り留めなくなり収拾がつかなくなる。的を絞って、その時できる事を考える。

僕らは、わかりましたと言って、そこで、止めたら、親父たちに、わかってないと即断された。
わからいましたと言うのは、間髪を入れづ次の行動に移る事で、伝えるので。
わかりましたと言うだけでは、わかってないと叱られた。
つまり、わかりましたと言うのは、野球でいえば、ボールを捕球したところで、次のどこに投げるかが問題だと。
明後日の方向に投げたらわかっていないと。
つまり、ボールを投げる方向、筋ね、それを読んでいるので。
親父たちは、わかりましたと言った後、何をするかを見極めて判断していた。
言葉でわかりましたと言うだけでは許してくれない。
バックホームで、ストレートにホームに投げるか、中継を入れるか。
そこまではわかるけれどね。
観客席にボールを投げ入れたり、握りしめて投げなかったり、隣の選手に意味もなく渡したりというのは意味不明だけど、仕事では往々にある。
特に、わかりましたと言って、どこにも仕事を繋げない奴ね。
或いは、意味不明な事を言い出す。
エラーをした時、突然言い訳したり、球場を飛びだす奴。
一人の問題ではなくて、試合が終っちゃうんだよ。
ボールを捕球したら次にどこに投げるかが問題なんで。
そこんとこ勘違いしない。
すぐにできる事は限られているんだから。
わかりましたと言って何もしないのは最悪だし。
場合によっては、わかりましたと言うのは、拒絶反応だからな。

僕が言いたいのは、百人いたら、百人、考え方や、価値観が違うという事。
だから、最初から一致させようと言っても無理。
でも、バラバラでいいかというと、それでは、統一した行動、統制が取れた行動が取れない。
何処かで統一しなければならない。
一般には、人で統一せよというのが原則。
なぜなら、環境や状況は変化し続けるから。
だからといって一方的、一人の人間の考え方を押し付けても、表面的に一致させる事はできたも、内心を一致させることはできない。
組織には内心と外心がある。内心というのは組織内部の中心、外心というのは組織の外部の行動に現れる中心。
内心と外心を極力一致させるようにしないと、組織に過重な負荷がかかる。
内心を一致させるためには、事前に話をよく気、また、自分の意見を言って、事前に、お互いの距離を縮めておいてから、トップの決定に従うようにする。
基本的に学習するので、試験するとか、どちらが正しいと言う事ではない。
統一する必要があるから。この点を間違わないよう。善悪で判断されると、その人の人格まで否定されたがごとく錯覚しかねない。
事前い自分の考えははっきり伝えるが、決定には従う。それが組織の鉄則。
また、合意形成は、根本、中心から固めて、段階的に、話と進めていく。
一遍に、全員を一致させると言うのは不可能だから、いきなり、距離のある人から距離を縮めよとすると、組織のバランスが崩れる危険性がある。
先ず、中心、足元を固めてから、全体の纏めてから、段階的に調整をする必要がある。
ちなみに、統計は誤差の修正にあるとされる。
要するに中心との距離の修正が、目的で、是非善悪を問うているわけではない。
この点を勘違いすると感情的になり、クールな判断が出来なくなる。
水色に服がいいか、赤い服がいいかを問われているようなもので、最終的には、センスの問題である。
基本は、百人いたら、百人、考え方や、価値観が違うという事。
だから、十人十色で。同じ話も、受け取り方は全員違う。
先ずその修正から入らないと統制のとれたチームワークはとれない。
反対したり、違う意見を言ってはならないと言ってるのではない。
ただ、日本人は、自分の意見も持たないで、体制に従おうと言う傾向があり、マスコミや大勢に、流される傾向がある。
その方がずっと危険だ。自分の意見や信念はしっかり持って中心にあわせるようにしてほしい。

企業教育とは、現実、実際的な事。役に立つことが主眼。
観念的で、役に立たなくてもいいと言うような学校教育とは違う。
だから、現実の問題を解決する事が、教育の目的。
実際、何が問題なのかを明らかにしないで教育を語っても意味がない。
現実の人間関係や仕事の事、実務の事で、困っている事、欠けている知識や技術が教育の対象となる。
だから、教育とは何かといった観念的定義ではなく。
どの様な目的で、何を、いつ誰が、誰にというように要件定義をする必要がある。