科学者も技術者も、根本は、シンプル。
単純明快だと言う事を覚えておいて。
科学者は、複雑な事を単純にする。
単純な事を複雑にするのは素人。
プロは、単純明快、分かり易さを旨とする。
日本人ならなるべく日本語を使う。

例えば、システムの基本は、結合、分岐、反復の三つの要素組み合わせるだけ。
基本は、ONとOFFの二進法。これはスイッチのON、OFFに起因する。
つまり、入力と出力に起因する。
だから、数字も二進数、二進法。それだけ。

それだけで。何百万、何千万、何億ものステップのプログラム組み立てる。

そうなると、根っこの原理は、単純明快、誰にでもわかるようにしておかなければならない。

だから、科学者も技術者も単明快な数式を見ると美しいと言う。
おかしいだろう。
でもプロと言うのはそういう者。
無駄や、余計な事を嫌う。

二進法と言うのは、要するに、はい・いいえをはっきりさせろと言う事に尽きる。
つまり、ONか、OFFね。
やるのかやらないのかハッキリしろと言う事。
ON、OFFを組み立てながら、複雑な事も明確にしていく。
曖昧な事も、極力、確かな事に置き換えて不確かな部分を減らしていく。
だから、分析な要諦は、確かな事と不確かな事を振り分け、確かな事から潰していく。
そして、何が不確かなのかを見極めたうえで、確かな事土台にして、曖昧さを減らす。
不確かな事ばかりに囚われると直感を頼るしかなくなる。
多くの人の誤解は、科学は、複雑怪奇な問題を明らかにしようとしていると思い込んでいるがそれは文学の世界。
科学は、確かで当たり前な事を突き詰めているに過ぎない。
だから、退屈と言えば退屈。

自分が若手に仕事を任せるのは、必ず、自分よりいい仕事をしてくれると信じているからで。
仕事を任せられないのは、自分のほうがうまくやれると思っているからで内心は、自分よりうまくやられてたらどうしようと戦々恐々している。

任せられないのが恥。

任せてやらせなければ、いつまでたっても仕事は覚えない。
できないからといって、任せなけれなければいつまでたっても、できない。
経験していない事は、任せられないる夕にはならない。
なぜなら、経験しなければ、経験できない。
やらせないで、経験不足を理由にやらせなければ、経験はできない。
かといって、経験が不足しているのがわかっていながら、何も指導も、監督もしないで、いきなりすべてをやらせると言うのは無謀だし、苛めに過ぎない。
任せてると言うのは、丸投げする事を意味するのではなく。
未熟な者に任せるの時は、教えてやらせて、最後は確認し、自分が責任を持つ事を意味する。

リーダーは、自分がわからなければ、メンバーに聞けばいい。
自分がわからない事を尋ねたからと言って、メンバーが、リーダーを馬鹿にする事はない。
聞く事ができなければ馬鹿にされる。
なぜなら、リーダーは決断するのが役割だから。

任せられる人間がわかれば、リーダーは楽になる。
自分が抱えている限り、救われない。

リーダーの技能は、自分より優秀なメンバーをどれくらいリードできるかで問われる。
自分が総てにおいてメンバーの誰よりできるなんて自慢するのは、リーダーとして自分の無能を曝しているだけ。

現場の事がわからなければ、駄目という人間をよく見受けるが、自分のいっている意味を正しく理解開いているもンおは少ない。
要は、現場の事は、現場に聞けであり。
現場の事を知りたければ、現場に行けで。
過去に現場を経験していても、五仰げばお琴はわからないと考えるのが基本である。

怖いのは、過去に現場を経験した事で今の現場の事を分かっているつもりのなっている事である。

わからなければ、わかるまで聞く。

リーダーは常に、誰に任せるのかを真っ先に考える。
なぜなら、リーダーは、要、まとめ役だから。
リーダーは、メンバーの話を聞いて、誰に増せるかを考える。
監督は、ピッチャにボールを投げさせて、誰を先発させるかを決めるのが役割。
自分がボールを投げるわけではない。

