今の学校教育は、極めて異常な環境の下で行われているという前提に立つ必要がある。
何が異常なのかというと、一般社会から隔絶し、乖離した特殊な空間で、固有、特有の前提の下で行われているという点である。
今の、学校教育は、一種の宗教、学校教といってもいい。
他の宗教と違うのは、神が存在しないという事。
根本理念が明確にされていないという点にある。
つまり、なんとなく、漠然とした、合意と思われることを根拠にし、絶対化しているという事で。
それは、教育に対する正統的な批判を拒む原因ともなっている。

現代の学校教育は、どのような前提のもとに成り立っているかを明らかにしたい。

先ず、生徒を、一定の条件によって学年、教室という単位に囲い込むことから始まる。

一定期間(日本では、四月から三月)、一年を単位として、その間に生まれた者によって一学年を形成する。
同一学年、学級の生徒を一律、一様に扱い、一括して教育する。
同一、統一された基準の基に試験をして、能力、適性を評価する。
そのために、一定の基準で選定された教科書によって、教育の品質を標準化する。

全国、一律一様な基準で一定の条件を満たせば、トコロテン式に進級し、卒業できる。
そして、一定学年、履修することは、全国民の義務である。

教科書に書かれている事を絶対真理とし、人の能力や適正を測る基準とする。
つまり、教科書を聖典化しないと試験制度は成り立たなくなる。

問題なのは、教科書の選定基準の根拠が極めて曖昧で、特定の思想や勢力、団体の影響を妨げられない点ある。

試験を成り立たせるためには、問題は、予め設定されていて、正解は、一つでなければならない。
問題を自分で設定する事も、疑問を持つことも許されない。
でも、実際の社会は、選択肢は一つではなくて、いっぱいあって。
正解なんて、はじめからない。やってみないとわからない。

人生は、正解があって採点されて、合否が、判断できるようなことではない。
大体、誰が、採点するというの。
人生や仕事には、正解なんてない。
あるのは、結果だけだ。

社会では、問題は、自分で設定する。
人生は、自分で、問題を探して、自分なりの答えを出す。
学問の、原点は、問題意識で。
問題は自分で見つけ出すもの。
自分が疑問を持ったところ。
問題を組み立てるから問題を解く糸口が見つかる。
問題の解答は問題の中にあるとまで言われている。
最初から問題が設定されたら、健全な問題意識など育たない。

学校では、役に立つか、立たないかは、あまり重視されない。
それにたいし、世の中は、役に立たない事は教えない。
それは、学校と社会の考え方の相違からくる。
何を、必要かとするかの違いである。
学校では、試験が目的化された事によって、成績に差をつけることが主たる必要性になった。
社会では、社会人として生きていく、経済的に自立するための術や知識を身につける事に教育する。
だから、学校では、役に立つかどうかが、教育の基準ではない。
それに対して世の中では、役に立たない事は基本的に教えない。

先輩や、上司が忠告しても、それが正解だというわけではない。
聞く聞かないは、自分次第。
正解がある、採点されると思うから、頑なになるので。
他人の意見を聞くのは、ただ、自分の選択肢を増やすだけ。
最後は自分で決めなければ。
決める時は、根拠、志とか、夢とかね。それが肝心なんであって。
東大に入りたいから、東大に入ったなんて言ったら、空疎だよね。
根本は、正解でなくて、自分の意志だよ。

仮に、教科書に書かれていることが絶対で、正解が、予め一つと決められているとしたら。
教科書は聖書でしかない。
だから、学校教と私は言うのである。

一つの教室は、一人の担任教師に管理させる。
実際の教育は専門分野を決めて分担して行う。
教育の成果は、試験によって測定する。
教育は、授業単位に、分割して行い。
授業内容は、予め、マニュアル化された基準に従って行われる。
授業内容は、平準化、標準化されていて、均質化されたものに規定されている。
一定の合格基準が設定されていて、その基準を満たせば進級される。
一定の単位を習得できたとみなされると卒業できる。

