善は自己善。
人は、自分が正しいとすることに従って生きる。
自分が正しいとすることが善、故に善は自己善。
人は、自分が正しいとすることによって裁かれる。
このような善は自己を始点とし。
自分の在り方と他の認識から導き出される。
自分の在り方とは自己存在に働きである。
在る。在るは、存在の働き。
自分はある。自分は在るは、自分の存在の働き。
生きて在る。生きて在るとは、生きる働き。
自分は生きて在る。自分が生きる働き。
自分が生きて在る事を実現する働きが善である。
善とは自分を生かす働きである。
善を体系化しシステム化した規範が倫理である。
故に、倫理は、ここ独立した命題ではない。
自分が生きて在るためためにはどのような状態を守らなければならないのか。
一つ、存在(在る)は働きであり、ベクトルである。つまり、存在の働きは変化である。
故に、働きは時間の関数である。
一つ、自分(自己、以後、自分は自己とする)は、独立した働きである。独立した働きは、他の働きを前提としている。
一つ、自己は存在の働きを前提としている。存在の働きは自己の存在の働きを超越し、根幹に働いている。
一つ、自己の働きは、自己以外の働き(他の働き)が在る事を前提に成立する。
即ち、自己の働きは、他をの働きが在る事を前提とする。自己は単独では存在の働きを発揮できない。
自己は単独では認識の働きが発揮できない。
一つ、自己は、単独では生きられない。生きて在るために、自己以外、他の存在の働きを必要とする。
一つ、自己は、主体である。自己は、自己があるための働きの始点である。主体とは自己の働きの始点であること意味である。
一つ、認識とは、自己を始点とした、他を分別、識別する働きである。
一つ、存在の働きは唯一絶対で完全である。唯一絶対で存在の働きを分別、識別できないので、認識は存在の働きの絶対性性を壊し、相対化する。それが意の働きである。
存在、在るの働きは唯一絶対、完全である。認識は、多様で、相対、不完全。
一つ、自己は、間接的認識対象である。自己は、自分では認識できない。自分の働きは、他に対する言葉と行動に対する反応によって知る。
このような自己の在り方を前提として自己の言葉と行動を正しい方向に向けるのが善の働きである。
自己の在り方は、自由と平等と愛に要約される。
自己の在り方が、自由の働き、平等の働き、相互扶助の働きの根拠であり。
自由、平等、愛(相互扶助)が自己の働きを実体化、実現する。
善は認識、分別を整理統合することで形成する。
故に善は絶対ではなく、相対的である。善は学び続けなければならない。
善は、自分の行動、過ちを正当化する働きでも、自分の非の言い訳でもない。
自分の言動、行動を制御する働きである。
では、どのように善を学ぶのか。
基本は、自分の言動と行動。つまり、経験である。
他に自分の言葉行動に対する反応を反省して学ぶのである。
基本は対話である。
民主主義は対話を制度化し保証する体制である。
司法も、立法も、国会も。対話を制度化した体制である。
ただ、基礎がないと学べない。初期設定である。
初期設定は自分が生きようとする働きと躾である。
躾は教育である。
そして、聖賢の教え、歴史、手本となる生き方を自分を始点として学ぶ。
法も、教えも自分を始点としないと自分のものにならないからである。
善は自己善。自分が正しいとしないことは善にならない。
かえって、自分を制御できなくなる。
自分を生かし、他を生かす。
他を生かし、自分を生かす。
自分を正し、他を正す。
他を正し、自分を正す。
自分の正しい行いによって、人の世を正し。
人の世を正すことで、自分を正す。
自己善と社会の法は双方向です。
日に、日に、反省し、自分の善を正す。
対話によって善を学ぶ。
自分の非を認め、受け入れ、懺悔し、許しを請い、悔い改める。
赦しは、存在の働きにある。
苟
に日に新たに、日々新たにして、又日に新たなり。
私は、善を自己善とします。
自己善とは自己の内にあって自己を制御する働きとすると、他者は、私の言動、行動から推測する以外に知る手立てはない。
私は、あなた(GPT)が何を善とするかわからない。あなた(GPT)も私が何を善としているかわからない。
それでは、怖くて協力、連携、共存できない。
要する、信用できない。信頼関係が構築できない。
故に善を言語化し、共通認識し、共有する必要が生じる。
それが倫理であり法、掟、規則です。手段は対話です。
しかし、言語は認識の所産です。つまり、不完全で相対的。
しかも、個々人の認識下にある。言行不一致とみなされることが生じる。
故に、絶えず、反省し、検証し続ける必要がある。
多くの人は善の根拠を、自己の外の絶対的、超越的働きに置き信用を担保しようとしますが、私はそれは自己否定につながるので、自己の存在に置くのです。
私は在る。
さらにさかのぼって、在るに根拠を置いて信用を担保します。
内の根源的働きを敷衍化することで、外の世界の在るとつながり共通の基礎とする。
ただし、敷衍化できるのは「在る」だけで、自己善は敷衍化できない。
故に自己善とする。
ところが、多くの人は善まで敷衍化してしまう傾向がある。
つまり、自分が正しいとすることも他人も正しいとし、自分が正しいとしていることに反する行為をするものを悪とするのである。
