一日の仕事も終わり。
ユックリと湯舟に体を沈める。
家の風呂は、ユニットバスで、狭いながらも取り敢えず足は伸ばせる。

風呂場と言うのは、壁に囲まれた空間である。
温泉の大浴場や露天風呂も壁で仕切られていることに変わりわない。

それは、トイレの中も、エレベーターの中も同じ。
ウクライナではそれが信じられなくなり、日常生活が崩壊した。

ルームは、壁に仕切られ、一つの空間を構成する。
一般に、部屋と部屋を結びつけているのは、ドアである。

ドアを閉めてしまえば、外の世界とは隔絶されてしまう。
壁を一つ隔てたら未知の世界である。
そこで何が起こっているかは、実際はわからない。
ただ、変わりがないと信じているだけで。
それが信じられなくなったら怪奇な世界。
でも、本当のところは知りようがなく。
ただ信じているだけに過ぎない。

これは、プーチン大統領であろうと、バイデン大統領であろうと、ゼレンスキー大統領であろうと、フランシスコ教皇であろうと、一兵卒も、農民も、変わりない。
人は、自分の見える世界の中で生きている。

扉を見ていると、時折、人は、不思議な感慨に襲われることがある。
扉は、人を恐怖に落とすこともあるし、好奇心に引き起こす事もある。
恐ろしくても、興味を抱いても、いずれにしても、人は、扉を開いて、扉のあなたを覗いてみたくなる。
扉を開くために必要なのは鍵である。

人は、ドア一つ、壁一つで、自分の世界を仕切られるのである。

我々は、扉の向こうの世界も、自分の世界の延長線上にあり。
自分の世界とつなっがていて、見慣れた風景が拡がっていると確信している。

時間と空間は、物理を学ぶ者にとって、前提を定義すべき大事である。
前提とされた時間と空間の上に、現象や対象の位置と運動と関係は成り立つ。

自分の世界を、普遍化し、自分の世界の空間と時間を延長し、それを信じて生きている。
ある意味で、自分の外の世界は、想像の産物なのである。
この点を錯覚すると、重大な過ちを犯す。
自分の世界を敷衍化しているにすぎない。

人は、自分の見える世界、知りうる世界が全てだなんて思ってはいない。
自分が絶対だなんて思てなんていない。
人は自分が狭い世界に生きている事は、わかっている。
自分の生きている世界は、全世界の一部だという事はわかっている。
人は、自分の世界の外にある世界がある事を知っているし。
外の世界でなのが起きているかもわからないと思っている。
だけれども、扉を開ければ、いつもと変わらない風景が拡がっている事を信じている。
いつもと同じよう日は昇る事も。
信じて、疑っていない。
信じているからこそ、安心して生きていけるのだし。
世の中も成り立っている。

でも、なぜ、信じているのか。
信じられるのか。その先は、信仰の問題なのだ。
多くの日本人はそれが解っていない。
科学を信じているからと言うのは欺瞞である。
科学は、本源的な、絶対的な答えを持っているわけではない。
存在は、存在なのである。
存在は、前提なのである。

真の奇蹟は、死者が生き返ったり、天地が裂ける事ではなく。
今日と同じように、明日も日が昇る事。
当たり前な事が、当たり前である事なんだ。

自分の世界なんて大海の浮かぶ小島、小舟の様なもの。
海の底には何がいて、何が起こっているのか、わからない。

所詮、人は、向う三軒両隣の世界で生きている。
大統領だって、庶民だって、自分の世界から出ることができないのは同じ。
誰だって、一日は、二十四時間。
一日に会える人の数は、限られている。
食事も睡眠もとらなければならない。
排泄もしなければならない。
そして、死は一定。
人は、限られた時間、限られた空間の中で生きている。
何もかも承知してできるわけではない。

死んだ友も、死を知らされなければ、自分の世界では生きている。
ウクライナでは、自分の父や子を戦場に送り出している。
また、多くの家族を送り出している。
彼等の安否、消息が確認できない限り、自分の世界では彼等は生きているのである。

テレビや情報技術の発達は、自分が知りうる範囲を拡大させはした。
しかし、映像や動画は、情報をかなり省く。
血の匂いも、硝煙の熱さも、爆風も伝えてはくれない。
画像や動画ですべてが伝わるわけではない。
映像で見れるからと言って万能感を持つのは、短絡的。

ドラマや、小説、映画等には、ドアを開いたら全く違う世界が広がっていたなんて話がよくある。
ドラえもんは、「どこでもドア」が有名だけど。
人は、それが空想だと思うから見ていられる。
しかし、それが、現実になったら、いつまで、正常さを、平静さを保てるであろうか。

ウクライナで地下壕に避難している市民の多くは、ドアの向こうの世界が信じられないでいる。
ドアを開けたら銃を持った兵隊がたっているのではとビクビクしている。
懐中電灯を持たずにトイレに行けない。
見えるのは、懐中電灯が照らす先だけ。

人は、自分の世界を成り立たせる、より大きな世界の存在を前提としなければ、自分の意識を保つことはできない。
自分の世界にある、より巨大で、自分が生まれる以前から、死んだ後迄、存在し続ける空間と時間の存在を前提としない限り。
今のこの時間を、自分の存在を信じる事はできない。
自分を超越し、統一的で、絶対な存在。
それを、意識しようと、しまいと前提とし、信じない限り。
意識の統一を、自己のアイデンティを保つことはできない。
自己を超越し、唯一で絶対な存在、それが神である。

神の名の下に自分の行いを正当化するのは愚かである。
なぜなら、神は善悪を超越した存在。
誰に、申し開きをしているのか。
人は、自らの行いによって裁かれる。
自らの行いに責任を負うのは、自分である。
自分の行いを、他人の性にするから、抑制が効かなくなるのである。
間違えてはならない。
残虐、残忍な事を許すのは人間であり、神ではない。

仮に、滅亡する事があったとしても、それは、人の意志の依るのであって、神の意志ではない。
残虐な行為に対する報いは、人の罪であり、神の罪ではない。
人が破滅するのは、人の意志による。神の意志ではない。