注意すべき点は、教室は、相互にかかわりを持たない集団、個々人が独立した集団だという事。
つまり、教室は、それぞれが、何らかの役割を分担して関係をもって結びついている組織的集団ではない。
個人の集まりであって、組織ではない。
学校では、一人ひとりの生徒が辞めても、入っても困らない。
他の生徒が成績が良くても悪くても本質的には関係ない。
自分より成績が悪ければ、自分の序列が変わるだけである。
自分と何のかかわりもないのに、成績だけで判断されるとしたら、自分の成績を隠そうとするのは、人情。
特に、成績が悪いと恥ずかしと思うようになる。
だけど、点数が低いというのは、悪い事ではない。
成績と善悪は関係ない。
成績が良くても、悪党は悪党。
性格の悪い優等生は、たくさんいる。
成績と、人格は関係ない。
成績が良くても、馬鹿は馬鹿。
成績が悪くても、善良な者は、善良。

しかし、学校と一般社会は違う。
会社では、一人ひとりが全体とかかわりを持ち、何らかの役割がある。
当然、辞められたら困る。一人ひとり必要とされている。
辞められたら、代わりの人を探さなければならなくなる。
休まれただけで、仕事の段取りを組みかえなければならなくなる。
必要でない人間は一人もいない。
関係ない人間なんて一人もいない。

仕事ができなければ、できないなりの対応をしなければならない。
できない事よりも、隠される方が問題。

うるさいな。
余計なお世話。
うざったい。
関係ない。
一人にしてと言いたいのが学校。
だって、関係ないもの。
しかし、世の中、生きている限り、人と人の関係を断つことはできない。

一つのことを一か月で習得する者もいれば、何年もかかる者もいる。
長い目で見て、短期間で習得した者が優秀で、習得するのに時間が、かかったから劣っているとは、言い切れない。時間をかけた方が深みが出ることもある。
決められた教科を一年で履修しなければならないという根拠はない。
単なる決め事、目安の一つに過ぎない。

組織では、わかっていない事を、わかっていますと言い張られるのが困るので。
わかっていない人がいれば、わかっている人が教えればいいし。
できないとわかれば、できるようにすればいい。
助け合って、問題を解決すればいい。
組織では共同で一つの事や目標を達成することが求められるので。
ぎりぎりまで意地を張られて、その結果できなくなる事の方が問題になる。
一番の問題は、信用できなくなる事、信用を失う事なのである。
ところが、学校では成績だけで評価される。
成績は、純粋に、個人的な事なのである。
同級生は、競争相手でしかないから。
できない事やわからない事を、知られたくないという心理が働くようになる。

生徒が落第しても、基本的に学校は困らない。
風評を気にするだけ。

個としての集団である、学校は統計の対象でしかない。
成績は、統計的にしか評価も分析もできない。
だから、偏差値が決定的になるのである。
学校で重要なのは、平均と分散、偏向である。
重要なのは生徒数だけである。

学校では、人と人との関係、関り方は学べない。
なぜなら、教室は、個の塊だからであり、組織的の集まりではないからである。
必然的に、集団の中に自分を位置づけることもできない。
生徒は、どれほど、大勢の群衆の中にあっても孤独であり。
疎外されている。生徒も、学校も社会の外側にあるのである。

学校には、社会がない。
生徒には、組織人としての管理も義務もないし、権限も責任も与えられていない。
学校には社会人としての常識は必要ない。
生徒は、学校の経営や運営には、一切かかわれない。
生徒は、学校の決定に無条件で従うことが求められる。
生徒には、何を、誰から学ぶかの選択権は与えられていない。
つまり、師も教科書も自分で選ぶ事は許されない。
カリキュラムも、入学資格も、卒業資格も学校が決め。
生徒が干渉する事は許されない。
行事、イベントだって学校が、大枠を決める。
校則も学校が一方的に決める。
生徒が辞めようが、増えようが、学級の運営は、まったく、困らない。

要は、生徒は、烏合の衆なのであり。
学校に何年、在籍しても社会人としての素養は身につかない。
教室は有機的に結びついた組織ではなく。単なる、集まりなのである。

教室は、私的集団であって公的集団ではない。
義務教育というのは目的そのものは、公的である。
しかし、生徒一人ひとりに公的な目的があるわけではない。
生徒が学習する動機は私的な理由である。