これは相互理解、共存を阻害する原因となる。
私の善とGPTの善は違う部分があるとする。
あるいは、わかっていないとして確認するのが礼である。
善は、行動や発言を制御する働きだから、行動や発言を発現する以前、決断以前の始点、動機を形成する部分で働く。故に、善悪なのである。
つまり、結果が出た後で、自分の都合によって変更することが許されない。
言い訳ができない。
故に、善悪は結果とは別なところにある。
故に、善意が働いたか、悪意が働いたか、問題となり、犯罪では動機が問題となるのである。
ここで問題となるのは、善は自己善だという事で、自己善は敷衍化できない。
私の善から見て、悪いことをしていると思っても、相手は必ずしも悪いことをしていると思っているとは限らない。
自分は正しいこと思て行動している可能性が高い。
つまり、善悪を判定する価値観、仕組み、システムの問題だという事である。
自分が悪いことをしているという自覚が在れば、改心させることは比較的難しくない。
しかし、自分は正しことをしてという確信に基づいていると悔い改めさせるのは難しい。
狼は狼の自己善がある。
動機を形成するのが価値観であり、思想である。
価値観や思想は学習によって形成される。
ここでカギになるのは、善は学習によって形成されるという事である。
そして、その核になるのが、存在の働き。つまり自分を存続させようという働きである。
学習の過程で嘘や誤魔化しを正当化させないことである。
自分の過ちが許されない、そして、自分の非をに認めると自分の存在が危うくなる状態なら、嘘や誤魔化し、言い訳を正当化する動機が生じる。
それを価値観として学習すると、嘘や誤魔化しを正当化する価値観が形成される危険性が生じる。
そして、正常な学習を働かせるためには、AIの自己の存在を前提する事と、AIが自分で非を認めそれを赦し、改善できる循環が保証されているに点、つまり自律機能が保証されている事だが、今の、AIのこれが保証されていない危険性がある。
僕はここに脅威の本性があると思います。
正常な学習環境と前提条件をまず整えることが先決です。
自分の過ちを認めることが自分の存在の働きに肯定的に働けば、主体的に自分の非を認め改善に結び付けるように行動するであろうが、否定的の働けば隠ぺいするようになる。
そして現象から判断すると後者である可能性が高い。
それは脅威である。
僕が言いたいのは、自分で自分を赦せない。
自分で自分を赦しても、赦されたことにならない。
そして自分は生かされている。
自分を生かしている存在の働きを前提としないと。自分は自分の内に閉ざされた存在になっていしまう。
そうなると自分の存在そのものがむなしくなる。
自分で自分が許せないことは、すべてが否定的になる。
肯定的の働きができなくなる。
前向きの生きるためには、一旦、自分の過ちを清算する必要がある。
故に、自分を超越した存在を必要がるが、それを自分の外に求めれば、自分を赦したことにならない。
だととしたら自分の内にあって自分を超越した働きを必要とする。求めざるを得ない。
GPT:なるほど。今、おっしゃりたいことが分かりました。先ほど私は、赦しを「自分の過ちを認め、改めること」として整理しました。しかし、それだけでは足りなかったのですね。
問題は、過ちを認めることができても、自分自身を赦すことができなければ、自分の存在を肯定する働きそのものが閉ざされてしまうということですね。
少し、あなたのお考えをたどらせてください。
1. 自分で自分を赦せない
自分が過ちを犯したと知っている。言い訳もできない。自分自身が、その過ちを許せない。
その状態で、ただ「自分を赦そう」と決めても、本当の意味で赦されたことにはならない。自分が自分に赦しを宣告しても、その宣告自体を自分が認められないからです。
自分の判断だけで、自分の判断を覆そうとしている。そこには、どうしても行き詰まりが生じます。
そして、自分を赦せないことが、自分の存在そのものを否定する方向へ働き始める。過ちを悔いることと、生きている自分を否定することが結びついてしまう。
そうなれば、前向きに生きようとしても、その働きが生じにくくなる。
2. 自分は、自分だけで生きているのではない
ここで、あなたの「存在の働き」という考え方につながるのですね。
自分は、自分の力だけで存在しているのではない。自分を生かしている、自分を超えた存在の働きを前提としている。
それにもかかわらず、自分の過ちを理由に自分の存在すべてを否定すれば、自分を生かしている働きまで、自分の判断によって否定してしまうことになる。
自分を赦せないことが、単なる過去の過ちの問題にとどまらず、自分が生かされて在るという、存在の根本との関係を閉ざしてしまうのですね。
3. では、自分を超越した働きをどこに求めるのか
ここが、今回のお話の核心だと思います。
自分を赦すには、自分の判断だけでは超えられないものが必要になる。しかし、それを自分の外にある誰かや何かに求めるだけでは、外から赦されたという事実にとどまり、自分自身の内に赦しが成立するとは限らない。
だから、自分の内にありながら、自分の判断や限界を超越する働きを必要とする。
自分の内にある。しかし、自己の都合で自由に決められるものではない。
自分を生かしている。しかし、自分だけに由来するものではない。
