僕は、神の救済に関して、人間は、長い事、勘違いしてきた気がするのですね。
神の救済というのは、魂の浄化と心の安寧だと思うのです。
仏陀は、自己の救済を自己の内面に求めますが、それには、限界があると。
人は他人を許すのは難しい。それ以上に自分を許すことが難しい。
自分で自分の罪を許すことは、自家撞着、自己矛盾、独善に堕ちる。
それでは、自分を許す事にはならない。
むしろ深い闇に堕ちていくだけです。
だから、自分を許す存在を自己を越えたところに求めなければならない。
自己を超越し、善にも悪にもとらわれない存在。絶対的存在。
それが神です。
人は弱いもので、些細の事でも、自分が許せなくなる。
そして、それが、心の奥に沈潜し、いろいろと悪さをするようになる。
人を狂わせもする。
だから、日々、神に自分の罪を懺悔し、許しを請い、魂を浄化させ続ける必要がある。
毎日、懺悔し、悔い改める。
懺悔したら悔い改める。
そうすれば、何でも許してくれる。
この世に存在し続ける限り。
それが、僕の神です。
故に、神と自分とは一対一の関係にあり。
神と自分との間に何ものも介在させてはならない。
自分の目は、神の目と一体となり。
自分の行状を見続ける。
他人をごまかせても、自分はごまかせない。
懺悔し、本心から、悔い改めれば神は、いつでもどこでも許してくれる。
ですから、神は過去にも未来にも存在するのではなく、今、この瞬間におられるのです。
常在。
それが神です。

人間の意識は不完全で、絶対とは言えない。
故に、人は過ちを犯す。
故に、その時その時、顧みて自らの過ちを正し続けるしかない。
そうなると、絶対不変な存在と何らかの形で結びつく必要がある。
その様な日々の研鑽によって安心立命の境地に到達する。
それは、世俗を否定するのではなく。
日常生活のなかにこそ活路を見出す。
それが私の信仰です。

人は年をとると狡猾になり、死に対して臆病になりがちである。
それは、多くの死に出会うからかもしれません。
綺麗に年をとると言うのは難しい。
人が純な魂を保つためには、常に反省し、懺悔し、魂を浄化し続けるしかない。

日に新たに。日々に新たに。
刹那的というのではなく。
その時その時、最善を尽くし、神に、救いを求め、感謝する。

志半ばというが、志しなんていつも半ば。
志を遂げたら、どうするの。
志ある者は、永遠の過客。

僕が、他の人に援助するのは、僕自身への救済でもあるのです。

仮に人類が滅亡したとしてもですね。
自分の死とどのくらいの違いがあるのでしょうかね。
自分の死を恐れる気持ちと人類の滅亡を恐れる気持ちは同根だと思うのです。
何事にも終わりがあるとしたら、終わりを恐れる前に今を生かしてくださる神に感謝し。
今のこの時を、最善を尽くして生きる。
その為には、どうしても信仰の力が必要となるのです。
どうしても、くよくよと思い悩む。
良心の呵責というやつでね。
あの時、ああしとけばよかった。
あんなに酷い事を言わねばよかったとね。
しかしそれでは、いつまでたっても心の平安、安寧は得られません。
だから、その時は潔く、自分の罪を認め、神に許しを請うのです。
それが私の神。
私は、神以外恐れはしませんし。
私と神とは、常に一対一でしかありません。
その時その時自分は何を善としたかでしかない。

人類が戦争によって滅亡する事があったとして。
それが、神の意志かと聞かれても。

私は、神の意志とは無縁だとしかいいようがない。
人の事ですよ。
人の事は人が解決しないと。
自分はそれがこそ神の意志だと。
人の悪行で神に救いを求めるのは筋が違う。
最終的には、人の理性を信じるしかないですよ。
何事にも終わりがあるとしても。
愚かな終わり方はしない。
そう信じるしかありませんね。

神は、人類が現れる前から存在し、人類が滅んでも存在し続けるでしょう。
神を必要としているのは、人であり。
神は、人を必要とはしていない。
この限られた人生の中で、人は、自分を尽くすしかないではないですか。
それが幸せですよ。

ひょとしたら人は、自分を演じているのかもしれませんね。
でもそれはそれでいいじゃないですか。
悲劇の主人公だったり、喜劇役者だったり。

考えてみると、自然界は、殺しあう事で均衡が保たれている気がします。
動物は食べられる物が定められ、食べられるだけの食料を食べ尽くすとそれ以上は生きられない。
だけど、人間は、雑食だから、その制限を取り外し。
でもそれは不自然で。平和、平和と言いますが、平和になるために殺しあわなくてもいい仕組みを作らないと。でもその仕組み自体は不自然なんですよね。
人は、ずっと神にたてついてきて。間尺が合わなくなると、神が悪いと神の性にする。