計画は、実行することを前提、想定して立てられなければならない。
つまり具体的な作業、人、物、金に結びつくように話を詰めていく。
最終的には作業使途にまで詰める。

だから、最後まで、詰めないと、計画倒れになってしまう。
また、最後まで通しで経験しないと、全体の手順は修得できない。、

大項目、中項目部分だけで、既に、三層の構造になる事がる。
別に、それ自体が悪い事ではない。
ただ。作業間おレベル合わせが難しくなるだけだ。
項目を突き詰めていくと結構階層が深くなることがある。

小項目で、構成を決め、詳細で要件、仕様を詰めていく。
小項目、詳細を詰める段階で、作業を洗い出していき、担当と仕様を決めていく。

作業を直列に繋ぐか、並列に繋ぐかを決める。

必要に応じて、サブプログラム、個別計画を切り分ける。

やるのか、やらないのか。
決まったのか、決まったないのか。
どっちつかずが一番悪い。
一見、どっちでもいいように見えるが、実際は、どっちのしても、悪いからである。
何でも曖昧にしておけばやらなくてもいいと思ている愚か者がいるが、それだは何もできない。
結果が出なければ許されると思い込んでいる。不幸な人間である。
不決断は最大の誤はんだん。
決めなければ、決められれなくなる。

教えてもやらなければ身につかない。
教えてもやらないもの。
だから、教えるの嫌なんだ。
厭になる。
やらなければ、教えた事だけが残る。
やらなければ、身につかないし、自分のものにならないと言うのに。
教わったけで、何もできなければ、教えた人間、教え方が悪いとされてしまう。
だけど、いくら教えても、実行しなければ、結果は出ないし、修得出来ない。
酷い話、教えた事と違った事をしていながら、教えた人間に背金を転嫁するものも現れる。

指示したことを指示した通りやって失敗したら背金のとりようがあるが、指示した事と違う、場合によっては正反対の事されて責任を問われるのは心外である。
厭らしいのは微妙に違う事、一見、どうでもいいような事で違う事されて、それが、原因で失敗しても言われた通りやったと、言い張られる時である。

最初のセティング、設定を間違うと後、尾を引く。
だから、なんでも直後に打ち合わせをしろと。
簡単な話、直後にだれかに伝えて記録するだけでも違ってくる。
要は、パッチンと接続するようなこと。
会議で出た結論や指示、前作業と甲地と接続をするこれが結構難しい。

再現性が重要なのだ。
忠実に、指示されたこと、決められたことが再現できるか、それが肝であり、カギとなる。

再現するというのは、一言一句、間違いなく再現することを意味する。
ところが、学校では、自分の言葉に置き換えろと教える。
自分の言葉に置き換えろということは言い換えること意味する。
それでアウトである。
再現性は営業では厳格に求められる。
客の注文を正確に再現することが求められるから。

再現できなければ、言われた通りにしようがない。できない。
それを誤魔化すために、間を開ける。
間を開ければ、仕事の連続性、継続性が途絶える。整合性が失われる。
それで、仕事がブレる。

言われた事を言われたようにするほうが、自分がやりたいことをやりたいようにするということより、数段、難しい。
自分がやりたいことをやるのは簡単だよ。
自分は言われた通りやっていても、相手が、自分の言ったことと違うと言われたら、それまでだ。
社長がカレーを出せとカレーを出せよ。

学校で、言われたことを言われたとおりやってはならないとか。
何でも、疑ってかかれと教えるから。
それは、叛逆を絶する思想なのだ。
徹底的に戦うべき相手は、自分の意に反する理不尽な要求を強要する相手にたいしてだ。

とにかく、戦前を否定するあまり、体制の言うなりなるなっと、学校も、マスコミも。
それって、何も信じるなと教えているに等しい。
素直に、決められたことや指示に従えよ。
そうしないと、最初から、設定がぶれてしまうよ。

大体、手抜きをする理由は、面倒くさい。
仕事というのは基本的に面倒くさいことをすることなの。
面倒くさいと手を抜いたら、仕事にならないよ。
面倒くさいと、決まったことを伝えなかったり、報告をおこたたり、聞かなかったり。
確認を怠ったり。
そこから、抜け漏れが生じるのだから。