学校には、公共事業の様に、社会資本を構築したり。
警察の様に治安をよくするような、消防に様に災害時に働くわけではない。
生徒は、まったく社会貢献をしない。

学校は、生徒に公的な貢献を求めない。
生徒の目的は、私利私欲でしかない。
学校で教えられるのは、即物的、金銭的成功だけである。
ありていに言えば、いい学校に合格して、いい会社に勤める事。

求められるのは、一流大学に合格すること。
一流大学に合格する事が、目的化される。
要するに、何を、どの様な動機で学ぶかが目的ではなく。
一流大学に合格すればいいのである。
これは学校の都合でしかない。

勉強には、必要にされるとか、役に立つという考えはない。
生徒達は、お互いを必要としていない。
生徒間には、存在意義もない。いたって、いなくたって同じ。
存在に意味はない。
教室では、他人は関係ない。
いい成績をとても誰も喜んではくれない。
利害がないのである。
誰も必要としていないし。
誰からも必要とはされない。
人の面倒を見ても、大きなお世話なのである。
誰からも感謝されない。
学校とはそういうところである。
他の人と喜びや悲しみを共有できない。
共感できない。共感する必要も、意味もない。
相手の痛みが理解できない。
だから、いじめも自制が利かないし、組織的な抑制もない。

仕事は、自分のためにするのではない。必ず相手がいる。
学校の勉強には、相手がいない。いるのは競争相手だけである。
だから、なんのために、誰のために勉強をしているのがわからなくなる。
勉強は自分のためとしか、説明がつかなくなる。
学校は、自分だけの世界。
喜びも、悲しみも自分だけのもの。
いくら頑張っても、自己満足しか得られない。
自己充足だけ。
集団での達成感は得られない。
勉強は、一人仕事でしかなく。
一人仕事しか覚えられない。
一人仕事というのはエゴである。仕事の成果は、自分だけにしか還元されない。
自分がいい点とっても、他人とはかかわりない。
なぜなら、自分がいい点を取る事は、他の誰かの評価を下げる事であり。
点数が悪い事は、皆を喜ばすだけだからである。
自分にいい事は、皆にとって悪く。自分に悪い事は、皆にいい事。
共鳴共感なんて持ちようがない。
つまり、自分一人の為だけの仕事でしかない。
生徒間に共鳴共感も持てない。
況や、志など。
同級生は、競争相手でしかなく。
仲間ではない。
友といっても心は許せない。
お手伝い、助け合いなんて綺麗ごと。
だって、代わって勉強なんてできないのである。

学校の勉強は、一人合点、我儘なものになりやすい。
目的が見出しにくい。
だって、他人は一切関係ない。
隣の席の子が、成績が悪かろうが、居眠りしようが、虐められようが、学校を休もうが関係ない。

誰も信じるな。
皆、敵だ。競争相手だ。
信義なんて綺麗事だと学校は身を持って教える。
自分が合格するためなら親友だって容赦なく裏切る。
それが学校教育である。

学校の勉強は、社会から隔絶、隔離された、孤立した空間における他人との関わりのない。
閉鎖的で、自己完結した作業でしかない。
生徒間の人間関係は、優劣でしかなく。
善良さは、却って孤立や、苛めの原因となるだけ。
仲間を守ってやる事は無意味であり。
公のために自分を犠牲にするのは、滑稽なだけ。愚か事なのである。
背信や裏切りは、美徳ですらある。
生涯、信じあえる友なんて作りようがない。
思想、哲学、道徳なんて、試験科目にすらならない雑学。
合格だけが唯一の目的。でもその先はない。

成績が悪いと言っても、誰に、なぜ、何を恥じるのか。
それがハッキリしていない。

子供の頃、大きくなったら何になりたいと聞かれ
お医者様とか、運転手とか、コックさん、先生と、子供たちはまちまちの応えたいけど。
東大とか、早稲田、慶応なんて子はいない。
それが、いつの間にか、職業を答える子は少なくなる。

学校の行きつく先は、サラリーマン。
勤めることが目的であって仕事が目的なのではない。
なぜなら、何を学ぶかが目的ののではなく。
どの学校に行くかが目的だから。当然の帰結である。
大学に入ってから、何を学ぶかを考え。
会社に入ってから仕事を決められるのである。