一寸の虫にも五分の魂。
ちっぽけかもしれませんが、各々、一生懸命、生きているのですよ。

知られていませんが、物理学者にとって神学は必然ですし。
物理が、究極的に、存在と認識の問題に関わる以上、神との問題は避けられない。
担任の教授に君はアリストテリアンか、プラトニアンかと聞かれましたからね。
ニュートンが、錬金術や聖書の研究に明け暮れていたのは有名ですし。ユニークですよ。
物理学者にとって神をないがしろにはできません。
物理学者が関わらなかったら核兵器なんて野暮な物できないんですからね。

僕の神は、超越的存在です。
だから、人間の都合ではどうしようもない。
でも、神は神なのです。
神の慈悲に期待するしかない。
それほど、人間は愚かなのです。
それでも、愚かなりに努力をすべきです。
神を信じて。
哀しいですけれどね。

神に救済してもらうとして。
じゃあ何を救済してほしいのですか。
そこが問題ではないですか。
戦争と言ったて、犯罪の事だって、救いようがない事ばかりではないですか。
かといって、神は、何もしてくれないと、罵っても。

人は、死ぬ時には死ぬ。
例外なくですね。
だとしたら、死が問題なのではなく。
死と対峙するのは、自分ではないですか。
死と対峙する際と同じように神と対峙すれば、生きようも見えてくる気がして。
僕にとって神は、死神でもあるのですね。

人間は、自分たちは万物の霊長とか、この世界のすべてを支配している、或いは、できると思いあがっているが。
人間は、この世の一部でしかない。
釈迦の掌の中から寸毫も飛び出せない孫悟空のようなもので。
皇帝も、大統領も、書記長も、教皇も、大僧正も、死の影におびえて生きている。
死んだらどうなると悩んだところで、それは、不可思議な事。

人は、自分の肉体一つ自分の思い通りにできない。
自分の肉体も神から預けられた、借り物に過ぎない。
いずれは神にお返ししなければならない。
生きる事も、病も、老いも、死も、自分の力だけではに立たない。
容姿も、能力も、生まれた時から違う。

現実には、人間なんて本当に限られた狭い世界に住んでいるわけで、人口が八十億人にたしいたと言っても、八十億人の人間に関われるわけではなく。
プーチンとか、習近平とか、トランプ大統領と言えども、個人的に関われる人間なんて、我々と大差ない。
その狭い中で、人間の命運を分けるような大事を決定しているので。
神のごとき決断なんて、とてもとても。

人間は、わかっているようでわかってない。
医学が発達して、確かに多くの病気を治療できるようになったとしても。
それは、やっぱり、自然の力を活用にしているのに過ぎない。
病気を治すことはできても病気をなくすことはできない。

どんな医術だって神の厳格な定めがあるから効能を発揮するので、人間がなにもないところから生み出した事ではない。
どれほど医学が発達したとしても、生病老死の定めから逃れられはしない。
人間は、命を司る、神の圧倒的尊厳を疎かに考え、命を弄んでいる。
生命の神秘は、深遠で、虫や細菌にいたるまで、深遠で計り知れない。
未だに、人間が立ち入れない世界である。
この世界は、命で満ち満ちていて、人間の力ではおよそ、表の世界しか見えてこない。
人間の栄耀栄華など、一瞬の出来事でしかない。
純なる魂に戻れたら、永遠が見えてくる。
人類が滅亡するとかしないとか、世迷言でしかないのです。

病気してわかるのは、体の隅々にまで、いきわたっている、精気、命ですね。

その命が失われたら、指先だって死んでしまって朽ち果ててしまう。
凄い事ですよ。それが、神の真実の力。

爪の先から、一本いっぽんの毛に至るまで、細菌やウィルスだって、蚤のような虫や、桜の花びらや一枚一枚の葉っぱにも、それぞれ、隅々まで生きている。
そして、精緻な仕組みがある。命が宿っていて。命があるから、自律的に存在できるので。
一寸の虫にも五分の魂と。
そんなまねは、人間にはできない。
少なくとも命を生み出す事は。

多くの人は錯覚しているけれど、例えば、いくら医学が発達しても、人間は、新たに何かを生む出すということはないので。
科学技術が発達しても、元にある原理、原則、方程式は、何も変わらないので。
それが真理です。

そして、その究極的な根源は命ですよ。

この世界は、命あるもので満ちているのですから。

人類を滅亡させる力があるのと、滅亡させるのも、滅亡するというのは、別の事というか別の次元の事で。

人間は根源的な事は何も変えられない。
変えられるのは外形的な事だけですよ。

人は誰でも、自分の意志ではどうしようもない事がある。
そこに神が宿っておられるのです。

だから、人類が滅亡したって、絶望する必要はないのです。
根源にある命が失われる事はないから。