快楽主義者と自由主義者は、言っている事はよく似ている。しかし、やっている事、生き様、内心は、全然、違う。

スポーツが良い例である。ルールに精通し、肉体を鍛えることによって物理的制約を最小限にすることによって、自分の行動の自由を実現する。それが、スポーツの究極の目的である。そして、それが自由の実現である。しかし、近代スポーツは、その本来の目的を見失いつつある。つまり、スポーツの目的が、副次的なもの、報酬や名誉というものに取って代わられつつあるのである。その結果、ルール至上主義や商業主義がはびこるようになってきたのである。

ルール至上主義は、ルールさえ守っていれば何をしても良い。つまり、人格や人間性は関係ないという考え方が台頭してきている。それは、法さえ守っていれば、後は、どうでもいい、それが、自由なんだという考えに通じる。また、ルールさえ守らなくても、ばれなければ良い。商業主義が支配する事によって、儲かればさえすればいい。勝敗が、全てだと言う極端な考え方をする者も出てきた。彼等は、功利主義者であり、自由主義者ではない。しかし、自由主義者と功利主義者とを見分けるのが困難なのである。

なぜなら、我が儘、放縦から出たのか、強い意志から発したのか、外から、他人からは伺い知ることはできない。それが、自由主義の限界である。

自由主義は、理性と道徳と自制と主体性を根本とした思想である。自由主義者は、自主性を旨、第一とする。皮肉なことに、それが、自由主義の限界の原因となっている。つまり、外部の法に触れない限り、原則的には、その人間の意志でなければ、その人間の行動は正せないのである。そのために、あたかも法が全てであるように錯覚させる。法を犯さなければ何をしても許される。そう、錯覚するのである。

自由主義は、個人の理性に立脚すれば、悪は、淘汰されるという信念に基づいている。それでありながら、善と悪との判断は、純粋に個人の問題であり、一致しないことを前提としているのである。

現実は、悪貨が、良貨を駆逐するというのが、解っていながら、良貨は、悪貨を駆逐するという信念に、基づかなければならないのである。これは、自由主義につきまとうジレンマであると、同時に、利己主義や快楽主義が、つけ込む隙でもある。

それ故に、自由主義者は、自分の内と外にある、利己主義や快楽主義と、戦い続けなければならない。

この様な自由主義の限界を補うために教育が必要なのである。つまり、自由主義的な教育の根本は、道徳である。また、観念や知識ではなく、行動規範である。そして、自由教育の本質は、経験主義的なものであり、集合教育的なもの、座学的なものではない。自由は、知識ではない。自由は、生き様である。だから、経験的にしか教えられないのである。

自由主義者は、誘惑に勝たなければならない。自由主義者は、誘惑と戦わなければならない。自らの行動を正当化するいかなるものもない。自らの過ちを潔しとはしない。自由主義者は、自らの正義に妥協はしない。自らに過酷なほど厳しく。結果的に、禁欲的な者が多い。多くの宗教者が、自由を求めて修道的な生活に入った。つまり、自由に大切なのは、克己心である。快楽主義者は自由主義者の対極にある。自由とはそういうものである。