人間はどうなるのでしょう。
この国は、やっていけるのでしょうか。
と問いかけた時。

優しく微笑まれ。

人は、死ぬのですよ。
いつかは、死ぬのです。

と答えられた。

死という現実の前に、人は無防備なのです。
死という現実を目にしたら、人は、誰でも、怯え、恐れるものです。
そのことを忘れてはなりません。

どんな独裁者も、金持ちも、権威ある者も、賢者も、聖人も、英雄、豪傑も。
死から逃れられません。
内心は孤独なのです。
救いを求めている。

あなたの問いの対する、答えになっていないかもしれませんね。
でも、あなたの望む答えなどないのです。
答えは、あなたが出すのです。
答えは、あなたの生き方によって、証明するのです。
あなたのために。
答えは、自分で出す事なのです。

神は答えなど求めてはいないのです。
神が求めているのは証です。
あなたが、何を信じ、どのような生き方をしようとしたか。
そして、あなた自身が、あなたの信じた生き方ができたかの証です。
無論、何を信じ。
何を望んだか。
どのような生き方をしようとしたのか。
何を、志したか。
それは、あなたの問題です。

一人の独裁者の出した答えで、人類が亡びると思いますか。
信じますか。
その問いに、あなたは、どのような答えを出すか。
それがあなたの答えです。

神の力を手に入れたとしても、神の力を制御する心がなければ、かえって、手に入れた神の力によって身を亡ぼすことになる。
自制心がないのなら、分不相応の力を手に入れるのは、かえって災いの素になる。

問題は、あなたの出した答えを、あなたは信じられるかどうか。
信じられるようにするのは、あなた自身。
神ではない。

そこで、神は、あなたに問うのです。
それでも人は、滅びるのかと。
あなたは、何を信じ、何を守ろうとして生き、そして、死んでいくのかと。
神が求めているのは答えではなく。
証なのです。

そして、人は死ぬのです。
誰もが、いつかは死んでいくのです。
問われるのは、なぜ死ぬのかではなく。
いつ死ぬのかでもなく。
何を信じ。
いかに生きたかです。

問題は、あなたの出した答えを、あなたは実践できるかどうか。

人は、誰もが、何も身にまとう事を許されず。
最後に、神の前に立たされるのです。
裸で、一人、神と対峙するのです。
その時、問われるのは、お前は、何を信じ、いかに生きたかです。
その時、問われるのは、答えではなく。
証です。

あなたを見ているのは、あなたの心の目です。
他人は欺けても、自分の目は欺けない。

あなたは、神に問うべきではない。
あなたに、問うべきなのです。
それでも、人類は亡びるかと。
答えを出すのは、神ではなく。
私たちなのです。