やらないのも困るけど。
やると言った事を、期日までに、最後まで、責任をもって、やらないのは、もっと困る。
できない事も問題だけど、
それ以上に問題なのは、できないのに、できると言い張る事なのだ。
わからないというのは、それは、それで、困るけど、
本当に困るのは、わからないのに、わかったふりをされる事なのである。

やらないというのと、できないというのは違う。
やろうと思ってできない事もある。
やろうとして、できない場合は、やらないのではなくて、できない事を問題とすべきなのである。
やれと言われた事を、言われたとおりにやることは、想像以上に難しい。
先ず、やれと言われた事を、正確に理解することが難しい。
言われた事を理解したとしても、今度は、それをやるためには、どうしたらいいかがわからない。
やれと指示をされても、実行するまで、何段階も関門を通過しなければならない。
かつては、それを、家庭でも、社会でも、職場でも教えた。
正直、学校で教えられるところは、部分だという認識を共通して持っていた。
それを学校は、全て学校で教えると、教育を独占しようとしている。
それが、問題なのだ。

やれと言われても言われたとおりにできないから、最初から、違う事をやろうとする。
自分の独断で行動する。
でも、自分は、やれと言われたからやっている気になる。
この意識のずれは、最後までたたる。

人に自分の弱味を知られたくないとか。
馬鹿にされたくないとか。
そんなこと気にしていたら、一緒に仕事はできない。

困った事に出来な事の多くは、やれば簡単な事だ。
だから認めがたい。意地にもなる。
でも組織のスイッチを入れるのは、覚えれば子供でもできるほど簡単な事だ。
だから難しい。難しく考えるとやたらと難しくなる。

数学的な事は、関数にできるほど簡単なのだ。
だから、説明するのが難しい。
関数にした方が簡単なのだ

組織は、典型的なシステムなので、スイッチを入れなければ動かない。
スイッチをどこかといえば形にある。イベントである。
象徴や儀式と言った形を作る事である。
スイッチに意味はない。スイッチは、スイッチである。
ある種の決め事である。
ところが、基本動作をやたらと難しくしていしまう者がいる。
そうすると組織は、最初から動かなくなる。
組織が、動かなくなる事を突き詰めると、極めて単純で簡単な事、例えば、スイッチが入っていないみたいな事に行きつく場合が多い。
しかし、多くの人は、それを認めようとせず、人の性にしたり、高尚な理屈をつけたがる。
何度も言うが組織は典型的なシステムなのであり、システムを動かすためには、手順があるのである。

難しい事で組織が動かなくなっているのではない。
いうなれば、スイッチを入れて通電をするみたいに、
基本操作がわからないで、組織を動かせないでいるのである。
将棋も駒を振って先攻後攻を決めるとか、
その際、誰が駒を振るのかみたいに決め事や駒の動かし方みたいな。
それは、素直に教わらないと試合は始まらない。

私は、一体、だれの、指示に従ったらいいのですか。
この話は、誰に聞いたらいいのか。誰に聞いたらいいかわかるようにしておけ。
それが、肝なのである。
ところが、指示に従ってはならないと、逆らう事ばかりを、学校やマスコミは教える。
だから、実際に組織的に行動しなければならなくなった時、機能不全に陥るのである。
全体主義や民族主義といった思想云々と言いながら、
土台に、アナアキーな考え方を埋め込む事に鈍感すぎる。

学校では逆らう事ばかりを教える。
反対してさえいればいいんだよ。
政治の世界も万年野党は、反対する事に存在意義を見出している。
何でも反対である。何の考えもなく反対である。
何の考えもないから、本当の意味で、賛成も、反対もできない。
要するに自分がない。自分の意見がない。
そうなると何も決められなくなる。
自分が中心を取った時に主体性も統一性も保てなくなる。
右顧左眄、右往左往するばかりである。

