仕事には始まりと終わりがある。
まず、仕事始めは、正式な開始点、すなわち、出発点を定める事である。
どこを正式の出発点とするか。
これが、意外と難しい。

始点は、どこに定めるかは、意外と難しい。
開始イベントは、一つと限定されているわけではなく、必要に応じて設計して組み立てたらいい。
始点を設定できたら、次は駒組だよね。
駒組というのは、組織、体制の組み立てだね。
将棋でいえば美濃囲いとか、櫓囲い、穴熊ね。
要するにどう王将を守ってどこから攻めるか。
オフェンスの形とディフェンスの形を構築する。
スポーツでいえば、フォーメーションや配置を言う。
これを最初に設定する。
まずコアになる部分を形成させる。
これは核を作るのと同じ、結晶とか、細胞のね、核となる部分を構築する。
組織は、一人ではできない、中心、核心となる人が手を挙げて声掛けをする。
それに呼応する形で、核を作る。
核心となる人が責任者を決め、責任者と相談して担当を決める。ここが種子となる。
この辺をね、どう描くか。
狙っていかなければ。

駒の動きというのは、基本的に変わらない。
飛車は、飛車の動きをするし、歩は、歩の動きをする。
カギを握るのは、駒の位置と駒と駒の関係、つながりである。
だから、駒組が決定的な働きをする。

仕事は、形から入る。
変革したければ形を変える。

形を見る。
形から読む。
形を作るということを覚えることですよ。
戦略は形ですからね。
だから、戦略は、アート、芸術美学なんですよね。
この辺がね、日本の学者さんにはわからない。
儀礼や、シンボルの意味が理解できないんだよね。
これは奴隷化政策の典型だよね。
世界では通過儀礼の重要性が叫ばれ、イベントが重視されているのに、日本では、儀式やシンボリを無意味化、軽視、侮蔑するように刷り込まれている。
そうすることで、社会が自壊するように時限爆弾みたいなものが仕込まれた。
その一つの典型が、学校から予礼、始礼、終礼が廃止されたことだよね。
その成果が、今の日本の現状ですよね。組織や社会が溶解し始めている。
通過儀礼の働きは、通過儀礼には、段階があり。
形を見る。形から読む。
形を作るということを覚えることだよ。
戦略は形だからね。
だから、戦略は、アート、芸術、美学なんだよ。
この辺がね、日本の学者さんにはわからない。
儀礼や、シンボルの意味が理解できないんだよね。
これは奴隷化政策の典型だよね。
世界では通過儀礼の重要性が叫ばれ、イベントが重視されているのに、日本では、儀式やシンボリを無意味化、軽視、侮蔑するように刷り込まれている。
そうすることで、社会が自壊するように時限爆弾みたいなものが仕込まれた。その一つの典型が、学校から予礼、始礼、終礼が廃止された。
その成果が、今の日本の現状だよね。組織や社会が溶解し始めている。
通過儀礼の働きは、通過儀礼には、段階あり、第一段階が始まり、第二段階が過渡、第三段階が終盤。
儀礼の働きには、開始、分離、中継、統合、終了。
この五つの働きが、組織を動かしている。
そして、この五つの働きは、形によって制御されている。
この五つの働きを制御する形が、読めるようにならないと、組織は操縦できない。
会議には、会議の形があり、個々の作業には、作業の形がある。それらは、仕様として表すことができる。それが要件定義とか、仕様設計という作業。
仕事始めは、正式な出発点、開始をどのように設定するかにある。
正式な出発点を決めないと正式な仕事は始まらない。
だから、形を作る。
最初の形は種子となるようなもので、最初の形ができるとそこから仕事の芽が出る。
会議には、会議の形があり、個々の作業には、作業の形がある。
それらは、仕様として表すことができる。それが要件定義とか、仕様設計という作業。
仕事始めは、正式な出発点、開始をどのように設定するかにある。
正式な出発点を決めないと正式な仕事は始まらない。
だから、形を作る。
最初の形は種子となるようなもので、最初の形ができるとそこから仕事の芽が出る。

言葉だけでは、組織は、動かせないというのは、世界の常識であり。
だから、シンボルとイベントを重視する。
特に、民主主義では。そして、シンボルとイベントの意味するところを読む。
典型はサミットの席次。首脳陣の写真の位置。
ナチズムの研究、社会主義国におけるイベントなんてね。
ところが、日本人だけは、なぜか言葉だけで組織を動かすように仕向けられる。
そして、イベントやシンボルの蔑視を心の奥に刷り込む。
日本の似非インテリは、儀礼やシンボルの意味を理解できない。
単なる儀礼、形式としか捉えられない。

言語は、音声だけで発せられるわけではない。
挙止動作によっても、あるいは、服装や装飾、旗、指物、印章によっても表現される。
要は形である。
いわゆるボーデランゲージである。シンボルやイベントも含まれる。
この場合、挙止動作の持つ意味は、いわゆる、心理学でいう意味ではなく。
明らかに意図をもって表現される意味である。

