自分がない者が、自分さえよければいいと、生きる事ほど醜悪なことはない。
自分さえよければと言っても自分がないのである。

自分を持つというのは、自分を知る事。自分を知るとは、自分の限界を知る。
自分の限界が見えてきたら、自分と他者との関係が明らかになってくるからである。

自分があれば、自分さえ善ければと言いても、悪はなさない。
なぜなら、自分さえ善ければの善ければは、善だからである。
自分のない者がいう、自分さえ善ければと言うのは、我利我利だからである。
目先の利益しか見えておらず、自分を見失っている。
それでありながら、当人は自分がよければと思い込んでいる。
自虐的で、自滅的。周囲を傷つけ、自分をも、卑しめ、傷つける。
最低である。

最近は、何でもかんでも病気にしてしまう。
やれ、鬱だ、PTSD。
病気なら、物を盗んでも、人を傷つけても、人を殺しても、何をしても許されるのか。
皆、虐められても、傷つけられても、それを克服する事で成長してきた。
大きくなって、傷つくのは嫌だと家に閉籠ってばかりいたら、生きていけないではないか。

今のメディアは、厳しく鍛える事を犯罪のごとく言う。
しかし、昔は、子供の精神や常識を躾けないで世の中に出すことこそ犯罪とされた。
生きていく間に心が傷つく経験は避けられない。
家に閉じ込め世間の風に当てなければ傷つかないと思っているのだろうか。
その方が余程子供を傷つけているし、残酷だ。
自分の命も限りある。
立ち直れないのが問題なのであり。
「艱難汝を玉にす」である。

なるべく、早い時期に、自分を持つように仕向ける事さ。
歳をとっても自分を知らない者が沢山いる。
歳をとっても自分がない者は、哀れである。
一人では何もできないのに、人の憐憫に縋らなければ生きていけないからである。