事を為すためには、核心をつかなければならない。
どうでもいい事ばかり騒ぎ立て、肝心な事に触れなければ、問題解決なんて遠のくばかり。
核心は、逆鱗に守られている。
核心を突きたければ、逆鱗に触れる事を怖れてはならない。
逆鱗ごと、串刺しにするしかないのである。

嘘をつくのではなく。嘘になるから困るのだ。
やってもいないのに、直ぐにやるつもりだったので「やりました」と言う。
しかし、うっかり忘れて、やらなければ嘘になる。
悪気があってついた嘘ではないから、当人、反省も、自覚もしない。
でも、嘘は嘘だ。

人は経験を重視する傾向がある。
失敗した事でも、経験したことを選ぶ傾向があるために、同じ失敗を繰り返す。
無自覚だから、変な癖がつく。
変な癖が着いたら、基本からやり直さなければ治らない。
いい仕事をしたければ、いい習慣を身に着ける。
だから、躾が大切になる。

九十九%やっても、最後の一%で失敗するのが、仕事だ。
最後詰めが甘いと、元の木阿弥になる。
だから、詰めを厳しくする。
あと一歩で決められる。
あと一歩、踏み込めば越えられるというのに、寸前で固まってしまう者がいる。
寸止め状態になり、仕事も、組織も硬直化してしまう。
最後の詰めを間違わない。
最後まだ詰める。
固まるのが一番困る。

仕事にも、作業にも、流れがある。全体がある。
一か所でも詰まると全体の流れが止まる。

ルールを作っただけでは、ゲームはできない。
ルールに則って実際にゲームをやってみなければ、ゲームは実現できない。

組織は、システムであり、情報系である。
どの経路で、どの系統で情報や指示を流すかによって組織の動きは変わってくる。
指示・命令には、順な流れと逆の流れがある。
上から下、中心から外に向かって流れるのが順な流れ。
下から上、外から内に向かって流れるのは逆な流れ。
トップダウンは、順、ボトムアップは、逆な流れ。
組織は、情報を環流させる事で動いている。
ボトムアップで情報を還流し、トップダウンで情報を流す。
順逆の流れを上手く活用する事によって組織は制御されている。

事実のみを確認する。
憶測、推測で判断をしない。
いつ、誰と、何を、どの様にしたか。
一歩下がって確認する。
一歩先ではなくて、一つ手前を確認する。
行き詰まったら、一歩下がる事も必要である。

人は、やっていない事を思い出してはぐらかそうとする。
忘れた事を思い出して嘘をつく。
わからない事を知られたくなくて誤魔化そうとする。
後ろめたくて、言い訳をする。
後悔しているから、しらを切るのである。
責任が持てないから逃げ出す。
バツが悪いから怒り出す。

物事を順を追って説明できない者は、遡る様に説明する。
結果から原因を説明する傾向があり、基本的に言い訳じみてくる。
また、結果だけが浮き彫りされて原因がわからずじまいになりやすい。

人を変えただけで仕事の内容が変わる。
謝罪するにしても、部長が直接出向くのと、担当者が電話をするのでは、仕事の中身が変わる。
だから、いつ、誰がどのようにしたかを確認する必要がある。

時間を少し遅らせただけで、段取りは狂う。
敵の動きに関する情報も、前日に得た情報を三日後にすれば、全く意味が違ってくる。
情報の働きが全然違う。

最近の子は地図が書けないと言われた事がある。
紙に、地図を書く時は、まず、スタート地点とゴール地点を決めて、その間を埋めるように地図を書く。
ところが、今の子は、スタート地点からポイントを積み重ねる様にして地図を書こうとするから、紙面に収まらなくなるという。
これは、仕事の段取りも同様である。
始点と終点を最初に定めておかないから段取りが組めなくなって計画が立てられませんという事になる。