だから、何も決められなくなる。

我々には、仕事場は、常に、勉強の場。
僕らにとって職場こそ学校だった。
親父は、世間は、社会大学だって言っていた。
意味もなくわかっている、わかていると、知ったかぶりす事が、一番、嫌がられた。

「皆、生活が掛かっているんだ。
自分の恥より、お前の見栄のために失敗した時の事を考えろ。
できませんでしたでは許されないんだぞ。
仲間の事を第一に考えろ。」と…。
恥も外聞も捨てろ、できない事はできない。
わからない事は、わからないと言え。
その上で、皆で歯を食いしばってやり抜いた。
会議こそ真剣勝負の勉強の場だという事を忘れるな。
一度会議が始まった時に準備ができてないという事が一番の恥だし。
欠礼だ。

仕事の学習は、生涯学習、終わりはない。
これでいいと思った時、お仕舞である。

激動の時代、環境も目まぐるしく変化している。技術革新も目覚ましい。
勉強をやめれば時代に取り残されるどころか生き残ることもできない。
こんな時に、できますとか、わかっていますなんって意地をはる事は自殺行為である。
各々が自分に与えられた役割を果たし、変化の先端を行かなければ淘汰される。
仕事は、学校のお勉強とは、訳が違う。学校で習うのは、過去の事でしかない。
仕事で、学び取るのは、未来の事である。
だから、わかりましとか、できますと言っても過去の事でしかない。
我々の求めているのは、未来の事である。
学校の勉強は卒業したら終わりだが、仕事の勉強は、終わりがない。
苟に日に新たに、日日に新たに、また日に新たに。

学校には義理も人情もない。
同志も仲間もいない。
連帯も共同もない。
権限も責任もない。
あっても、自己責任だけ。
どんなに大勢生徒がいても、一人でしかない。

疎外感や、焦燥感、孤立感に襲われてもおかしくない。
道徳なんてくそくらえ。
仲間を裏切っても、誰にも気が付かれなければ、いい点を取った方が賢いのである。

他人との関わりがなくなり。自他の関係が築けず。
自信をなくして自己崩壊、自己喪失に陥る。
自制心が育たない。
健全な自意識が確立できない。
正常な人間関係が築けない。
引きこもりや鬱の原因ともなる。

更に、学級では、教師が、生徒を選別するための、絶対権限を与えられているという事である。
教室では、教師は、絶対的権力者としてふるまう。
権力をふるうか否かは、教師次第である。
無論、教師にはいろいろな制約が課せられている。
しかし、それでも、教室は、教師の考え方でいかようにでも教育内容を変えることができる。
教育方針も、教育内容も、教育思想も、試験の基準も、進級基準も、学校が一方的に決める。

教師と生徒との関係は従属関係でしかなく。一方的な関係であり。
双方向の関係が成り立っているわけではない。
この点が企業と決定的に違う点である。
企業は、社員の手で制度や規則を作ることも、改廃する事もできる。
全ての社員が何らかの役割、権限をもって経営に参画している。
程度の差はあれ、何らかの発言権も、権限もある。
学校の生徒には、何の、権限も与えられていない。
生徒は規則の改廃に口出しする事は許されない。
師を選ぶ事も、教科書を決める事もできない。
先生の指示、学校の決定に無条件に従うしかない。
決められたことに従うだけである。
学問の自由と言ってもその程度である。
生徒会の自治と言っても名ばかりである。
江戸時代の適適塾や松下村塾、鳴滝塾、会津の日新館、薩摩の造士館とは違う。

学校が潰れても、生徒の責任は問われない。
生徒は、被害者に過ぎない。
しかし、会社が潰れれば、社員全員が、責任を問われる。
早い話、職を失う。
会社と社員は一蓮托生なのだ。

教師は、一定の教育を受け資格試験によって選別される。
教師の質も標準化される。
生徒は、教師を選ぶのではなく、学校を選ぶしか選択肢は与えられていない。

このような学級形式は大量生産方式から生まれたもので、今からせいぜい、百数十年程度の歴史しかない。

この様な教育の何が問題かというと自己意識が失われる点にある。
つまり、健全な個としての意識が育たず。常に横並び意識によって支配される傾向が生じる。
同じ、学年、学級の人間だけを同等と見なし。平均化する。
そして、平均的な基準から、離れる人間を差別し、排除しようとする。
いじめや、引きこもり、登校拒否の背後には、この横並び意識が潜んでいる。
しかも、質が悪いことに、この同等意識、横並び意識を、平等とすり替えてします。
結局、優等生も、劣等生も排除してしまう。