正式に開始イベントを設定しておかないと、仕事全体を統制することができない。
第一、正式な仕事は始まらない。
正式に仕事が始まらなければ、非公式に既成事実を積み上げていく形をとらざるを得なくなる。
だらだらと仕事を始めて、既成事実を積み上げていく形になるから、けじめがつかず、足並みがそろわなくなる。最初からバラバラに始めることになるから統制は、最初から取れない状態に陥る。
また、目的や目的が設定されないから結果が出ても、結果を評価する基準がないから、反省することもできなくなる。
当たり前に評価もできない。
結果から目的を推測する以外にない。
結果によって目的が導き出されるといった逆転現象が起こる。

正式な形は表の顔になる。
正式な形ができないと裏の組織、非公式な組織を活用せざるをえなくなる。
最初は種子となる部分を作る。
種子ができればそこから仕事の芽が出て、仕事が育つのである。
仕事の形を作って魂を吹き込む。
仕事の形とは、組織体制である。アイデンティティの欠如招く危険性がある。
引きこもりや鬱なんて典型だよね。

ただ形を軽視していると、イベントとシンボルの効用が、理解できずに社会に入ることができなくなり、強烈な疎外感や、孤立感に陥りやすい。
その場合は、何らかのイベントを作るしかない。

組織は、一人ではできないので、一人から二人、三人へと置き換えていく。
これは、老子の中に一から始まり、二で分かれ、三で生まれるという形で現れる。
まあ、数学史を見ると典型ですよね。
僕なんかは、開始、分離、中継、統合、終点という風に五つの働きで考えますけど。

ですから、組織の形は、呼びかけから始まり、子を産んで形にする。
つまり、責任者を決めて、責任者と相談の上担当者を指名するみたいにして開始しますね。
ただもこれでは正式な形にならないので、正式な形は別途考える。

正式な仕事は、宣言に始まり。宣言で終わる。
宣言とはコールである。
プレーボールで始まり、ゲームセットである。
ただいきなり、プレーボールとはいかない。
まず、出だし作業がある。これが呼びかけである。
基本的、集まれ。集合。この指とまれである。
チームワークは集合から始まる。
次に整列、番号と点呼に続く。
これを現在の学校は否定して廃止してしまった。
要は命令は、強制的だから悪だというのである。
馬鹿げている。そのために、組織の起動操作ができなくなってしまっている。
それが、現在の混乱の原因である。
仕事が始まらないし、決められないのである。組織が動かない。
何度も言うが、組織はシステムなのである。
システムには、機動操作がある。
組織もスイッチを入れなければ動かない。
言葉は、言葉としての意味以上に、組織においては、信号としての役割を果たしている。
この点を組織の構成員、メンバー全員が暗黙に了解しておく必要がある。
野球を始めてから野球のルールを一々教えるわけにはいかないのである。
最低限のルールは、ゲームが始まる前に周知させておく必要がある。

出だしコールは、「何々する者この指とまれ。」と呼びかける。
あらかじめ何をするか決めて呼びかけをする場合と、単に集まれと呼びかけをする場合もある。その場合は何をするかを最初に決める。
じゃんけんで決めるとか、くじ引き、中には、権力的に決めることもある。
何をするかを決めたら、次に、鬼や親を決める。
親や鬼は、ゲームをリードする役割を果たす。
ここで、集まりの性格付けがされる。

これを仕事に置き換えると、何らかの決定が下されたら、あるいは、指示が出されたら、速やかに、部下、あるいは、関係者を集めて仕事の開始を宣言する。
そして、担当責任者を決めて、責任者と相談して担当者を決める。
主旨、目的、基本的考え方、方針などが定まっている場合は、併せて伝える。
目的は、主旨を要約したことであり、出発点を明確にする働きがある。
ゆえに、目的は一言に要約するようにする。

声かけなんて形は、神話によく出てきますよね。
だから、構造主義では、神話は、重要な研究対象になる。
でも、日本人はね。
本質的なことが理解できていないから、構造主義といっても、本質が理解できていない。
ただ僕は、生成文法みたいな言葉、論理に囚われてしまうと限界が見えてくるなと感じていましたけどね。

僕は、物理も数学も形式論理だから、構造的に展開すべきですよって、だから、頭の中に一定の描像を浮かべて操作しないとなかなか理解できない。
例えば、物体の運動を目に見える現象にとらわれず空間の歪みとしてとらえられないと。加速度運動も空間のひがみとしてとらえると別の角度からとらえられると。
そう担任に言ったら、難しい事を言うとつぶやかれましたが。
アートですよ。科学なんて。
だから限界があるんですけどね。
自然の風景を理屈で考えます。
美術というと小難しい理屈をつけたくなる。
でもきれいなものはきれい、醜いものは醜いと感じる心が問題なんで、だから、本質は、対象側にあるのではなく。
自分の側にある。
美術というと美にこだわる。
しかし、戦争の醜さを描きたければ、醜く感じさせられなければね。
美しいばかりが芸術ではない。
その究極に自然があって、自然の風景は、理屈があるわけではなくて、感じるんですよ。
だから、すべての科学は、直観に基づいているんですよ。

なぜ、文系の人間が理系の人間を敬して遠ざけるのか。
それはあの確定論的、演繹的な論法に辟易とするんでしょうね。
だから、科学は、形而上的問題を棚上げすることで成り立っているんですからね。そもそも。
根本は曖昧模糊としているんですよ。
だから、理系の人間は、理系の人間で文系の人間を敬して遠ざける。