築き上げるのは、大変だけど、壊れる時は、一瞬に壊れるよ。

仕事をポイント、つまり、点で抑えるなとよく言われた。
個々の点や作業をバラバラにとらえていると、点や作業のつながりや関係が失われ、統一性が失われて、仕事が拡散し、最後は霧散してしまう。
収束しなくなるのである。
また、始点や終点に囚われる者も結構いる。
イベントの日を決めると、実施する当日だけを見ている。
それでいざ準備に取り掛かろうとすると時間が無くなっている。
また、準備の体制がとれなくなる。
やる前から失敗してしまう。

期日に囚われると限りなく当日に向かって計画は圧縮される。
会議の日が決まったら、仕事は終わったと錯覚する。
試験の前日に一夜漬けで徹夜をする。
一定のペースで仕事を進められなくなって、仕事にムラや波ができる。
作業配分が出来なくなるのである。

結果は、目的によって検証する。
始点が明らかにされていないと当初の目的が判然としなくなる。
当初の目的が判然としなくなると結果から目的を検証する事になる。
それでは中心軸がブレてしまう。
結果が、目的に優先するようになるからである。

このようなタイプは、遡る様に意思決定をする傾向がでてくるために、仕事が転倒しやすい。
作業が逆流するのである。

作業には前後がある。
作業の順序が逆定すると仕事には、逆方向の負荷がかかり、ブレーキがかかる。
作業は、連鎖的に進んでいく。
連鎖の途中に齟齬が生じると全体の均衡が失われ、頓挫する。
常に、経過を確認できるようにし。
仕事が頓挫したら、どこが齟齬をきたしたのかを追跡し、齟齬を犯した地点まで戻ってやり直せるようにしておけば、損害を最小限に抑える事が出来る。
だから、始点が曖昧だと、元に戻れなくなる。
結果を追跡する事もできない。
始める傍からバラバラに分解する。
だから、始点を明確にし、設定したうえで、組織に認知、登録させる。

作業は、期間であって時点ではない。
作業を点で見ていると仕事の全体像は描けない。
点と線を結ぶような仕事をするな。
仕事は面で、あるいは、立体的にとらえろと。
作業の確認は、頭からする。尻尾からすると捕まらなくなる。
つまり、最初に、どの様な指示を、誰からされたかを、確認してから、結果を、確認しないと、順序だって説明する事が出来なくなる。
結果を聞かれても、最終的な事しか言えない。
「やった。」「できた。」と聞かれたら、是か非かしか答えようがない。
「上より、午前中に方針だけでも決めて報告しろと指示されました。」と確認した後に結果を聞ければ、「方針は、決めてあります。」等と具体的に答えられ、聞いた方も、「報告したか」と詰められる。
先ず、始点、確認し、その上で結果を問う。

始めのうちは、出発点が見えているけど、段々と見えなくなる。
仕事は、始めは、薄いが、段々に厚みが増していく。

遠い事の方が決めやすい。だから、遠いところの手順から決めていく。
内容はその時、その時決めていく。
色は最後に塗る。

即物的にしか見えない物や事がある。
物事を体系的にとらえられない者がいる。
部分しか見えず、全体を俯瞰できない者がいる。
木を見て森が見えないものがいる。

仕事、前後左右上下からいつも見直す。

間違ってはいけない。
組織的な仕事では、はじめに確認するのは、何をしたらいいのですかではなくて、
誰の指示に従えばいいのかなのである。

最終的には、誰の指示に従うかだからな。
間違うなよ。何をするかではないからな。
何故なら、全ての作業を予め読み切るというのは不可能だし。
しかも、状況や条件が変われば全ての作業は組み替えなければならなくなる。
試合は、やってみなければならない。
そうなったら、その時、その時の判断が全てを決する。
最後は人なの。
だから、最終的に誰の指示に従ったらいいのか。
誰が指示をですのかを確認しておけよ。
この仕事はあなたに任せますでは、いざという時に動けなくなるからな。
支店長は、当日は、自分が責任をもって指示する覚悟をしておけよ。
だから、責任をもって指示できるように当日までに準備を終わらせておけ。
その場になってどうしましょうって悩んでも手遅れになるからな。