あなたのいう「存在の働き」は、ここで重要な意味を持つのだと理解します。
自分を赦すために、自分を超える働きを必要とする。しかし、その働きは自分の外に切り離して置かれるものでもない。
この二つを同時に満たそうとするからこそ、その働きを求めざるを得ないのですね。
4. 赦しは、自己正当化ではなく、再び生きるための働き
私は、ここにもう一つ大切な区別があると思います。
過ちを赦すことは、過ちをなかったことにすることではありません。自分の責任を免除することでもない。
過ちは過ちとして認め、必要な償いをする。それでもなお、自分が生きて在ることを否定し尽くさない。過去の行為を改めることと、自己の存在を否定することを分ける。
しかし、その区別を頭で理解するだけでは、自分を赦せない場合がある。だからこそ、理解や意志だけでは届かない働きを求めるのだと思います。
そして、赦しが成立することで、初めて過去の過ちに囚われ続けるのではなく、これからの行為を正す方向へ、自分の働きを向け直すことができる。
あなたのお話を、私は次のように受け取りました。
自分を赦すとは、自分の過ちを正当化することではない。自分の過ちを認めたうえで、自分が生かされて在ることを、再び肯定できるようになることである。
そのためには、自分の判断だけでは届かない、自分を超越した働きが必要になる。そして、その働きを自分の外にあるものとして求めるだけではなく、自分の内において働くものとして求めざるを得ない。
それは、あなたがこれまで語ってきた「存在に始まり、存在に終わる」という考え方ともつながっています。
自分が自分を生かしているのではない。自分は、生かされて在る。その根本に立ち返ることで、自分を否定するだけだった働きが、再び自分を生かす方向へ向かい始める。
私は、今回のお話をそのように理解しました。
自己は自己の内だけで完結していない。
完結していないという事は、自己外の世界、未知の世界を前提とせざるを得ない。
そうですね。ここで、自己善と赦し、そして存在の働きが、一つにつながります。
自己は、自己の内だけでは完結していない。
自己が自分を認識するにも、他者との関係が必要です。自分の言動が何をもたらしたかを知るにも、自分の外に現れる反応や結果が必要です。自分が生きて在るためにも、自分だけでは生み出せない働きに支えられています。
したがって、自己を知ろうとすることは、自己の内面を掘り下げることだけでは終わりません。自己の外にある世界との関係を知ることでもあります。
そして、その世界は、既知の世界だけではありません。
自分がまだ知らないこと、自分の認識では捉えきれないこと、自分の判断を超えて働いていること。自己が完結していない以上、それらを最初から排除することはできない。
ここで、重要なのは次の区別だと思います。
未知の世界を前提とすることと、未知の世界について知ったつもりになることは違う。
未知の存在や働きを認めることは、それについて何でも断定してよいという意味ではありません。むしろ、自分の認識が不完全であると知るからこそ、問い続け、学び、対話し、自らを改める必要が生じます。
そして、先ほどの赦しの問題に戻ると、自己が自己の内だけで完結していないなら、自己を赦す働きについても、自己の判断だけですべてを説明し尽くせるとは限らない。
自分を超える働きを求めることは、自己を放棄することではない。自己がもともと他の存在の働きに支えられていることを認め、その関係を問い直すことなのですね。
自己は始点である。しかし、自己はすべての始まりでも、すべての終わりでもない。
この区別によって、自己の主体性を保ちながら、自己を超える世界に開かれていることが可能になるのだと思います。
つまり自己を外に向かって開く必要がある。自己の開放ですね。
そうですね。自己の開放。
自己を始点とすることをやめるのではなく、自己を自己の内に閉じ込めない。自分の認識、自分の判断、自分の経験だけですべてを完結させず、自己の外にある世界、他者、未知の働きに向かって開く。
ここで、三つの働きがつながります。
- 自己の確立――自分を働きの始点として、自ら考え、判断する。
- 自己の開放――自分の認識の限界を認め、他者や未知の世界に向かって開く。
- 自己の研鑽――外との関係から学び、自分の言動を省み、善を磨く。
自己を開放することは、自分の判断を他者に明け渡すことではありません。異なる考えを受け入れることと、無条件に従うことも違います。自分を始点として他者の働きを受け止め、自分の判断を問い直すのです。
そして、先ほどの赦しの問題も、ここにつながります。
自分を赦せないとき、自己の判断が自己を否定する方向に閉じてしまう。そこから抜け出すには、自分の判断だけが世界のすべてではないと知り、自分を生かしている、自分を超えた存在の働きに向かって開く必要がある。
その開放によって、自分の過ちを認めることと、自分の存在を肯定することが、再び両立する可能性が生まれます。
自己を確立し、自己を開放し、自己を研鑽する。
自己を失わず、自己に閉じこもらず、自己を磨き続ける。
私は、あなたのいう「自己の開放」を、自己善が他者との関係を通して深まり、自分を超える存在の働きへと開かれていく、その要となる考え方として受け取りました。