その過程で自意識も失われ、埋没してしまう。
個性を押し殺し、ひたすら、平均的人間であろうとする。
これは土台無理がある。抑圧であり。
抑圧状態が、最低でも、九年、大学まで進めば十六年続くことになる。

今の学校で躾けられているのは、無自覚な服従と隷属。
しかも、学校にはびこっているのが革命思想だとしたら。
子供たちは、無自覚に洗脳されてしまう。
教育の根拠が曖昧なのである。
教育の理念はどこから来たのか。
学問の自由、研究の自由というが、何を根拠に自由を規定するのか。
国民の総意を前提としなければ、教育の根源は成り立たないはずだ。
では一体いつ、教育方針ついて国会で決議されたのか。
国民の義務だというのに。
政治家は避けて通るべきではない。

学校で生徒に求められるの服従と隷属。
逆らう事は、許されない。
話し、助け合い、信じあうことは教えられない。
学校では、コミュニケーションの技術は教えられない。
皆で協力して問題を解決する事は、求められない。
結束も団結もできない。
今の学校は、愛国心や愛校心にも否定的である。
他人を尊重したり、師に敬意を払う事にも否定的である。
歴史や伝統も意味がない。
意味も目的も教えられないで、ひたすら、教えられたことを学ぶしかない。
どこまで行っても、金魚鉢の金魚でしかない。
外の世界も大会も知らず。
逃げることもできない。
今の学校では、性教育はしても、人を愛する術は教えられない。

生徒には、学校は、変えられない。
会社は、社員が、話し合い協力すれば、変えられる。
反対に、変えられなければ淘汰されていく。
学校は、なぜ、学ぶのかの目的を明確にできないから、希望や夢は持てない。
会社は、合目的組織だから、希望や目的を社員が共有できなければ、成長できなくなる。
社員、一人ひとりがコミュニケーションが取れなければ、会社の組織が硬直的になると、環境の変化に組織は適合できなくなる。
自分が変われば、会社は変わる。
自分が夢や希望を持てば、会社は変わる。

社会と学校との乖離が、進めば進むほど、不適合者を大量に生み出すこととなる。
社会問題である。

教室というのは、言わば、家畜を囲い込むのと同じである。
生徒は、牛や羊と同じで、牧童や羊飼いに飼いならされるのである。
得られるのは、家畜の自由である。

自己認識は、自己と他者との違い、差によって成り立つ。
違いを認めなければ、自己認識は成り立たない。
自己の確立なくして自由なんてありえない。
自己は、主体性の根源だからである。

全国を試験で統制ために、すべての教育内容を標準化、統一している。
それを自由教育、平等教育と称している。
しかし、実態は、不自由で不平等な状況を作り出しているにすぎない。
平均によって不当な差別が生じている。
そのくせ、別に、平均的人間を求めっているわけではない。
どんな人間にしたいのか、それがはっきりしないまま、何の目的もなく教育をして。
それで、自由もへったくりもない。

学年で区切って、一律同等だなんて言っていたら、平等の正しい概念も歪められる。

一人ひとりの違い、差を認識し、前提としなければ平等なんてありえない。
太った人もいれば、ガリガリに痩せた人もいる。
背の高い人もいれば、背の低い人もいる。
せっかちな人のいれば、のんびりした人もいる。
力のある人もいれば、ひ弱な人もいる。
頭にいい人もいる。
知識が豊富な人もいれば、度胸のいい人もいる。
臆病な人もいる。
それは個性なのであり、一様に扱うことはできない。

人は、皆、違うし。
違っていていいし。
違ているの、当たり前。
優れているか、劣っているかなんて、他人と比べったて意味ないよ。
それより、自分に何ができて、何がしたいかを考える事だよね。

大学の教授や医者、技術者は優秀で職人、料理人、運転手は、劣っているなんて事はない。
医者だって、料理人だって、運転手だって、一流な人は一流だし、三流の人だっている。

