どうでもいいと思えば、どうでもいいよくなってしまうのであって。
いい加減で、適当な人生になってしまう。

やり抜くことを覚えないと、達成感も、喜びも得られない。
喜びとは、無我夢中になってやることを体験することで、心中から、沸き上がり、身につくので。
経験しなければ、わからない。

今の日本は、休日を増やす事ばかりを考える。
若者も休みが多ければいいと錯覚している。
一生懸命にやる事で、達成感は得られるというのに、時間を細切れにして休むことばかりを奨励する。
仕事も勉強も嫌だ。休みたいと言う。
仕事も、勉強も面白くないと思い込んでいるからだ。
学校で、そう思い込まされているからだ。

何も、真面目になれとか、ほめてもらいたいとかでなくて。
自分が納得のいくまで集中して打ち込めば、自分の中で何かを感じる。
一つの事にのめり込む。
それは、仕事や勉強を面白いと思ったから。仕事や、学問の面白さに気がついたから。
仕事や勉強の面白さに気がついたとしても、今の日本では、周囲の目を気にしなければならない。
そして休めと言われる。

多くの日本人は、仕事も、勉強も苦痛でしかないと思い込まされているから。
でも伸びている会社で働く人は、働くことに喜びを感じている。
何故だろう。

最初から最後までみんなと一体になってやり遂げる事を覚えれば、人は変わる。変わる事が出来るものさ。
学校の勉強は、一人。
一人で、皆と競い合う事しか教えない。試験を通してね。
それで、夢中になれればいいけど。夢中になれる人ばかりとは限らない。
途中で、挫折したり、落ちこぼれたらそれでおしまい。
成績には、順序があるから。
喜びを教えられない。

面倒くさいと言って何もやらなければ、一生、仕事の喜びを知らずに死んでいく。

いやいや、やって、中途半端な仕事しかしなかったら、仕事の喜びなんて感じようがない。
時間を忘れて熱中する。それは、かけがいのない時間。
それは、味わった人間でしかわからない。

カミュがシーシュポスの神話で、シーシュポスは、大岩を山頂に運び上げようとしている時こそ、解放されていると。
仕事にせよ、勉強にせよ喜びを言ったものは、言われなくても学ぶようになる。
それは、生きる喜びだから。
仕事は、やればやったなりの成果が得られる。

成功だけから学ぶのではない。
失敗から悔しさを学ぶ。
悔しさはさらなる向上心を、そして、成功した時の喜びを倍増するから。

学生時代。
テレビのドキュメンタリー番組で大学生が十数人で熱気球を制作すという話を取り上げていた。
番組の途中で街頭インタビュで数人の人の意見を聞いていたが、一様に、乗るは楽しそうだが、作るのは、面倒くさいというのが大方だった。
だから、わかっていない、というのである。
気球に乗って楽しむだけなら、一瞬の出来事だが、皆で気球を作るのは、大勢の仲間と、夢と時間を共有する事。
案の定、喧嘩したり、言い合いになったり、すったもんだの挙句、気球が完成し。
皆で、気球を上げた。
その時、気球づくりに参加した連中は、ただ、空を何も言わないで見上がていたのが印象的だった。
苦楽を共にするから、喜びを分かち合えるのだ。

仕事は、生きる事。
だから、仕事の喜びは、生きる喜び。
仕事の喜びを知ったら。
仕事も、勉強も強要する必要はない。
生きる喜びを知ったのだから。

仕事の喜び、学ぶ事の快感を知らぬ者は、何をやっても虚しく悲しい。
仕事の喜びは、認められるか、認められないかなど関係ない。
仕事や、学びそのものに喜びがあるからで、無理しているわけではない。
真の教育は、学ぶ喜びを教える事である。
今の学校は、正反対のことを教えている。

学校の教育は一種の拷問である。
一番の拷問は、無意味な事を繰り返させることだと言う。
庭にある砲弾を右から左に移させ、移し終わったら、次に、左から右に移させる。
やらされた者は、三日で狂うと。
学校教育は、試験の為と言って無意味な事を繰り返させる。
十二年、使えない英語を強制的に教えられる。

学ぶ事は、苦しくて、辛くて、虚しく、無意味だと、長い時間かけて体得させられている。
だから、生徒は、先生に敬意を払わなくなるのだ。
知ることの喜び。できるようになる事に喜びを見だすのは、人間、本然の情。
それが、科学を発達させ、文明を開いてきた。それが証。

休みを増やせばいいと考える政治家が増えるのは、嘆かわし事だ。
それは、怠ける事、逃げる事、中断する事、中途半端にする事、適当に誤魔化す事、いい加減にする事、手を抜くことを覚えさせるだけである。
休みを意味もなく増やすのは、政治家の人気取りに過ぎない。
成長しようとしている国は、休んではいない。
休みを増やして競争力をつけようなんて愚かな事だ。矛盾している。

父たちは、戦場で地獄を味わってきた。
だから、生きて仕事に精を出すことに喜びを感じていた。
だから、休むことを知らなかった。
休もうとしなかった。
休むことが苦痛だったのだ。
仕事が途絶えると、休もうとしなかった。
よく働くのは、働きたかったからで。
失業は絶望だったから。

休みに価値を見だすのは、一神教との信仰である。
彼らの神は、この世界を六日で作り、七日目に安息日を決めた。
だから、七日に一日休むのは、一神教との信仰的義務。

仕事も、学問も根気である。根性である。
根っこにある気である。気が性を生む。
根気や根性は、やり抜いて、はじめて自分のものになる。

日本の、学校は、科学も、学問も形骸化し、廃らせるばかりだ。
学問も仕事も、喜びを知らなければ。
苦しくて、辛くて、面白くない事。
楽して、面白、安易で、おかしい事に、逃げようとするのは、当然。
子供は、ゲームや、漫画に逃げ込み、学ぶ。大人たちの期待に反してね。

強制的に休めさせれば、諦める。
あきらめを覚える。
手を抜くことを学ぶ。
強制的に休ませるのは、真の安息にはならない。
やる気も意欲も無くなり。
厭な思いしか残らない。
仕事や、学問は、やり抜いて、はじめて喜びが得られる。
喜びを教えられなければ、やる気がなくなる。

どうでもよくなる。

どうでもいい人生になる。

ツバメは空を飛ぶ喜びを知っている。