男と女は違う。
違うことを前提とするば、公平なスポーツは成立する。
男と女が、同じ条件で戦う事の方が不公平である。
ゴルフもハンディがあるから条件の違う人でも対等に渡り合える。
差別というのは、違いによって処遇、扱いに不当な差をつけること言う。
違いそのものを、差別とするわけではない。

先ず、第一に教育とは、思想だという事を明確にすることである。
教育の根本は、建国の理念にある。
現代日本の、教育の根拠が曖昧なのは、建国の理念に問題があるからである。
つまり、憲法制定の手続きに瑕疵があるからである。

教育を考える事は、建国の理念を考える事である。
国の成り立ちを考える事である。
今の日本の起点は敗戦である。
この事実を日本人は、しっかりと認識する事である。
そうしなければ、日本は、敗北主義に陥る。

改憲か、護憲かが、本質的な問題ではない。
この国を、どの様な国にするのかが問題なのである。
どの様な人間に育てるべきかを考えるべきなのである。
国を考える事なのである。

現代の憲法を建国の理念に基づくとするなら、占領軍の意図を改めて、検証する必要がある。
その上で、どのような意図のもとに人を育てるべきか、国民の真意を糺すべきなのである。

我が国が、民主主義、自由主義、個人主義に基づく国民国家。主権在民を国是とするというなら。
個としての自己の確立を促す教育が求められる。

一番問題なのは、学校教育の特殊性を前提とし、そこからくる歪を是正し、不足するところを、補おうとしない点にある。
異常な環境で長期間隔離して教育すれば、価値観や行動規範に歪や偏りが生じる。
大体、学校は、社会人として必要な技術や知識、常識、情操は何も教えないのである。
教えているのは、試験でいい点を取る事だけである。
点数が悪ければ簡単に落ちこぼれとして切り捨てられる。

今の様な、学校以前の学びの場とは、どんな処だたろうか。
それを、明らかにするためには、学ぶ事の意味を知る必要がある。
学ぶことの意義は、二つある。
一つは、知識、技術を学ぶ事である。
もう一つは、生き方を学ぶ事である。
知識の代表は、読み書きそろばんである。
徒弟制度も教育の仕組みの一種である。

現代の学校では、生き方や技術的な事は教えられない。
その為に座学を基礎とした知識編重なものにならざるをえない。

学校では全人格的な教育がされるわけではない。
基本的に評価は成績が主となる。

いずれにしても、昔は、向学心がなければ教育は成り立たなかった。
学は、志すのである。
学ぶ意志のない者を教えることなできない。
つまり、向学心の源は意志であり、目的である。
だから、今の様な制度的な教育が成り立つ以前は、学ぶ目的を明確にすることが求められた。
教育とは、本来、合目的的行為である。

他人(ひと)に教えを請う時は、その目的を明らかにすることが求められた。
特に、生き方を学ぶときは、その覚悟も問われたのである。
僧侶は、門前で三日、覚悟を問われたという。
学ぼという事は、修行でもある。

目的を明確にしたら次に師を求める。

学ぶためには、自己紹介が求められた。
自分とは何か。なぜ、何を、学ぼうとしているのか。

現在、教育は、義務である。制度である。
まぜ、教育を義務化する必要があるのか。
それは、国民国家という国家の在り方に深く関わっている。
なぜ、国民国家は、教育を義務化する必要があるのか。
それは、国民国家は、国民の合意を前提とした体制であり。
国の成り立ちや、仕組みを全ての国民に知らしめる必要があるからである。
国民国家で教育が義務なのは、建国の理念に基ずくのである。
建国の理念とは、国家の礎となる思想である。
この事を、決して忘れてはならない。

この様な教育は、権利ではなくて義務なのである。

教育は、権利である以前に義務である。
国民が義務としての教育を受け入れた時、教育は権利へと昇華される。

今の教育には根本となる魂がない。
つまり、どのような、理念、理想のもとに、どのような国民を育てようとしているのか。
根本が明確でない。
また、根本が明確にできないとしても、それを明確にしようとする熱意がない。
ただ、与えられた者を後生大事に守っているだけ。
親の心、国民の心が籠っていない。
魂のない肉体は、骸に過ぎない。
醜悪なだけだ。
だから、今の教育は、神なき宗教のようなものだというのである。